何も言えない
昔から、欲しいものを素直に欲しいと言えない性格だった。
「ひ、久しぶり」
コンビニの列に並ぶ最中、中学を卒業してから接点のなかった彼女がいた。
高校に入ってさらに垢抜けたように見えるが、人を簡単には寄せ付けない近づき難い雰囲気は間違いなく彼女のものだ。今さら引き返すこともできず、俺は恐る恐る声をかけてみた。
しかし、彼女は睨みつけるような視線を一瞬こちらに向けると、そのまま俺の前を素通りしてレジに並んだ。先に会計を済ませ後も、すぐ後ろに並んでいた俺のことを気にする素振りも見せなかったので、俺は恥ずかしさや悲しさやらを顔に滲ませて、去って行く彼女の背中を見送るしかなかった。
「お会計152円になります」
「………」
「……お客様?」
「あっ、すみません」
そんな再会から一か月後。
俺は再び彼女と再会することになる。
それはまるで突然発生した台風のように、夏休みの合間にやって来た。友人たちとの約束もなく、暇を持て余していた夏休みも終盤のとある一日。俺は、これから街に出て映画を見に行くことを思い立った。
早速ネットで上映している作品を調べ、適当に身なりを整え準備をし、外へと一歩出る。
屋外へ出た瞬間、陽射しが身体全体に降り掛かり、汗が滝のように流れ出すサウナ状態ではあったが、その時の俺には夏の暑さがやけに心地よかった。
それは、待ちに待っていた漫画の新刊の包装を破るとき感じる高揚感と同じものだと思った。
夏休みが終わったら、この俺の「ぼっち映画体験」を俺と同じ冴えない友人たちに愉快に語ってやろうと心の中でほくそ笑みながら、街の中心部へ移動した。
昼間の駅前広場は勤め人から大学生、家族連れと人で溢れ返っている。
駅の改札口から人の流れに乗り上手く障害物を避けながら、俺は映画館のある方向へと向かう。が、押し寄せる人の波と高い気温のせいだろうか。唐突に喉の奥から渇きを感じて、俺は視界の端に入った自動販売機の方へと進行を変えた。
(麦茶でいいや……)
平べったい財布から小銭をつまみ取り、投入した小銭がかしゃんと底の方へ落ちた音とともに光ったボタンを押そうと指先をのばした、その時。
後ろから知らない腕がにょきっと伸びてきて、俺よりも一瞬早く自動販売機のボタンを押した。びっくりして、俺は文句を言うよりより先にその指先の持ち主へと振り返った。
「あっ」
忘れもしない。一か月前に俺を無視した彼女が俺の前にいる。ポカンと口を開けている俺に対して、彼女は大きな瞳でこちらを一瞥した。
「あっ、おい!」
驚く暇もなく、彼女はお茶のペットボトルの蓋を開けて、グビグビと中身を口にしている。何してんだよ! そう彼女に向かって言いたいのに、言葉が出てこない。目の前の出来事に、俺はしばらく放心状態だった。
『シュウちゃん! あそぼう?』
まだ幼い女の子の鈴の鳴るような声が蘇る。
『シュウちゃん! あそぼう!』
俺は彼女を幼い頃から知っている。
「異性の幼馴染」といえば甘い響きの言葉に感じる者もいるだろう。しかし、俺たちの間に甘い時間など全くなかった。
俺は彼女にとって、単なるストレス発散の道具で、彼女が暇なときだけ遊びに付き合わされていた。
彼女との交遊関係は小学生の間だけ続き、中学生になってからはパッタリとなくなった。
だから、彼女と俺の関係性は「近所に住んでいる同学年の知り合い」という程度でしかない。クラスが同じになれば言葉を交わすが、教室以外ではほとんど会うことも話すこともないその場限りの繋がりだった。
そして、高校生になった現在、俺は彼女にとって視界に入れる必要のない「無視」に値する存在であったはずだ。
「滝野?」
『シュウちゃん、きいて。わたしのお母さんと、シュウちゃんのお父さんがね……』
ぼんやりとした視界の中で、記憶の中の彼女が話しかけてくる。
「ねえ? 聞いてる?」
「……ン?」
「この後、誰かと用事でもあるの?」
「……ないけど?」
「じゃあさ、今から私に付き合ってよ」
「……は?」
「だって、何も予定ないんでしょう? それなら、私に付き合ってよ」
「いや、俺、これから映画見るから!」
ジリジリと少しずつ詰め寄ってくる彼女から俺は一歩二歩と後ろに下がって身を引いていく。 思考がはっきりとしてきて、今の状況が読めるようになると、途端に背中から汗が噴き出して来た。
「一人で見るの?」
「ひとりでみるよ」
「一人で映画見て楽しい?」
「たのしい」
そうだ。
俺はこれから映画を見に行くつもりだったのだ。しかし、突然の出来事に気を取られて、映画を見たかった気持ちがスッと消え失せてしまっていることに気づいた。
そうだった。
普段、汗をかくことを嫌っている帰宅部の俺が外に出るべきじゃなかった。それなら今すぐ家に帰るべきだ。布団の上へダイブして、惰眠を貪っていたほうがいろいろとマシな気がする。善は急げ。今のこの状況からさっさと抜け出すのだ。
「あ! 俺、ちょっと用事思い出しちゃったから……じゃあな!」
しかし、隙をついてその場から離れるつもりでいた俺を彼女はそう易々と逃さなかった。
「映画館、行くんでしょう?」
一ヶ月前、彼女は自分の俺のことを一度たりとも見ようとしなかった。
一ヶ月後の今、彼女は俺の着ているシャツの裾をきつく握りしめて、潤んだ瞳で見上げてくる。
「私も一緒に見たい」
結局は……。
「映画館来るの久しぶり!」
はしゃいだ笑顔を見せる彼女と、あの後すぐ映画館に向かった。列に並ぶ最中、映画代を二倍払わせられると悲観していた俺に彼女が言う。
「はあ? 自分の分くらい出すよ」
彼女は売店でポップコーンを買って、
「はい、あげる」
香ばしいにおいがする。言葉に甘えて一つだけもらうと、彼女は機嫌良さそうに笑みを深くさせた。
上階のスクリーンに向かうために乗ったエスカレーターの途中で、ふと彼女が俺に振り返る。
「本当に一人で見るつもりだったの?」
「え……うん」
「いつも一人で行くの?」
「あ……うん」
今日、初めて一人で映画館に来たのだ何となく言えなかった。俺のぎこちない返答に、何を思ったのか、彼女はふわりと微笑んだ。
「私も今度、一人で来てみようかな」
座席の距離が思ったより近かった。
少しでも腕を動かすと、お互いの体にコツンとぶつかる。そんな距離。
暗闇の中、相手の静かな息づかいが聞こえてくる。
ちらりと横に目をやった。
彼女の瞳は大きなスクリーンをまっすぐと見つめている。
空気を通して伝わってくる隣の熱に意識が逸れて、集中できなかった。ゆっくりと息を吐いて、それから目を閉じる。
また、あの声が聞こえる。
『シュウちゃん。わたしたち、きょうだいになるの?』
『そしたら、シュウちゃんはわたしのお兄ちゃんだね!』
「滝野?」
瞼を開けると、呆れた顔をした彼女が俺を見ていた。
「あーあ!! もったいない!!」
映画館から出た途端に、彼女は何度もその言葉を口にした。
「せっかく感想を聞こうと思ったのに、寝ちゃうなんて」
不貞腐れてぷりぷりする彼女に謝りながら、俺は全く別のことを考えていた。
「これから、どうしよっか?」
『お父さん、おねがい。……のお母さんと一緒にならないで』
それは、過去に父親に伝えた自分の言葉だった。何故今まで思い出さなかったのか。
「滝野? どうかした?」
「あ……いや、別に」
心配そうに向けられる視線にハッとして首を横に振る。額にじんわりと汗をかいていた。
「もしかして疲れた?」
「いや、大丈夫」
「本当? ……ちょっと寄りたいところがあるんだけど、行ってもいい?」
「いいよ」
その後、電車に乗って自宅の最寄り駅まで戻った。
寄りたいところがあると言ったのに、そのまま地元に帰ってきたので、少々肩透かしをくらいつつ、先を歩く彼女についていく。
大通りを直進に進み、見えてきた交差点を右に曲がって、しばらく進むと、小学校時代に使っていた通学路に出る。ちょうど楽しそうに笑い合う小学生たちが目の前を通り過ぎていった。
そこから少し歩くと、小さな公園がある。遊具が一つしかないので、昔から物寂しい雰囲気は変わらない。
「ブランコ乗ろうよ」
彼女がブランコへ駆け寄っていく。
『あははっ シュウちゃん! もっと! もっと強く押して、大丈夫だから!』
『あぶないから、ムリだって』
『じゃあ、次、シュウちゃんの番!』
『おれはいいよ』
『えー……つまんないの』
「背中、押してやろうか」
昔の遊びを思い出した俺が何気なく言うと、彼女はクスリと笑った。
『私はいいよ。滝野の背中を押してあげる」
「えー……俺はいいよ」
「いいからいいから」
「落とすなよ」
「あはは。普通、高校生にもなってこんなことしないよね」
隣にあったブランコにゆっくりと腰を下ろすと、彼女が俺の背後へと回った。
「それっ」
グンと体が前に移動する。
「強えよ」
「やっ、脚もっと曲げて!」
「ムリだって」
「おーもーいー!!」
「うるさい」
くだらない遊びをする、それだけでお互い子供の頃に戻った感じがした。
俺は、彼女と兄妹になんかなりたくなかった。
二人とも片親で育てられたせいか、一緒にいると気が楽だった。彼女の気持ちは分からないが、俺は、彼女と大人になっても一緒にいられればいいと思っていた。
確かに、兄妹なら一緒にいられる。でも、そんな形は欲しくなかった。俺が欲しいのは、もっと二人だけの特別な形で、兄妹になるなんて少しも望んでいなかった。
俺の父親と彼女の母親が再婚せず別れたのは、俺のせいだ。滅多に我儘なんて口に出さなかった俺が、ガキなりに必死に訴えるので、当時の父親は頭を悩ませたに違いない。
困ったような悲しいような、どちらなのか判断しかねる表情で、父親は『シュウイチの望まないことはしない』と言った。
片親、シングル。父親に全く非はない。
時おり世間から向けられる言葉や視線に、俺は子供の頃から悩んでいて、他の子供との違いにどうしようもない思いを抱えていた。それを伝える術も知らないまま、幼い頃はただ息を精一杯吸うことしかできなかった。
そんな宙ぶらりんな俺に手のひらを差し出してくれた彼女。彼女と一緒なら、俺はもっと深く、広く、息を吸うことができる。
『シュウちゃん。わたしたち、きょうだいになるの?』
『わたし、シュウちゃんと家族になれるならうれしい! そしたら、シュウちゃんはわたしのお兄ちゃんだね!』
『これからもずっと一緒にいられるよ!』
「安達のお母さん、再婚するんだろ?」
背中を押す手が不意に離れていった。
「あ……知ってたの?」
「うん」
「そうなんだ……」
「おめでとう」
「うん、ありがとう。もうすぐ引っ越すんだよ」
「そっか」
会話はそこで終わった。その代わりに、背中に温かな体温を感じる。
後ろから彼女に抱きしめられていた。背中から、静かな鼓動が緩やかな呼吸音が聞こえてくる。
もしかしたら彼女も、俺の傍でなら深く呼吸ができたのかもしれない。少し上がった口角を意識しないために、俺はぎゅっときつく目を閉じた。