皇太子
「で、あるからにして、属性魔術の威力を上げるには魔力の循環をスムーズに行えるようにする必要がある。魔力を手足のように循環させられるようになれば、魔術の威力も上がるし詠唱速度も速くなる」
ルベルが板書をしながらそう説明する。
「まだ諸君は魔術を使えるようになったばかりだから、そこまで意識することは難しいだろう。だから、少しずつ意識するようにしていくように」
そこで、控え目なノックの音が響いた。
普通授業中に人が訪れることなどないから、ルベルは怪訝な表情をしていた。同時に、生徒達の視線も何事かとノックされた扉に集中した。
「授業中、すみません」
入ってきたのは事務の仕事を担当している女性だった。その表情は明らかに困惑しており、只事でないことが容易に察せられた。
「どうしたのかね」
それを見てルベルもおおよそのことを察すると、落ち着いた口調で尋ねた。
「はい。それが……皇太子殿下がいらっしゃいまして」
「‼ 皇太子殿下が」
さすがにこの報告には、普段から冷静沈着なルベルも驚きを隠せなかった。
「お、お兄様が!?」
同時にフィルイアルも声を上げていた。
「姫様、落ち着いて」
今にも立ち上がりそうだったフィルイアルに、ミアは落ち着くように声をかけた。
「それで、皇太子殿下はどういったご用件でいらしたのだ」
ルベルは自分を落ち着かせるように深呼吸して、女性にそう聞いた。
「はい。姫様にお会いに来た、と」
「姫様、どうしますか」
それを受けて、ルベルはフィルイアルの方に視線をやった。
「もう、何を考えているのかしら」
フィルイアルは思わず溜息を漏らすと、指先を額に当ててしまう。
「姫様、呆れていても仕方ない」
「それも、そうね」
ミアの言葉でフィルイアルは我に返った。
「火急の用件、でしょうか」
そして、女性に対してそう聞いた。もし急用だったのなら、それこそ授業どころの話ではなくなってしまう。
「いえ、そういうわけではないようです。ただ、仕事の関係でこちらに来ることになったので、ついでに顔を見に来た、と」
「それなら、授業が終わるまで待つようにとお伝え下さい。私はこの国の王女ですが、今はこの学院の生徒でもありますから。学業を優先するのは当然のことでしょう。それができないのなら、お帰り下さいとお願いします」
「えっ? いいのでしょうか」
フィルイアルが呆れをこらえつつそう言うと、女性は驚いた顔でフィルイアルを見る。いくら兄妹とはいえ、皇太子に対してここまでの態度を取っていいものかと困惑しているようでもあった。
「構いませんわ。お兄様も、軽い気持ちで訪れたのでしょうから、そうお伝えください。万が一何かありましたら、それは全て私が責を負いますから」
「わ、わかりました」
女性は一礼すると、教室から出て行った。
「皆様、授業を中断することになってしまい、申し訳ございません。ですが、お兄様も決して悪気があったわけはありませんので、ご容赦願います」
フィルイアルは生徒達の方に向き直ると、頭を深く下げた。
「い、いえ。俺達はそんなことは思っていないですし」
「それに、皇太子殿下が訪れたのですから、仕方ないですわ」
フィルイアルが謝罪したことに驚いたのか、エンティとドラン、それにミアを除いた生徒達は明らかに動揺していた。
「やっぱ、姫様こういうことはきっちりしてるな。王族って変にプライド高いこと多いから、頭下げられない人も多いんだが」
「姫様は、自分が悪いと思ったら謝れる人だよ。王族とか、そういうことは関係なしに、ね」
エンティとドランは、小声でそんなことを口にしていた。
「先生、授業を中断することになってしまい、申し訳ございません」
そして、フィルイアルはルベルに対しても頭を下げた。
「い、いえ。もし緊急の件でしたら、それこと授業どころではありませんでしたからね。何事もなかったようで、何よりです……それでは、授業を再開する」
ルベルは小さく首を振ると、授業を再開した。
「かつては複数の魔術を同時に扱った魔術師もいたというが、現在ではそれは非効率として推奨されていない。魔術を使う時は、あくまで一つに絞った方が効率的であるな。と、もう昼時か。午前の授業はここまでとする」
終業を告げる鐘が鳴り響き、ルベルはそう告げた。そして、いつも通りに淡々とした態度で教室から出て行った。
「やっと昼か」
ドランが立ち上がって大きく背伸びをする。
「そうだね」
エンティもそれに倣うように、軽く体を伸ばした。
「あなた達、早く行くわよ」
そんな二人に、フィルイアルが声をかける。
いつの頃からか、エンティとドラン、フィルイアルとミアは一緒に昼食を取るようになっていた。最初こそ周りの貴族達も白い目で見ていたが、今では慣れてしまったのか、それとも真っ向からフィルイアルに意見ができないのか、さして気にもされなくなっていた。
「じゃ、お姫様もお待ちですから行きますか」
「はは、そうだね」
ドランが妙にかしこまったように言うので、エンティは少し笑いながら応じた。
「全くもう、お兄様は何を考えているのかしら」
四人で食事を取っている最中、フィルイアルが愚痴るように言う。
「皇太子殿下も、姫様のことが気がかりなのですよ。それに、まだ和解してないでしょう」
そんなフィルイアルに、ミアが窘めるように言った。
「和解? 何かやらかしたのですか」
全く事情を知らないドランが、口を挟んだ。
「この前王宮に帰った時、お兄様と結構な口論になっちゃって……それ以来、全く会話することなくこっちに帰って来たから……私もやり過ぎたとは思っているのよ」
フィルイアルはやや言い難そうに答える。
「ただの兄妹喧嘩ですか。それで仕事のついでとはいえ、わざわざ訪れるなんて皇太子殿下も随分と姫様を気にしているようですね。で、なんで喧嘩したんですか」
「それは……」
ドランとしては本当に何気なく聞いたのだが、フィルイアルは言い淀んでしまう。
「まあ、言い難いならいいですけど」
その様子を見て、ドランは深く追求することはしなかった。
「何だか、騒がしくなったけど、何かあったのかな」
急に食堂が騒がしくなり、エンティは周囲を見渡した。すると、背が高く金髪の男性がこちらに近付いてくるのが見えた。
落ち着いた雰囲気ではあったが、どことなくフィルイアルに似ているようにも見える。
「誰だろう?」
「お、お兄様……」
誰だかわからずに首を傾げるエンティをよそに、フィルイアルは絞り出すような声で呟いた。
「お兄様ってことは、皇太子殿下、ですか」
「いやいや、いくら何でも不用心すぎますって。いくら学院に姫様が通っているとはいえ、護衛もつけないなんて」
それを聞いて、エンティとドランは驚きの声を上げる。
「フィル、元気にしているようで何よりだ」
「お、お兄様こそお元気そうで……それで、一体どういった風の吹き回しかしら。わざわざ学院まで来るなんて」
兄に声をかけられて、フィルイアルは動揺を抑えるように答えた。
「お前とは、きちんと話しておきたいと思ってな。あのまま喧嘩別れしたままだと、どうにも気まずい」
「だからって、こんな所にまでわざわざ来なくても。周囲に与える影響とかも、考えたらどうかしら」
「もちろん、学院の許可は取っている。私とて、勝手に学院内を好き勝手動くということはしないよ」
そこで、皇太子の視線がエンティとドランの方に移った。
「と、フィルの友人か。これは失礼した。知っているかもしれないが、私はこの国の第一王子、アストニアだ」
そして、そう名乗った。
「これはご丁寧にどうも。俺はドラン、こちらはエンティです。姫様には、良くしてもらっていますよ」
エンティが皇太子相手に萎縮していると思って、ドランはエンティの分も兼ねて自己紹介をする。とはいえ、当のエンティは以前に国王に会っていたこともあり、ドランが思っているほどは萎縮はしていなかった。
「まさか、お前が異性の友人を作るとは思わなかったよ。それも、見る限り貴族でもなさそうだ。本当に、どういう心境の変化だ」
「私がどのような人を友人にしても、それは私の自由でしょう」
アストニアにそう言われて、フィルイアルはむっとしたように返す。
「おっと、勘違いするなよ。私は責めているわけじゃない。むしろ、身分で人を見ずに中身を見ているのだろうと感心しているといってもいい」
「いくらお兄様でも、私の友人達を侮辱するようなら許さないところだったわ」
フィルイアルは鋭く刺すような目つきで、アストニアを見据えた。
「なるほど、やはりお前は考え方が変わったようだな。となると、あの服装も何の考えもなしにやったわけではない、ということか」
アストニアはどこか納得したように頷いていた。
「あの服装って……」
それを聞いて、ドランが表情を曇らせる。喧嘩の原因が、自分が用意した服にあると気付いたようだった。
「大丈夫、問題ない」
そんなドランを見て、ミアが小さく首を振った。
「私は、ミアが正当な評価をされないことが我慢できなかっただけ。それ以外にはないわよ」
「ま、お前が今までやらかしたことに比べれば、ずっと可愛いものだがな。それに、私も少々言い過ぎたと思っている。あのくらいの余興を受け入れられないようでは、まだまだ器が小さいと言われても仕方ない。現に父上は、全く咎める様子はなかった」
「お兄様?」
アストニアが何を言わんとするのか掴めずに、フィルイアルは不思議そうにアストニアの顔を見ていた。
「それに、お前が学院できちんとやっていることも見れた。もう十分だ。今のお前なら、安心して見ていられる」
アストニアは軽くフィルイアルの頭を撫でる。
「お兄様、もう子供じゃないのよ」
言葉こそは否定するものだったが、フィルイアルは嫌がっているような素振りは見せなかった。
「もう、こんなことができる機会はそうないからな。少しくらいは大目に見てくれ」
アストニアはふっと笑みを見せると、フィルイアルの頭から手を離した。
「色々と問題を起こす妹だが、それでも私にとっては大事な妹だ。二人共、フィルとこれからも仲良くしてやって欲しい」
そして、エンティとドランに頭を下げる。
「い、いえ。俺達の方こそ……」
「はい、姫様が望む限りは、友人として仲良くしたいと思っています」
アストニアに頭を下げられて、さすがのドランも動揺を隠しきれなかった。だが、国王との面会で耐性ができていたエンティは、そう言うと頭を下げた。
「そうか。よろしく頼むよ。それと、ミア」
今度はミアの方に視線が行く。
「何でしょう」
「フィルの我儘に付き合わせて、済まないとは思っている。だから、こんなことを言うのは筋違いかもしれないが、これからもフィルのことをよろしく頼む」
「もちろんです、それが、わたしの仕事ですから」
「ありがとう。貴重な昼休憩の時間に手間を取らせてすまなかったな」
アストニアはそう言うと、まるで何事もなかったかのように食堂から出て行った。
「本当に、もう。公私混同も甚だしいわ」
フィルイアルはその背中を見送りながら、悪態を付くような言葉を口にする。だか、その表情からはそれが照れ隠しであることがわかる。
「でも、一応和解はできた。それは良かったと思う」
ミアはどこかほっとしたような、そんな表情をしていた。
「まさか、皇太子殿下が直接来るなんてな。寿命が縮まるかと思ったぜ」
「はは、そうだね」
ドランがそう言うので、エンティは合わせるように言った。だが、先に国王に会っていたからそこまで緊張するようなこともなかった。
「みんな、ごめんなさいね。お兄様が突然来たから驚いたでしょう」
フィルイアルが三人に謝ったが、三人は揃って首を振った。
「そう、ありがとう」
それから四人はたわいない話をしつつ、昼食を楽しんで過ごしていた。




