婚約破棄
「限度、だって。フィルの方こそ好き勝手やっていたじゃないか」
フィルイアルの様子が以前と違っていることに気付いたのか、ブルグンドは怪訝な表情になっていた。
「そうね。でも、私は王族として恥ずべき行為をしていたかしら?」
「それは……」
フィルイアルに詰め寄られて、ブルグンドは言葉を詰まらせていた。
「それに、私とあなたはお互いに利用し合う関係。最初にそう言ったのを忘れたかしら」
言葉を詰まらせているブルグンドの耳元で、フィルイアルは囁いた。
顔を近付けるのも嫌なのか、すぐに耳元から顔を話す。
「それは、そうだが」
ブルグンドは強く刃を噛み締めていた。ともすれば、歯軋りが聞こえてきそうでもあったが、そこは貴族の矜持なのかどうにか堪えているようにも見えた。
「あなたの最近の振る舞い、少々、いえ、かなり目に余るものがあるわ。こうなると、あなたとの関係も見直さないといけなくなるわね」
フィルイアルの表情は上から見下すようなもので、高圧的でもあった。
「なっ、今まではそんなこと言わなかっただろ。どうしたんだよ、急に」
それに気圧されたのか、ブルグンドは後退りしそうになっていた。
「ええ、あなたは私の婚約者だから、少々のことは大目に見てきたわ。でも、あなたは貴族としての限度を超えた行いをしているようね。いくら何でも、平民の店に無理強いするなんてやり過ぎだとは思わないかしら」
何て怖い顔をするんだよ……
エンティはフィルイアルがこんな表情をするのを初めて見て戦慄していた。
「姫様、相当……いえ、とても怒っている。あいつ、一体何をやらかしたの」
ミアもエンティと同じだったようで、フィルイアルの様子に少し引いていた。
「えっと、ドランの店に結構無茶な要求をした、って聞いているけど。今その件を口にしたから、それには相当頭に来ているようだね」
エンティはフィルイアルがドランの店の件を口にしたことが、少々意外に思えていた。
あの一件では、そこまで怒っているようには見えなかったが、相当腹に据えかねていたらしい。
「それはわたしも聞いた。でも、姫様があそこまで怒るなんて」
「まあ、あの様子だと他にも色々やっていそうだね」
二人がそんなことを話していると、揉めていることに気付いたのか周りの貴族達が注目しだした。
「何、あれは姫様と婚約者のブルグンドよね」
「ああ、どうやって姫様に取り入ったのか知らないが、かなり好き勝手やっているようだな」
そんな声がちらほらと聞こえてきた。
「他の貴族達も知っているくらい、好き勝手していたみたいだね」
「わたし、あいつは嫌い。姫様があいつを婚約者にするって言った時、反対したけど……姫様は、あいつにも利用価値があるって」
ミアはブルグンドが心底嫌いなのか、汚物を見るような表情になっていた。
「利用価値、か。姫様の人を見る目は確かだから、あいつが屑だってことはわかっていると思うけど。屑には屑なりに利用価値があるってことなのかな」
エンティの目から見てもブルグンドがろくでもない人間だとは察せられた。そんな人間にどんな利用価値があるのかはわからないが、フィルイアルは何かしらの利用価値があると判断したのだろうか。
「大体、俺が何をやったっていうんだよ。フィルだって、王宮内では好き勝手やって周りに迷惑かけてたじゃないか」
我慢できなくなったのか、ブルグンドは声を荒げていた。
「……そうね、それは否定しない。でも、私はあくまで王宮内だけの事。あなたのように、貴族社会の外にまで迷惑をかけた覚えはないわ」
対照的に、フィルイアルは落ち着いた口調だった。
「なっ……平民は貴族に従うものだろう。融通を利かせるように指図して何が悪い」
「いいえ、その認識は間違いよ。王族貴族は平民が納める税金で暮らしている。だから、彼らに対してそれ相応の見返りを与えるのが王族貴族の義務よ。決して平民に無理強いをしていいわけではないわ」
フィルイアルがそう言うと、周囲の貴族達がざわめきだした。
「今、姫様何て言った?」
「あの姫様の口から、王族貴族の義務について語られるなんて」
「嘘、だろ……」
その様子からして、いかにフィルイアルが王宮内では好き勝手やっていたのか想像できてしまう。
「姫様、一体何やったんだ……」
エンティは思わずこめかみを抑えてしまう。
「わたしが説明してもいいけど、後で姫様に怒られる。ただ、上に皇太子がいて、下にも王子がいる。だから、姫様の扱いはぞんざいだった。それに対する反発」
ミアはフィルイアルの扱いを思い出したのか、小さく息を吐いた。
「そっか。国を継ぐのは皇太子だろうし、万が一なにかあっても下の王子様が継ぐわけか。確かに、姫様の出る幕はない、か」
「どうせ政略結婚の道具にされるくらいなら、ってあいつを婚約者にした。その気持ちはわかるけど、もう少し相手は選んで欲しかった」
「でも、それは……」
それはこの国の姫として、避けられないことだと言いかけてエンティは言葉を飲み込んだ。
「あなたの言いたいことはわかる。でも、あんなにぞんざいな扱いをして、更に道具として扱われるなんて、普通なら我慢できなくて当然」
エンティの言いたいことがわかったのか、ミアはフィルイアルを庇うような言葉を口にする。
「あなたの悪行に関しては、ちょっと調べさせてもらったわ。王宮御用達の店であるフォール商会に、かなりに無理難題を吹っ掛けたようね。それも、私の婚約者ということを盾にして」
改めて口に出すあたり、フィルイアルはドランの店の件は相当に頭に来ているのが嫌でもわかる。
しかも、見下すとかそういう状況は既に飛び越えており、人を見るような目で見ていない。
「なっ……その件は、ご破算になったんだが。そこまで知っているってことは、フィルが手を回したのか」
具体的な内容を上げられて、ブルグンドはフィルイアルが手を回していたことに気付いた。以前なら見逃されていたであろうことに手を回してきたことに、今までとは違うと思い知らされる。
「それだけじゃないわね。他の身分の低い貴族にも、私の婚約者だということを盾にしてかなり無理な要求をしていたことも全て把握済みよ」
「そ、それまで……」
今までフィルイアルが何も知らないと思っていたこともあり、ブルグンドは次々と指摘されることに反論ができなかった。
「将来私と結婚した時のために、下地でも作ろうと思ったのかしら。勘違いしないでもらいたいのだけど、あなたにそこまでの力があると思っているのかしら。あなたは私の婚約者だというだけの、何も中身が伴わない人間よ」
「い、言わせておけば‼」
それまで体を震わせていたブルグンドは激高してフィルイアルに飛び掛かろうとする。
「そこまで、それ以上の狼藉をすれば、あなたはただじゃすまない」
だが、ミアの剣がブルグンドの喉元に突き付けられた。
「くっ、下級貴族の分際で。お前こそ、こんな場で剣を抜いてただですむと思っているのか」
「わたしは姫様の危機に際して、剣を抜くことを許されている。そして、その判断はわたし自身に委ねられている」
見下すようなブルグンドに、ミアは射貫くような視線をぶつける。
ブルグンドはわなわなと体を震わせているが、剣を突き付けされているせいで動くことができなかった。
ブルグンドが一応落ち着いたのを見計らって、ミアは剣を納める。
「はぁ、あなたには本当に失望したわ」
フィルイアルは呆れたように溜息を吐いた。
「自分にとって耳の痛いことを言われて、反省するどころか私に襲い掛かろうとするなんて。正直、あなたがここで反省するなら今までのことは許そうと、そう思っていたのよ」
「反省、だと。どうして俺がそんなことをする必要がある」
「私も、かつてはそう考えていたわ。でも、自分に耳が痛いことを言われて、それをしっかりと飲み込んで、考える機会があった。あなたにもその機会を与えたのだけど、無意味だったようね」
そこで、フィルイアルはブルグンドの耳元に顔を近付けた。
「もう、あなたに利用価値はなくなったわ」
それを聞いて、ブルグンドの顔が真っ青になる。
「あなたのこれまでの行動、そして、今回の狼藉。ここまでしてしまった以上、もうあなたを許すわけにはいかないわ……あなたとの婚約は、破棄します」
それを確認してから、フィルイアルは一際通る声ではっきりと言い切った。
「お、おい、冗談、だろ。考え直してくれよ、フィル」
ブルグンドは膝からその場に崩れ落ちた。
「もう、その名前で呼ぶことも許さないわ。私をそう呼んでいいのは、私が本当に信頼できる相手だけよ」
そこで、気のせいかフィルイアルの視線が一瞬だけエンティに向けられたように見えた。
ブルグンドは呆然として、その場から立ち上がれずにいた。
「皆様、私事で騒ぎを起こしてしまい申し訳ありません。ですが、今日ここで宣言したことは覆ることはありませんので、そこはよろしくお願いします」
ブルグンドに目もくれることすらなく、フィルイアルは高らかに言い放った。
「エンティ、ごめんなさい。飲み物を探しに行ったのだけど、こんな騒ぎになってしまって」
そして、フィルイアルはエンティに近付いてくる。
「あ、それは構いません。でも、いいんですか。あの手のは逆恨みで何をするかわかりませんよ」
まさかこんなことになるとは思わなかったこともあり、エンティは今後のことが気になっていた。
「大丈夫よ。あれは見かけ通り小心者だから。私に何かしようなんてできるわけがないわ」
「いや、直接姫様に何かするとは思いませんよ。でも、その矛先を他に……そう、ミアとかに向けないとは限りません」
エンティがそう言うと、フィルイアルの表情がぞっとするようなものになった。
「もし、そんなことをしてみなさい。私の全力を持ってあいつの全てを潰すわよ」
その迫力に、エンティは何も言えなくなってしまった。
フィルは、絶対に怒らせたらいけない人だな。僕も気を付け……って、初対面であんなことを言って、よく無事だったな、僕。
フィルイアルの知らなかった一面を知って、エンティは背中に冷や汗が流れるのを感じた。
「どうしたの? 顔色が悪いわよ。やっぱり、何か飲み物を持ってくるわね」
「あっ」
エンティが止める間もなく、フィルイアルは飲み物を探しに行ってしまう。
「僕、姫様は絶対に怒らせないようにしようと、そう思ったよ」
「それには同意。でも、姫様は筋の通らないことでしか怒らない」
「それでも、だよ。あんなおっかない姫様は初めて見たから」
エンティは改めて、フィルイアルを怒らせてはいけないと心底から誓うのだった。




