初授業
「……もう、朝か。仕事に……」
エンティはベッドの上で上体を起こして、昨日までとは違う光景に一瞬思考を停止させた。魔術学院に入学してから、寮生活が始まっていたことをやっと思い出す。
「あ、そうか。今日からここで生活するんだったな」
思考が停止した頭を動かすために、軽く頭を振った。孤児院にいたころは朝早くに叩き起こされて、質素な朝食を取った後に割りに合わないような労働を課せられていた。エンティが食堂で働くようになってからは、職員に嫌がらせを受けるようになり、それが嫌でほとんど寝るためだけに帰っていたようなものだった。
「まあ、孤児院でこき使われるよりはましか。どの道、学費や生活費を稼がないといけないから、働かないといけないのは変わらないし」
ベッドから体を起こして着替えると、そのまま寮を出て学校へと向かう。といってもそれほど距離があるわけでもないから、五分も経たないうちに学校に着いてしまう。
改めて学校の校門を見ると今日からここで学ぶんだな、という実感が湧いてきた。
教室に入ると、まだ誰も来ていないようだった。
少し早く来すぎたかな、と思いつつ自分の席に座る。特にやることもないので、窓の外を眺めながらぼーっとしていた。
「よう」
どれくらいそうしていたのかわからないが、後から来たドランが声をかけてきた。
「おはよう」
それで我に返ったエンティが挨拶を返すと、ドランは隣の席に座る。
教室を見渡すと、気付かないうちに生徒が入ってきていたようだった。
そこで、教室の扉が開いたので、エンティは何気なくそちらに目をやった。
入ってきたのは、黒髪を短く切りそろえた中世的な顔立ちで、男なのか女なのかわからない生徒だった。
「姫様、どうぞ」
決して高くはない声だったが、それは明らかに女性のものだった。
「ありがとう、ミア」
ミアと呼ばれた女生徒の後に続く形で、フィルイアルが教室に入ってきた。二人が並んでいる姿は、美男美女といった感じで妙に絵になった。
「あの女生徒、姫様の護衛か。目立たないけど帯剣までしてるな」
ドランがそう言ったので、エンティはミアの腰元に目をやった。確かに、細身の剣らしきものが腰に下げられている。
「ただの護衛じゃなくて、うちの生徒なのか。驚いたな、剣術だけでなく魔術の才能もあるなんてな」
フィルイアルの隣の席にミアが座ったのを見て、ドランが意外そうに言う。さすがに学院の生徒でない人間が教室に居座ることはないだろう。
「でも、今までずっと剣術を学んできたのに、これからは魔術を学ぶのか。全く違うことをやることになるから、それはそれで大変じゃないかな」
「まあ、それは本人がどうにかするしかないことだし、俺達がどうこう言っても仕方ないな」
二人がそんなことを言っていると、ルベルが入ってきた。
少し騒がしかった教室が静かになり、席に着いていなかった生徒達も席に着いた。
「今日から授業を行うが、まずは魔術の基本的なことから始めようと思う」
ルベルは手にしていた教本を開く。
「まず魔術の基本的なことだが、魔術の属性は火水雷風の四つがある」
そこから始まって、魔力の基本的な扱い方や魔術師としての在り方など、基本的なことを中心に授業が進んでいく。
この辺りは、先生に教えてもらったことなんだよなぁ。
こういった基本的なことはクラースに教えてもらっていたこともあって、エンティはかなり退屈になっていた。
さりげなく周りの生徒達に目をやると、どの生徒も熱心に授業を聞いていた。さすがに授業を真面目に受けていないと思われるのはまずいので、一応は真面目に聞いているふりをしていた。
「では、今日の授業はここで終わりとする。ほとんどの生徒は寮住まいだろうが、各自気を付けて帰るように」
ルベルは教本を閉じると、そのまま教室を出ていった。
「終わったか。最初は全然理解できないかもしれないと不安だったけど、意外と理解できるもんだな」
ルベルが教室から出たあたりで、ドランが大きく体を伸ばしていた。
「そうだね。基本的なことを中心にやってくれたから、理解しやすかったと思うよ」
エンティとしては退屈な授業だったが、ドランに話を合わせるように腕を伸ばした。
そこで、何気なくフィルイアルの方に目をやると、周囲に数人の生徒達が集まっていた。
「あの人達、よく姫様に話しかけられるね。僕にはとてもできないよ」
丁寧な口調ではあるが、フィルイアルと普通に話している生徒にエンティは驚いていた。エンティからしたら雲の上ともいえる存在で、話しかけることすら躊躇してしまう。
「この組の生徒、俺とお前以外貴族様だぞ。だから姫様と普通に話できてもおかしくないな」
「そうなの。でも、よくわかったね」
「あー、着ている服とか、立ち振る舞いが庶民の物じゃないからな」
エンティは何気なく聞いたのだが、ドランは何故か口を滑らせたという顔をしていた。
「だから僕に話しかけてきたんだね」
エンティは敢えてそれに気付かないふりをする。
「まあ、な。正直、俺以外貴族様だったらどうしようかと思ったな」
追求されなかったのに安堵したのか、ドランはあからさまにほっとした顔をした。
「それは僕も同じだよ。今後ともよろしく」
わかりやすい、な。まあ、悪い人じゃないと思うけど。エンティはそんなことを思いつつ、笑顔を作った。
「ああ、こちらこそ」
ドランも笑顔でそれに応じる。
「姫様、どうしてわざわざ魔術学院に入学したんです」
そんな会話がエンティの耳に入ってきた。どうやら、周囲の貴族たちはフィルイアルが魔術学院に入学した理由が気になっているらしい。
「どうしてそんなことを気にするのかしら」
「姫様が入学するという話が流れてから、うちの親とか絶対に入学しろ、ってうるさかったですもの」
「それは悪いことをしたわね。でも、私に取り入ろうとしても意味はないわよ。私は自由になるためにここに来たのだから」
フィルイアルは淡々と答えている。
「自由になるためにここに来たって、どういうことだ」
ドランが怪訝そうな顔をして呟いた。その声はエンティにだけ聞き取れる程度のものだったので、他の生徒達には聞こえていない。
「自由、って、あの噂は本当だったんですか」
生徒の一人が驚いたような顔をしているのが見えた。
「噂?」
「姫様は王宮の政治に関わるつもりはないって、一部で噂されていたわよ」
「そうね。もう王宮のしきたりやしがらみにうんざりしているの。あんな所、もういたくないわ」
フィルイアルは心底からそう思っているのか、表情が少し歪んでいた。
「じゃ、ここを卒業したら例の婚約者様と一緒になるんですね」
「彼は、私を自由にしてくれると言ってくれたわ。身分的にはかなり格下だけど、逆にそれは好都合よね」
「でも、あの方は領地経営も厳しいって聞きますよ。そんな所に嫁いで大丈夫ですか」
「最悪、お父様に援助してもらうわ。今まで不自由な生活を押し付けてきたんだから、それくらいはしてもらわないと、割に合わないもの」
フィルイアルは鼻で笑うように言う。
「おいおい、姫様本気で言っているのかよ。お父様の援助って、それは俺達の税金だぞ。それに、ここの学費も税金から出てるんだよな」
それを聞いたドランが信じられない、というように呟いた。
「それって、姫様の我儘に僕達の税金が使われているってことなの」
エンティが聞くと、ドランは小さく頷いた。
「は? ふざけてるにもほどがあるよ」
エンティは勢いよく立ち上がると、フィルイアルの前まで歩いて行く。
「何?」
目の前に立ったエンティに、フィルイアルは怪訝な表情をする。
「姫様、それはあまりに我儘が過ぎるんじゃありませんか」
エンティはフィルイアルをきっと見据えていた。