影の第一歩
カイルが部屋を出た瞬間、背後で木製の扉がギィッと音を立てて閉まった。冷たい風が頬を撫で、フードをかぶった男の気配が完全に消える。彼は懐にしまった羊皮紙を指で軽く押さえながら、薄暗い路地を歩き始めた。
頭の中では、先ほど流れ込んできた記憶が渦を巻いている。この世界――「エルトリア」と呼ばれる異世界の裏の歴史が、まるで自分のもののように鮮明だった。
英雄たちが讴歌される表の歴史とは裏腹に、影に潜む者たちが真の支配者として暗躍してきたこと。そして、数百年前に「災厄の王」と呼ばれた存在がこの世界を滅ぼしかけたこと。その復活が近づいている兆しがあること――。
「ふん、英雄なんてただの飾りか。裏で糸を引くのが俺の仕事だな」
カイルは小さく笑いながら呟いた。
彼の瞳には、平凡な少年だった頃の臆病さはもうない。代わりに、鋭く冷たい光が宿っていた。
路地の先に広がるのは、小さな街「グレンフォード」。石畳の道に沿って粗末な家々が並び、遠くには貴族の屋敷らしき建物が見える。ここはエルトリア南部の辺境都市で、表向きは穏やかな商人の街だ。だが、カイルの頭に刻まれた記憶によれば、この街には裏社会を牛耳る「黒蛇商会」という組織が存在する。そして、その商会が「災厄の王」の復活に関わる何かを隠しているらしい。
「さて、まずは足場を固めるか」
カイルはフードを深く被り直し、街の雑踏に紛れ込んだ。
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グレンフォードの市場は、昼下がりでも賑わっていた。魚の匂いと商人たちの呼び声が混ざり合い、喧騒が耳を塞ぐ。カイルはその中を静かに歩き、情報収集を始めた。彼が「影の継承者」として受け継いだ力には、特別な能力が含まれていた。
――「影の耳」。周囲の会話を意図的に聞き取り、重要な情報を選別する力だ。
「黒蛇商会がまた妙な荷物を運び込んだらしいぜ」
「衛兵が賄賂で黙ってるって噂だ」
「昨夜、東の森で変な光が見えたってよ。商会が何か企んでるんじゃねぇか?」
カイルの耳に飛び込んでくる断片的な会話が、頭の中で繋がっていく。黒蛇商会が東の森で何かを行っている。それは、ただの密輸じゃない。もっと大きな秘密が隠されている可能性が高い。
「まずはそいつらに近づく必要があるな。だが、いきなり乗り込んでも怪しまれるだけか……」
カイルは市場の片隅で立ち止まり、目の前に広がる露店を見回した。そこで、彼の視線がある少年に止まる。
ボロボロの服を着た瘦せた少年が、露店のリンゴをこっそり懐に入れようとしている。だが、その瞬間、店主の太い腕が少年の肩を掴んだ。
「おい、ガキ! また盗みを働こうってのか!」
「離せよ! 腹が減ってるだけだ!」
少年が叫び声を上げると、周囲の客たちが冷ややかな視線を向ける。
カイルは小さく舌打ちしつつも、チャンスだと感じた。この少年を使えば、黒蛇商会に近づく足がかりになるかもしれない。
彼は静かに近づき、店主に声をかけた。
「その子、俺が引き取ります。代金は払いますよ」
カイルはポケットから銀貨を一枚取り出し、店主に差し出した。
店主は怪訝な顔をしつつも、銀貨を受け取ると少年を解放した。
「好きにしろ。だが、次はお前が面倒見きれなくなっても知らんぞ」
店主が去ると、少年はカイルを睨みつけた。
「何だよ、お前。金持ちの道楽か?」
カイルは微笑みつつ、少年の前にしゃがみ込んだ。
「名前は?」
「……リット」
「リット、か。いい名前だ。腹が減ってるなら、飯を奢ってやる。その代わり、少し手伝ってもらうぞ」
リットは警戒心を隠さないまま、渋々頷いた。
「何だよ、その手伝いって」
カイルは立ち上がり、東の森の方角を見ながら答えた。
「ちょっとした調査だ。黒蛇商会って知ってるか?」
リットの目が一瞬だけ鋭く光った。そして、小さな声で呟く。
「……知ってる。あいつら、俺の兄貴を攫ったんだ」
カイルの口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「そうか。なら、ちょうどいい。俺とお前で、あいつらを潰してやろうぜ」