二人を紡ぐは三十一文字
駅に向かうスピードの何倍も速く自転車を漕いだ。もうじき冬に移ろう最近の気温は、息が上がった状態の肺を痛々しく刺してくる。けど、そんなこともお構いなしに、自転車のペダルを全力で回した。
「はぁっ……はぁっ……!」
冷気で肺は痛いのに、顔からは汗が一筋垂れてきた。真向から向かってくる同校の生徒たちはみな、俺のことを数奇な目で見ていたような気がする。
けど、そんなこと関係なかった。俺はやっと、俺の本音を知った。やっと、俺が何をしたいのかの答えを出せた。
今までやってきたサッカーに対しては、申し訳ないと思う。けど、後ろめたさはもうない。俺の本音は、俺の人生は俺だけが豪語できるものだ。嘘も本当も関係なく、行動が、俺の答えだ。
勇次、ごめん。けど俺は、短歌がやりたい。
何もかも諦めてた俺を、もう一度前向きにしてくれた、夕夏に報いたい。
何より、あの時、絶望の淵にいた俺を救い上げてくれた短歌を、本気でやりたい。
他の奴には、逃げたって言ってくれたってかまわない。多分、またあいつらに揶揄られるんだろうな。でも、それでもいい。
日がすっかり傾いた校舎に辿り着いた。この暗さは懐かしい。夕夏に、初めて褒められた日を思い出す。
上を向いた。四階を見ると、部室の明かりは消えていた。
帰ってしまったのだろうか。普通ならそうよぎるが、不思議と俺の頭にはよぎらなかった。
自転車を置き、校舎へと入ろうとした。しかし俺の足は、昇降口でかっちりと固まってしまった。
「夕夏……」
「あ、香月」
夕夏は昇降口の僅かな段差に、ただ静かに座っていた。まるでついさっきの表情が噓みたいに、彼女の顔はあっけらかんとしていた。
「夕夏、俺……」
「ん」
「ん?」
夕夏が差し出したのは、一本の短冊。多分、今日書いてきたものの一つだろう。その輪郭をなぞるように持ち、その中に映されたものを見た。
秋風が 空いた心を 吹き抜ける 隣のぬくもり 何か足りない
いつものような、鮮やかな世界じゃなくて。訴えかけるような情景じゃなくて。そこに描かれていたのは、ただ優しい秋景色の公園と、寂しく吹く木枯らしだった。
そこに映し出される寂しさは、経験したことのない、空虚な寂しさだった。
「……ごめん」
「全くだよ。ほんとに」
あれほど寂しそうな顔をしていたのが嘘だったかのように。この手の中の寂しさが他人事のように。今の夕夏は、すごく軽やかで、いつも通りだった。
「あの……俺やっぱ」
と言いかけたところで、夕夏は何かをもって俺の言葉を制止した。
「……ん」
「ん?」
「……これ」
夕夏が俺を制止するのに使ったのは、短冊とペンをだった。夕夏がまっすぐな目でこちらを見ているのがわかる。
何も言わずともわかる。詠め、という意思表示だ。
俺は、手に取ったペンを迷わせた。曇った視界が、薄暗い校舎を隠すようにさえぎっていた。何を映すか。何を言うべきか。何を、俺は伝えればいいのだろうか。
短歌をやると決めたはいいものの、今この場で何を伝えればいいのかが、さっぱり思いつかなかった。
筆が震えている。何も書き込めないのを、恐れているようだ。
手を震わしていると、手に包み込まれるような感覚がした。
驚いて思わず、目の前の夕夏を見た。夕夏は、いつも以上に近い距離にいた。近いのを自覚すると、金木犀の匂いが濃く香ってきた。
「夕夏……?」
「……映して」
「え?」
さらに、もう一歩。グイッと踏み込んだ夕夏に、思わず一歩たじろいでしまった。
読めないでいる俺に対して夕夏は、優しい顔をしていた。あの傷ついた顔じゃなくて。寂しさに無理矢理張り付けたような笑顔じゃなくて。ただ俺を映して、俺を見て、優しい顔をしていた。
「あたしへの謝罪も、サッカーと別れる気持ち表明もいらない。この額縁に、あんたの見てる世界を……。あたしを、映して」
息が触れる距離が、儚くも輝かしく見える。いつしか視界を遮るような曇りが、晴れ渡っているのに気が付いた。
ああ、やっぱりすごいな。彼女と過ごすだけで、俺の世界はこうも輝く。
光り輝くコートだけが世界だった俺の中が、急激に広がっていくような感覚がする。
もう、ペンの震えはなくなっていた。薄暗い校舎に浮かぶ夕夏の顔を見て、迷わずにペンを進めた。
光差す 狭き世界に 君の手が 強く儚く 俺を連れ出す
「……これが、今の俺の世界」
「うん」
それだけ言って、俺は手の中に映された世界を、夕夏に見せた。それが、俺らの仲を紡ぐ、他の誰ともできない仲直りであり、他の誰ともできない決意表明だった。




