Anecdote.09
――ディンギルディーンは噴水のふちに腰掛けていた。モーリアが「今日は外で食べる」と言い出したので、彼の業務が終わるまで待っているのだ。
モーリアには感謝しても感謝し足りない。素性も知れぬ男を預かり、しかも雇ってくれるというのだから。社会で生きていくにあたって金銭はどうしても必要になる。
ディンギルディーンはそれに加えて、専門医に自分の記憶喪失を見てもらおうと考えていた。モーリアの話に寄れば、信用出来る医者は何人かいるが、誰も診察料が高く、ついでに一文無しを厚意で見てくれるようなお人よしはいないとの事だった。
どうしようか途方に暮れていた時にモーリアが面倒を見ると言ってくれたのだ。ディンギルディーンがひとり立ちするまでは助手として雇い、住む場所も食べる物も提供してくれると。態度は悪いが良い人だと、その時思った。
とはいえすぐに助手に、というわけにはいかない。ディンギルディーンはド素人で、さらには記憶がない。一通り薬の名前と効能、病院内で使う書類のフォーマット、そういった仕事をするのに必要な事を覚えるまでは働けないと言われた。
当たり前だろう。何も知らない素人を即日使う専門業者などいるまい。早く覚えて少しでもモーリアの役に立ちたい、それがディンギルディーンの当面の目標になっていた。
ぼんやりと人通りを眺めながらモーリアを待つ。金属で出来た建物は冷たいが、人々はそうでもないようだった。暗い表情をしている人間はごく少数で、皆が皆、明日への希望を持っているように見えた。
ああ、羨ましい。俺も早く何がしたかったのか思い出したい。
それは一種嫉妬にも似た、確かな羨望だった。
ふと、視線を感じる。そちらを見れば赤い頭巾を被った、長い金髪の少女がいた。彼女の細い体格には不釣合いな大きな革張りのトランクケースを持って、脇に少女の身の丈の半分以上もある大きなティディベアを抱えて、よろよろとこちらに近付いてくる。
彼女はどすんとディンギルディーンの足元にトランクケースを置くと、にっこりと微笑みかけてきた。
「こんにちは」
「……あ、ああ。こんにちは」
少女はそのまま上機嫌にディンギルディーンの横に座った。彼女の膝の上にはティディベアが置かれた。
一体誰だろう。病院に来ていた子供かもしれないが、記憶にない。記憶を失う以前に知り合ったのだろうか。
「良い天気ですね」
「あ、ああ……」
よく分からないが、ざわざわする。少女がこちらを見る度に心のどこかがざわついた。
コイツハ敵ダ/殺シテシマエ/喰ライ尽クセ
そんな、おかしなノイズが聞こえてくる。こんな人畜無害で可憐な少女の、どこが敵でどこが殺すべきでどこが喰らうべきなのかと、自問自答する。
少女はばたばたと脚を動かす。ミニスカートがひらひらと揺れ、ドロワーズがちらちらと覗く。それは全く不純な要素を感じさせない、可愛らしい動作だった。
彼女から目線をそらし、噴水の側に設置された時計塔を見上げる。時刻はもうすぐ五時半。モーリアの仕事が終わるまでまだ少しあるだろうか。
カチッ、と長針が動く。先端が丁度6を差す。それと同時に少女が立ち上がった。
「時間……」
そんな事を呟き、少女はトランクケースを開けた。トランクケースの中には、少女が抱えているティディベアよりも二回り小さいサイズのティディベアがたくさん詰め込まれていた。
「出番だよ」
友達にとっておきのイタズラの内容を教えるような声色で囁きかける少女。するとトランクケースのティディベア達が次々と起き上がり、外に出だした。到底人間業とは思えない光景に思わず目を取られる。
早クシロ/何ヲシテイル/殺ルナラ今
耳鳴りのようなノイズを必死に無視する。思えば、殺すまではいかなくてもその時点で押さえつけていれば良かったのだ。
「生きてる人は要らない」
少女は晴れやかに微笑み、
「皆死んじゃえ」
そんな、残酷な命令を口にした。