ミュウ
Mさんは、都内の高校に通う高校生。郊外の一軒家に家族と暮らしている。
数年前まで、Mさんの家は猫を飼っていた。今はもう亡くなってしまったその猫は、ミュウという名前で、グレーの毛並みが美しい、可愛らしい猫だったそうだ。
ミュウはリビングの出窓が好きで、よくのぼっては、のんびりとくつろいでいた。日向ぼっこをしたり、外を眺めたり。毎日、長時間そこで過ごすのが日課だったという。
出窓の外の景色は、特に面白みのあるものではなかった。出窓のすぐ下は、自家用車を止める駐車場になっていた。1台分の狭いコンクリートの敷地があり、その向こうにブロック塀、さらに向こう側に隣家の壁が少しだけ覗く。動くものもなければ、視界も狭い。猫にとっても、さほど面白い景色とは思えなかった。しかし、何が面白いのか、ミュウは日々、熱心に外を眺めていたという。
外を眺めるミュウは、時折妙な行動をとることがあった。大抵はお座りの姿勢で行儀よく座っているのだが、たまに左手をちょっと持ち上げた。外を凝視しながら、思わずといった感じで左手を宙に浮かす。時には、そのまま空を掻くような仕草をみせる。それはまるで、外にいる何かを狙っているようだったという。
しかし、Mさんが覗いてみても、特に何もない。鳥や虫といった猫が狙いそうなものも、隣人や通りすがりの人の姿も、その他の動くものも、何も見当たらない。一体、何に反応しているのか、ずっと不思議だった。
謎が解けたのは、ある初夏の、日差しの強い日だった。
その日、Mさんは学校の都合による休日で家にいた。家族は出勤や通学で、みな出払っていた。リビングにはMさんとミュウだけが残っていた。
ミュウは、いつも通りに出窓に座り、外を眺めていた。父親の出勤後なので、駐車場に車はなく、白いコンクリートに日差しが当たり、照り返しが眩しい。
そんな眩しさにも構わず、ミュウは熱心に外を見ていた。Mさんが確認してみても、やはり何もないのだが、食い入るようにコンクリートを見つめている。長い時間、飽きもせず一心不乱に凝視を続けるミュウ。と、不意に左手を少し持ち上げた。駐車場から視線を離すことなく、手だけがかすかに上下する。
またやってる。何してるのかなあ。
疑問に思いながらも、Mさんは踵を返し、出窓に背を向けた。キッチンの方へ歩きだそうとし、直前、何気なく天井を見上げる。あっと声が漏れた。
リビングの白い天井いっぱいに、ゆらゆらと揺れる影があった。柔らかな網目模様が天井一面に広がり、たゆたうように揺らめいている。無数の光と影が線となって、緩やかに交錯する。
それは、明らかに水面の照り返しだった。外の水面に日光が当たり、リビングの天井に反射している。
Mさんは目を見開き、呆然と揺れる天井を見つめた。脳裏に、昔、父から聞いた話が蘇る。
お祖父ちゃんのお祖父ちゃんくらいの時代かなあ。この辺はまだ田圃や畑ばっかりだったんだってさ。その頃は農家が多かったから、一軒一軒の家が大きくて、敷地も広かったらしい。うちも、もっとずっと大きかったそうだよ。庭もうんと広くて。――そうそう、丁度この辺りには、池があったらしい。大きな池で、鯉やなんかも泳いでたって。優雅だよなあ。今でもその名残がありゃ良かったんだけど。
ハハハと父の笑い声を耳の奥に聞きながら、Mさんは確信した。この天井の照り返しは、その池のものだ。かつてここにあった池の水面の反射が、今、目の前の天井に映っている。
光と影の網目はゆらゆらと揺れ続けている。見つめていると、すっと影が横切った。小さな影の塊が、右から左へ滑るように移動していく。それは、ある一点で止まると、軽やかに身を翻した。ひらりと尾びれが揺れる。
魚だ。
影絵の魚は黒く、本当の色はわからない。しかしMさんの脳裏には、鮮やかな錦鯉の姿が、ありありと浮かんだ。華やかな色彩の美しい鯉が、水中を舞うように泳いでいる。
「にゃ」
小さな鳴き声に振り返ると、出窓でミュウが左手を持ち上げていた。無意識に声を漏らしたらしいミュウは、外を凝視したまま、持ち上げた左手を小さく前後させている。空を掻く手は、何か獲物を捕えた感触を想像しているようだ。
ああ、とMさんは腑に落ちた。
ミュウはいつも、外にある池を見ていたのだ。かつて存在した池が、ミュウの目には見えているのだろう。池の中にいる、たくさんの鯉。それをミュウは狙っていたのだ。色鮮やかな獲物を捕えたところを想像し、前足を動かしていた。そういうことなのだろう。
その池が、一体なんなのか、Mさんにはわからない。いつかあった過去の姿なのか、今もそこに幻と化して存在し続けているのか、
知る術はない。ただ、なんとなくMさんは、今もそこに池が存在しているのだと感じた。
ピクッとミュウの前足が一際大きく揺れた。振り返ると、天井の真ん中で、大きな魚が身をくねらせたところだった。天井に、キラキラと光る柔らかな波紋が広がっていく。
「にゃ」
ミュウが、また小さく声を漏らした。
それからしばらく、ミュウは幻の池の魚を夢中で狙っていた。
今はもう、ミュウはいない。
数年前に亡くなり、家の中は静かになった。出窓を見ても、いつもそこにいた小さな後ろ姿を見ることはない。
ただ、幻の池の照り返しは、今も時折天井に映るそうだ。特に天気がよく、日差しの強い日には、リビングの天井いっぱいにまばゆい網目模様が揺れるという。ゆらゆらとそよぐ波のなかには、たまに、スッ、スッ、と魚影が走る。
そして、さらに時たま、その魚影の隣に、三角の耳をピンと立てた丸い頭の影が映るそうだ。なだらかな後姿は、左手を少し持ち上げ、たまに掻くような仕草をする。
そんな時、Mさんは天井を見上げ、長い時間、その小さな後ろ姿を眺め続けるという。