あなたにとって私の存在は
分かっていたのです。
あなたが私という個ではなく、人間という種族で見ていることを。
分かっていたのです。
あなたは人間がどういうことをするのかという好奇心で私に構っていたことを。
分かっていたのです。
あなたにとっては私ではなくてもいいということを。
いつだって、あなたに飽きられることを恐れていたけれど、
きっとそれは一瞬のできごとなのだろうと
私は分かっていたのです。
出会いは偶然。
いつも通り、第一王子殿下の婚約者としての教育を受けるために王宮へ足を運び、そこで婚約者が私ではない女性を愛でるのを紅茶の奥で見て、少しの虚しさを胸に抱いた日。少しの気まぐれで図書室へと足を進めた先で、封印がかけられた書物を見つけました。
禁書ではなく、通常の本棚へ置かれていたのに興味を惹かれ開いてみれば、果たしてあなたは歓喜と共に現れたのです。話を聞けば、昔々に聖女が所有する書物と知らずに好奇心にかられて触れて封印されてしまったのだと。あなたは魔族ではあったけれど、魔族との戦争は口伝でしか残っていないほど昔に終結して以来、双方は不干渉を貫き続けています。……とは言いましても、魔族の国との境界線近くは交流をしているらしく、魔族の国の物が偶に王都へも流れてきては高値で取引されているそうなので、不干渉は名目上のものでした。
あなたは好奇心が旺盛で、他の魔族に王都までは行くなよと釘を刺されていたにも関わらず、人間に化けて来た挙句に色んなものに手を出していたのだと、それ故に下手を打って封印されてしまった上に聖女にすら気づかれずそのまま放置されてしまって困っていたと、笑って言いました。
なんだかその様子に毒気を抜かれてしまって思わず私も笑っていたのです。
口角が自然にあがる感覚に、笑ったのはいつぶりのことでしょう……そもそもどうして私は笑えなくなっていたのだったかしらと頬に手をやって思案すれば、どうしたと聞かれたので思ったことを伝えれば、なんだか変な顔をされてしまいました。けれどそれも一瞬で、人間は変なことを考えるのだなとあなたは笑って、そして、折角だからお前について回ってもいいかと聞いてきたので一も二もなく頷きました。私は、あなたとであれば、また笑えるかもしれないと思ったのです。
私が見知らぬ男性を連れているものだから、家族には怪訝な顔をされ、社交界では噂が瞬く間に広がりました。第一王子殿下の婚約者という立場もあったでしょうが、それ以上にあなたの容姿が人間ではないと思える程に美麗だったから……そもそもが人間ではないのだから仕方がありません。
家族にはどう説明しようかと悩みはしたが、いつの間にか受け入れられていたのであなたが説明したのか、何かしたのかもしれません。王家からも何も言われなかったので、何かをしたという方が濃厚でしょうね。
私の教育はほぼ終盤だったこともあり、しばらく休みをもらい、あなたの好奇心が赴くままについていきました。行ったことのある場所、行ったことのない場所、やったことのある事、やったことのない事、様々なことを記憶し、網膜に焼き付け、笑顔が溢れました。
あなたが居れば、あなたが居るだけで、私は笑うことができたのです。
たとえそれが、一時の間だけでも。
私は、あなたと──
長い時間だったのか、短い時間だったのか、体感的には分からない時間の後、婚約者にあなたと共に来るよう呼び出された先で待っていたのは、殿下といつかの女性。
私が婚約者として過ごした年月の約半分を殿下の傍で過ごしている、愛らしい女性。
彼女の身分は低く、けれど久しく居なかった聖女であったがために王宮へ来ることにはなんの障害もない。だからこそ、殿下は常に傍へ侍らせていたし、侍っていました。
その彼女は、あなたを見てすぐに魔族だと見抜き、そして、とてもかっこいいわ!ときゃっきゃという声が聞こえそうなほどにあなたへまとわりつき、腕へ腕を絡めた。あなたはそれをきょとんとした顔で見て、そして、人間は面白いなと笑いました。
その時に改めて分かったのです。
あなたは、私の名前を呼んだことはなかった。
いつだって人間としか言わなかった。
分かっていました。
分かっていたのです。
分かっていたのに。
私は、なにも分かっていなかった。
彼女は、人間なんていっぱいいるんだから、ちゃんと名前で呼んで!とめいっぱいの笑顔で自己紹介をしました。先ほどと同じようにきょとんとしたあなたは、ああ、それもそうだなと彼女の名前を呼んだのです。そして、その後に彼女が紹介した殿下の名前も。
にこにこと楽しそうな三人が三人だけで会話をする中、私は、ただ、ただ、
微笑んでいました。
私もあなたに自己紹介をしていれば、名前を呼んでもらえたのでしょうか。
いいえ、私はあなたに自己紹介をしておりました。
名前を知っていたはずなのです。
けれど、ただの一度も、私の名前は呼んでくださいませんでした。
私もあなたにねだればよかったのでしょうか。
人間なんて沢山居るのだから、と。
魔族も沢山居るのだから名前があるでしょう、と。
そこまで考えて、私は、あなたの名前も知らないことを分からされたのです。
目の前では、彼女と殿下に、自分の名前を言うあなたが──
数年後、私は殿下と婚姻を結びました。
王妃という仕事をするだけの妃、閨はなく、ただ、殿下と彼女を煩わせないためだけのお飾り。社交界では遠回しの厭味を、王宮では遠回しの蔑みを、書類上の夫と愛妾となった彼女からは直球の嘲りを。家族仲は元々良くも悪くもありませんでしたので、特に会うこともなく。沢山の人がうごめく中で、誰もいない場所で、私はずっと微笑んでいました。
そんな私を見て、あなたは初めて会った時に見せたような変な顔をして人間は変な生き物だなと仰いました。私はただ微笑みました。
私は、あなたと──いっしょに居る、それだけで幸せでした。
そう思っていたのに、私は、私を分かっていませんでした。
ずっと、ずっと、あなたと、あなたに、共に居てほしかった。
人間とは欲深いものだと、改めて、私は分かりました。
変な顔をしながら、また私の近くにやってくるあなたに、人々は良い顔をしませんでした。なにせ、私はお飾りなのです。美麗で有能なあなたが傍に居るのにふさわしくない。あなたが私へ近づくたび、どこからか書類上の夫が、愛妾となった彼女が、王が、王妃が、やってきては連れ出していきました。
あなたは私と話がしたいのだと言いました。一体、なんのお話だったのでしょうか。
それを聞く前に、私は、私を手放しました。
生ぬるい液体が床に落ちていく様をぼんやりと感じながら、それでも私は微笑みました。
完全に私を監禁状態にして愛妾を事実上の妃として扱うように書類上の夫が仰ったので、もういいかなと思ったのです。なぜなら、監禁状態になるということは、一目でもあなたを見ることがもう叶わなくなるから。瞬き一つの間だけでもあなたを見ることができなくなるならば、私はもう、ここに居る意味はないと、そう思ったのです。
それを手に入れたのは今はもう随分と前のことで、後生大事に首から下げているペンダントに入れていたのは僥倖と言えるでしょう。夫の宣言を聞いて、そこに居た国王夫妻や重鎮たちの肯定の拍手を聞いたので、皆の意識がそちらにいった際にするりとそれを出してこくりと飲み込みました。幾人かがそれに気づき、けれど声も出さずに私を凝視していらっしゃったので時間は十分。
こぷりと口から出してしまったのは生理現象ということでお許しいただきましょう。
少しだけふらつく足に最後の力を入れてカーテシーでお別れです。
書類上の夫の近くに居たあなたは今まで見たこともない程に目を見開いていらっしゃいました。
最後にあなたの新しい表情が見れて、私は、少しだけ嬉しく感じました。
ゆっくりと力が入らなくなる足に、ゆっくりと視界が暗転していく様に、なにかを叫ぶ人々の声に、そして、あなたがこちらへ駆けてくる様子に、にこりと最後の微笑みを向けて。
私は世界を閉じました。
なんとなく書き進めてたら救われなかったお話になってしまった…
魔族側から見た話もそのうち書けたらいいなと思います。