Anecdote.05
ディンギルディーンと別れた後、ハークは病院へとやってきていた。この辺りで一番大きな、ついでにセンターの息がかかった場所。ディンギルディーンを連れてきたのもここだ。
ガラスで出来た自動扉をくぐると、すぐに目当ての顔が見つかった。
「や」
「おう、ハークか」
白髪まざりのオールバックをがしがしと掻きながらこちらに目を向ける初老――というよりは中年終わりの、白衣を着た男性。長椅子に座り、人が少ないとはいえ仮にも病院の待合室で煙草を吸っている。
「看護婦さんに怒られるよ?」
歩み寄りながらそう言うと、男性はニヒルに口の端を持ち上げた。
「いいんだよ、風の流れは計算している」
確かに、煙草の先から流れる紫煙は真っ直ぐに換気扇へと流れていき、他に溢れる気配はない。だったら問題ないのかもしれないが、一応椅子を一つ挟んで向かい合って座った。
この男はこういう男なのだ。屁理屈をこねて、問題がないように行動する。それが一部に慕われ、大多数に敬遠され、ハークが「おじいちゃん」と並ぶぐらい大好きな、モーリアという医者だった。
「おじいちゃん」がまだ生きていた頃、ちょっとした怪我や体調不良でもモーリアに看てもらった事を思い出す。どんな怪我でも医者に連れて行った「おじいちゃん」はかなり過保護だったと思うが、どんな怪我でもきちんと対応してくれたモーリアは医者の鑑だと思った。
もっとも、病院の待合室で煙草を吸っているのを見ると考えを改めたくなるが。
「で、怪我をしているようにも見えないお前さんが何の用だ?」
ふはぁ、と煙を吐き出すモーリア。全ての煙がモーリアの後ろへと流れていく。強い風が吹いている気配は全くないのだが、ちゃんと風は流れているようだ。
「うん、こないだ持ち込んだ子の事で」
モーリアは眉をしかめて何回か側頭部を掻き、思い当たったのかポンっと手の平で頭を叩くと大きく煙を吸い込み、吐き出した。
「ディンギルディーンの事か」
独白するように言うと、先程までのだらけた目線を一転、真剣な物に変えてこちらを見てきた。
「ちょっと来い。最近お前薬取りに来てないだろ」
「あ」
すっかり忘れていた。ここのところ、全く兆候がなかったから。
「ごめんごめん、忘れてたよ」
「ったく……話もついでにしてやっから、ついてきな」
携帯灰皿に煙草を丸ごと放り込み、モーリアが席を立つ。ハークもそれに倣った。白い病院の廊下を歩き、モーリアの仕事室へと入る。
「座って待ってろ」
そう言われたので大人しく丸椅子に座った。プラスチックで出来ているという丸椅子は、木の椅子に座り慣れたハークにはどうにも合わない。もぞもぞと身体を動かしていると、すぐにモーリアが戻ってきた。
「ほら」
投げられた白い袋を受け止める。手の平大ほどの袋の中に、直径三センチほどの透明な円柱が入っていた。中に液体が入っているらしい、向こう側がぼやけて見える。
「これは?」
「無針アンプルって代物らしい。こう、強く皮膚に押し付ければ中の薬剤が注射されるから。こっちの方がお前にはいいだろ?」
気遣いについ苦笑してしまった。
ハークには少々暴走癖がある。普段はそんな事ないのだが、想う悪魔を大量に倒したり、白熱した殺し合いになったりすると危ない。頭がカーッとなって何も考えられなくなるのだ。だからそういう時のためにモーリアに鎮静剤をもらい、常備していた。
が、折角もらってもきちんと使えるのは稀だった。錠剤は口に入らないし、注射は打つ方が危ないし、粉薬なんてもっと入らない。その内に使用期限がきて処分してしまう、という事がしょっちゅうだ。
その点、この無針アンプルならばどこに注射しても一定の効果を得られるのだろう。医者らしい気遣いというか、何というか。暴走する度に傷だらけになるアマンダの事を思うとありがたい。
「代金はお前の口座から引いといたからな」
「え、先払いなの?」
「当たり前だろ。うちの病院じゃ必要ないんだよ、それは」
モーリアは新しい煙草を口にくわえ、火をつけた。ふはぁ、と煙が口から溢れる。
「で、ディンギルディーンなんだがな。結論から言うとありゃあ人間じゃない」
「……へ、何それ」
どこからどう見ても人間の姿をしていたし、理性もばっちりあったが。
「点滴打って一時間も経たないで元気になりやがったんだぞ、あいつは。すぐに歩き回りやがったし。あんな回復力高い人間なんていてたまるか」
すごく自己中心的な理由だった。
「じゃあそれは横に置いといて、記憶喪失って本当だと思う?」
一番気になっていた部分を聞いてみる。モーリアの側頭部がまたガシガシと掻かれ、整えてあった髪が乱れ始める。
「本当だろうな。精神関係は俺の専門じゃないが。ただ――」
一端言葉を切り、深々と煙を吸い込むモーリア。はぁぁ、とゆっくり吐かれるそれが、ため息のようだった。
「あいつは思い出さない方がいいと思う」
「へぇ?」
面白い言葉に首を傾げる。
「それはまたどうして?」
「勘だがな。あいつの記憶喪失はお前の暴走と似た匂いを感じる」
ふー、と細く吐き出される煙。勢いはいいが、ハークのところまでは届かず換気扇へと吸い込まれていく。
「思い出さない方がこれからのあいつのためだろ。お前が暴走しない方がいいのと同じでな」
「ふぅん」
何となく諦めに似てるなぁ、と思った。ハークの暴走だって何とかなるのだ、だったら思い出してもいいだろうに。
「どっちみち専門医に看てもらうにしても金が要るからな。当分は俺の助手として仕事をしてもらうさ」
「え、先生そんな甲斐性あったの?」
「……お前は俺を何だと思ってるんだ」
睨まれてしまった。