苦悩とつかの間の安寧
「教室に入りたくないな……」
教室の扉の前で、エンティは頭を抱えていた。衝動的にやってしまったこととはいえ、後先のことを考えていなかったと後悔してしまう。
だが、ここで立ち往生していても始まらない。エンティは意を決すると教室の扉に手をかけた。
教室に入ると、一部の生徒の視線が刺さるのを感じた。それを無視して自分の席に座る。ひそひそと何かを言われていたが、気にしないことにした。
「お前、あれだけのことをしてよく来たな。正直、もう学院を辞めるんじゃないかって思ってたぞ」
先に来ていたドランが驚いたようにエンティを見る。
「僕だって、ここに来たくはなかったよ。だけど、入学金も学費も払っちゃってるから、もう引くには引けないんだよ。またあれだけのお金を稼ぐとなると、かなり難しいし」
エンティは自嘲気味に答えた。入学するための金を稼ぐ過程で、孤児院とはかなり険悪になっているから戻るのは難しい。ここを辞めたところで次の当てが全くないから、辞めるという選択肢はなかった。
「まさかとは思うけど、お前、自分で必要な金を稼いでたのか」
「僕には身寄りも何もないから、自分で稼ぐしかなかったんだ」
「そりゃ怒るのも無理はないな。だが、そこまで努力したんだから、我慢することも必要だったとは思うがな。これで退学処分にでもなったら、目も当てられん」
「返す言葉もないよ」
ドランに正論を言われて、エンティはたまらず苦笑してしまう。
「ただ、そうなるとお前に対して申し訳なくなるな。俺も自分で金稼いでいるわけじゃなくて、家に出してもらってるからな」
「いや、君が申し訳なく思うことはないと思うけど。というか、普通ならそれが当たり前なんだから、僕が特殊なだけだよ」
底抜けのお人好しだな、と思いつつエンティはそう返した。
クラースに出会わなかったら、ここに通うという選択肢すらなかった。それを考えれば他の孤児に比べればずっと恵まれているといえる。今でも孤児院で劣悪な待遇を受けていると思うと、余計にだ。
「あまり話したくなかったけど、お前ならいいか。俺の家はフォール商会なんだよ」
「フォール商会って、この国でも一、二を争うくらい大きい商会じゃないか。そんな家の生まれなのに、どうしてここに入学したんだい」
ドランの意外な出自に、エンティは驚いていた。同時に、どうして学院に入学したのか気にもなっていた。
「ああ、俺は次男坊なんだ。だから、家を継ぐのは兄貴になる。漠然と兄貴の手伝いをすればいいか、とも考えてたんだが。たまたま俺に魔術の資質があったから、親父が少しでも選択肢があった方がいいってここに入れてくれたんだ」
「そういう事情があったのか」
「フォール商会の人間だって知られると、周囲が露骨にすり寄ってくるから嫌になってたんだよ。それを避ける意味もあったがな」
「なら、僕にもそれは隠しておくべきだったんじゃ」
「まだ知り合って数日だが、お前はそんなことしないだろ。学費を自分で稼ぐような人間なら、なおさらだ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
確かにドランに頼ろうというつもりは一切ないが、商会の人間がここまでお人好しで大丈夫なのだろうか、と思いつつエンティは言った。
「あなた、よく顔を出せたわね」
責め立てるような声に、エンティはうんざりした表情を隠せなかった。
「何か」
「あそこまで姫様のことを非難しておいて、図々しいったらありゃしない」
二人の生徒が、エンティに詰め寄ってきた。
「確かに僕のしたことは不敬ですね。でも、それはあなた達に関係ないことでは」
「平民の分際で、随分な口を利くものね」
教室内の空気が一変した。
「おい、あんたら」
見かねたドランが止めようと立ち上がった。
「平民同士で庇い合い? あなたもこの学院にいられなくなるわよ」
ドランに対しても高圧的な態度で、ある意味では貴族らしい立ち振る舞いともいえた。
「止めなさい」
収集がつかなくなりそうだったところで、ミアが割って入った。
「あなた姫様の従者でしょ。主人があそこまで侮辱されたのに、私達を止めるってどういうこと」
「あの時姫様が何とおっしゃったか、覚えているの。姫様本人が不問に処すとしているのだから、あなたのやっていることはただのお節介」
「ただ姫様に気に入られているだけの下級貴族の分際で」
ミアの身分を知っているのか、生徒は馬鹿にするような口調で言う。
「それは否定しない。でも、あなたもわたしと揉め事を起こせば問題になる。それはお互いにとって望ましいことではない」
だが、ミアはそれを受け流すように返した。
「進退を考えておくことね」
ミアの一歩も引かない態度に気圧されたのか、生徒はエンティに吐き捨てるように言うと自分の席に戻っていった。
「ありがとう、ございます」
ミアが庇ってくれるとは思わなかったので、エンティはたどたどしく礼を言った。
「俺からもお礼を言わせてもらいます。あのままだと、かなり面倒なことになっていたと思いますから」
立ったままのドランがミアに頭を下げた。商会で育ってきたから、こういった礼儀作法も一通りは身に付いているようだ。
「別に、いい。わたしは姫様の代わりにやっただけ」
「どういうことです?」
「ああ、そういうことですか」
小さく首を振ったミアに対して、二人の反応は全く異なっていた。エンティは理由がわからずにいたが、ドランはおおよそのことを察していた。
「本来なら、姫様が止めるべきところだろうけどな」
「でも、それをやると角が立つ。だから、代わりにわたしが止めた。それだけ」
「貴族社会も面倒ですね」
二人に説明されて、エンティは素直な感想を口にしていた。
「あなたのやったことは間違っていない。だけど、こういう面倒やしがらみに姫様がうんざりしていたのも事実。それだけは分かってほしい」
「あっ……」
ミラに言われて、エンティは言葉を失っていた。少し聞いただけでも相当面倒に感じるのに、フィルイアルはそれ以上のことを対処しなければいけなかった。そこから解放されて自由になりたい、と思うのも無理はない。
「僕、姫様に謝って……」
「その必要はない」
立ち上がりかけたエンティを、ミアはそっと制した。
「あなたが謝りたいと思うのもわかる。だけど、それは今じゃなくていい」
「それは、一体」
ミアの言うことが理解できずに、エンティは戸惑ってしまう。
「大丈夫、悪いことにはならないから。それと、わたしと話す時は普通に接して欲しい。彼女達も言っていたけど、わたしは身分が低い貴族だから、そこまでかしこまる必要もない」
「いくら何でも、それはちょっと」
思いがけないことを言われて、エンティはそれを断ろうとする。
「エンティ、こういう時は下手に断る方が失礼ってもんだぜ」
だが、ドランが横からそれを断らないように言ってくる。
「そういうこと。あなたも、普通に接してくれて構わない」
「そういうことなら、よろしく頼むぜ。俺はドランだ」
こういったことに慣れているのか、ドランはあっさりとミアの申し出を受け入れた。
「まだ、名乗ってなかった。わたしはミア、よろしく」
「僕はエンティ。よろしく」
この流れで自分だけかしこまるのもどうかと思い、エンティはミアの申し出を受け入れることにした。
「わたしは他の貴族と話すのは好きじゃないから、話し相手ができて嬉しい」
ミアはそう言うと、自分の席に戻っていった。
「俺が思っているよりも、悪いことにはならなそうだな」
「そう願いたいね」
エンティの願いが通じたのか、それからしばらくは何事もなく過ぎていった。
「話があるの。少し、時間をもらえないかしら」
だが、最初の休校日の翌日、フィルイアルが前触れもなくエンティに話しかけてきた。