婚約者
「休みなのに休んだ気がしなかったなぁ。まあ、楽しかったからいいけど」
先日のことを思い出して、エンティはそんなことを呟いていた。
「僕ももっと知識を得ないといけないね」
エンティが教室に入ると、今日は珍しくドランが先に席についていた。下を向いて何かを考え込んでいるようにも見えた。
「おはよう、今日は早いんだね」
「お、エンティか。おはよう」
エンティが挨拶をすると、ドランが顔を上げた。
「何だか、難しい顔をしているようだけど。何かあったのかな」
ドランがらしくない表情をしていたのを見て、エンティは何気なく聞いた。
「ん? ああ、ちょっと面倒なことがあってな。俺がどうこうできる問題じゃないんだが、何かできないかと考えずにいられなくてな」
ドランはそこで小さく息を吐く。
「君がそこまで言うなんて、余程のことがあったようだけど。僕で良かったら、相談に乗るよ」
ドランには普段から世話になっていることもあって、エンティはそう言った。
「そうだな。誰かに話せば楽になるっていうしな……俺の実家の問題だから、あまり大っぴらにはできねえけど、お前ならいいか」
「それだけ信頼してもらえていると、嬉しいよ」
ドランにそう言われて、エンティはふっと笑みを漏らしていた。
「お前は平気な顔でそういうことを言うからな」
ドランは苦笑とも呆れともとれるような、何ともいえない表情を浮かべていた。
「良くないかな?」
それを受けて、エンティは思わずそう聞いていた。
「いや、悪くないとは思うぞ。だが……いや、これは余計なお世話か」
ドランはそれを肯定しつつも、何かを言いかけて止めた。
「何だい、気になるじゃないか」
「まあ、これは他人がどうこう言う問題じゃないと思うからな」
「そういうものかい」
エンティは納得できなかったが、無理に聞き出すようなことはしなかった。
「ま、話が逸れたけど、そろそろ本題に入るか。姫様の婚約者っていう貴族がうちの店に来たみたいでな。まあ、貴族様が来店するのは珍しいことじゃないんだが」
ドランはそこで言葉を切った。
「何でも、かなり無茶な要求をしてきたようでな。そんな要求を飲まされたらこちらは大赤字だ。いくら貴族様でも、筋が通らない。親父も兄貴もそんな要求は無理だと突っぱねた。当然の話だ。だが、相手は姫様の婚約者だということを盾にして強引に押してきたらしくてな」
そこまで話すと、ドランは納得いかないような表情を浮かべていた。
「姫様の婚約者、か。確か、あまり身分の高くない貴族だって話だけど」
エンティは以前フィルイアルから聞いた話を思い出していた。
「最初の印象の姫様の相手だったら、納得できる対応なんだが。俺が今姫様に抱いている印象からすると、こんな奴を婚約者にするのが信じられなくてな」
ドランは大きく息を吐いた。
「ああ、これは話していいのかわからないけど、婚約者を決めた時の姫様、かなり荒んでいたみたいだから。その影響もあって、そんな相手を選んだんじゃないかな」
「何でそんなこと知ってるんだ?」
エンティがそう言うと、ドランが不思議そうな顔をしていた。
「この前の薬草採取の時に色々と話をしてね」
「ああ、そういやそうだったか。姫様、お前のこと相当信頼しているんだな。他人、しかも平民にそこまで話さないだろ」
「そう、なのかな。それなら嬉しいけど」
エンティは自分の胸元に手を当てる。
フィルイアルとはそれなりに仲良くはできているが、信頼されているかどうかまではわからなかった。
「自分じゃ気付いていないかもしれんけど、お前意外と人に信用されやすいのかもな。何だかんだで俺もお前のことは信頼しているし。ミアもきっとそうだろうな」
そんなエンティを見て、ドランは仕方ないというような笑みを浮かべていた。
「で、その問題はどうするつもりなのかな」
「ああ、親父達はできるだけ相手と折り合いを付けるつもりでいるようだが、相手が中々に強情みたいでな。それでかなり困ってるようだな」
「姫様に相談してみるのはどうかな」
「姫様に、か。いや、俺の実家の問題に姫様を巻き込めないだろ」
エンティが提案すると、ドランはいやいやと首を振った。
「でも、姫様も自分の婚約者がそんなことをしている、なんて風評が広まったら困るんじゃないかと思うんだ」
「それも一理あるが……」
それでもドランは中々首を縦に振らなかった。
すると、いつも通りミアに先行されてフィルイアルが教室に入ってくる。
「噂をすれば、だね。姫様、ちょっと話があるんですけど、いいでしょうか」
それを見たエンティは、フィルイアルに声をかけた。
「お、おい」
ドランは慌てて止めようとするが、フィルイアルはミアと一緒に真っ直ぐこちらに歩いてくる。
「どうしたのかしら、エンティ」
フィルイアルは穏やかな笑みを浮かべていた。
「いえ、僕じゃないんですけど。ドランの実家の方で、ちょっと問題があったみたいで」
「あら、あなたが私に話があるなんて、珍しいこともあるものね」
フィルイアルは意外そうな顔をしてドランの方を見る。
「あ、正直、姫様のお手を煩わせてしまうのは悪いと思ったんですが」
「あなたには色々と便宜を図ってもらったわ。少しくらいのことなら問題ないわ」
申し訳なさそうに言うドランに、そんなことは気にするなというようにフィルイアルは小さく首を振った。
「そうですか。では、ちょっと困ったことになりまして。うちの実家に無茶な要求をしてきた貴族がいるのですが、その貴族は姫様の婚約者だと言っているみたいで」
「その貴族の名前は?」
それを聞いた途端、フィルイアルの表情が一変する。
「……確か、ブルグンド、と名乗っていたかと」
その表情に一瞬だけ気圧されたが、ドランはそう答えた。
「ブルグンド、その名前で間違いないのね」
「ええ」
自分の質問をドランが肯定すると、フィルイアルは大きく息を吐いた。
「あの馬鹿、何やってるのよ。貴族がその権限を、しかも私の名前を使ってまで平民に無理な要求をするなんて」
そして、右手を額に当てると絞り出すような声で言った。
「あの、まじ……いえ、本当に姫様の婚約者なんですか。正直、信じ難い話でしたので」
「恥ずかしながら、そうなるわね。わかったわ、その件に関しては私の方でどうにかするわ。後、あなたのお父様に私が謝っていた、と伝えてちょうだい」
そこで、フィルイアルはドランに向けて頭を下げた。
「いえ、悪いのはその貴族なのですから、姫様が謝ることは」
そこまでされるとは思わなかったこともあって、ドランは大慌てで両手を振った。
「私の婚約者の不始末だもの。私に責任がないと言い逃れはできないわ。これでいいわよね、ミア」
そこで、フィルイアルは隣にいるミアの方を見る。
「それで、いいと思います」
ミアは小さく頷いた。
「姫様、ありがとうございます。俺の実家の問題なのに、ここまでしてくださって」
「さっきも言ったけど、私の婚約者がしでかしたことだもの。私が好き勝手させ過ぎた責任も否定できないわ。じゃ、近々良い報告を聞けると思うわよ」
フィルイアルはそう言うと、自分の席へと戻っていった。
「ね、姫様に相談してよかったんじゃないかな」
エンティはニヤリと笑うと、ドランにそう言った。
「ああ、だがいきなり声をかけたりしないでくれよ。心臓に悪い」
ドランは苦笑していたものの、エンティに文句を言うようなことはしなかった。
「だが、あんな無茶を言うような相手が、いくら姫様の言うこととはいえ、素直に聞くか怪しいんだが」
「そこは姫様の手腕に期待、ってところじゃないかな。僕は大丈夫だと思うよ」
「ま、お前がそう言うなら俺も信じることにするか」
二人がそんなことを言っていると、ルベルが教室に入ってくる。
「お、授業が始まるな。今日も頑張るとするか」
「そうだね」
二人は顔を見合わせて、授業を受ける手筈を整えた。




