三枝明里
『学校でもし早川って苗字の女の子に会ったら仲良くして欲しいな』
小学校卒業を控えていたまだ肌寒い冬の日。
私立中学の合格発表から数日経って突然父が私にそう言った。
理由を訊ねると、『パパの友達の娘さんなんだ』と言った父の顔は少し疲れているように見えた。
早川という苗字は特段珍しくなく、二人以上いてもおかしくはないため、下の名前は何かと続けて訊ねた。
すると『んー』と眉間に皺を寄せ少しの間唸り、すぐに徳川の埋蔵金でも掘り当てたような明るい表情をして父は『ユキノ』と答えた。
早川雪乃は私の中学からの同級生で、父親が代表取締役社長を務めるHAYAKAWAグループのご令嬢だ。
HAYAKAWAグループは書籍や雑誌などの出版事業、アニメや映画などの映像事業やゲーム事業の他にも教育関連など様々な事業手掛ける総合エンターテインメント会社。
彼女は次女で4つ歳の離れた優秀な長女がいるそうだ。
中学の頃に早川家を訪問した際に一度目にしたことがあるが、スラッとした体型でモデルのようだと感じたのを憶えている。
私の父は弁護士で、早川文庫の顧問弁護士を務めることになって間もなく、大事な友達の御息女が私と同じ私立中学を受験し、合格したことを知り仲良くするよう頼んできたのだ。
父は弁護士という職業に似合わず温厚な性格で母の尻に敷かれるタイプだが、仲は良く経済的にも充実していてそんな家計を支える大黒柱の父親の些細な願いを聞き入れるのは吝かでもなかった。
中学進学後、早川雪乃という人間の気を引くための褒め言葉を色々用意して挑んだ私の仕事は、想像していたものとはまるで異なっていた。
雪乃はイイ子だった。
プライドが高く傲慢で人を見下すサディスティックな女の子をイメージしていたけれど、暗いというよりかは物静かで、人見知りというよりは人に興味がないような様子で、長めの前髪は外界と壁を作るように垂れ、本を読むためだけにあるかのようにいつも伏し目がちな瞳が綺麗な、普通の女の子だった。
最初は自分のことを何も話さない雪乃との距離の詰め方に戸惑ったものの、いつも私の後ろを追い掛けるように付いてきて、私が入部したバスケ部の練習が終わるのを帰宅部ながら健気に待っていたことがあるほど懐いてくれるようになり、一人っ子の私は妹ができたみたいで嬉しかった。
無理して会話を続けなくてもいい、傍にいるのが自然な関係性に心地良さを感じるようにもなっていった。
"親友"という言葉の定義を明確に表すのに一番簡単なのは過ごした時間の長さだと思う。
けれど、そこには過ごした時間の濃密さや人の気持ちも計算に入れなければならない。
ただ中学から約四年間同級生として過ごしただけの友達を親友と呼ぶにはあまりに軽率で軽薄だ。
それなら親友のさらに上位の友人関係を表す言葉が必要になるだろう。
雪乃は数いる友達の一人ではあるが、私と雪乃の関係性は親友と呼ぶに相応しい。はずなのに、彼女の瞳の中に見える何かに、今もずっと言い知れぬ違和感を感じている。
「実は明里のこと好きだったりして。」
別のクラスなのに前席に座り身体をこちらに向けている友人の花菜がニヤリと口元を緩ませていた。
私と同じクラスの沙織はというとその隣でスマホを片手に立っている。
教室の上部からの暖房が朝の通学で冷えた身体を舐めるように吹き付ける。
吐息で温めていた悴んだ手のひらを口元から離した。
「なんの話し?」
「沙織と話してたんだけど、最近一ノ瀬先輩って明里のこと結構見てる感じするんだよね〜。こないだも何か話してたでしょ?」
「そりゃ同じバスケ部だから話くらいはね。」
「わたしと沙織もバスケ部なのにひとっっ言も喋ったことないんですけど?」
花菜の訝しげな眼差しが真っ直ぐ私を見つめていると空かさず隣にいる沙織が口を挟んだ。
「男バスはうちらお遊びの女バスとは違うからね。接点あるようでないよな。」
「お遊びっていうな。」
ムッとした花菜の眼が身長165cmほどの沙織を見上げた。
花菜と沙織は高校に入部後にバスケ部繋がりでできた友人で知り合ってまだ一年も経ってないが親友と呼べるほど濃い時間を過ごしている。
やはり部活動は交友関係を深めるのにこれ以上ない有効な手段だと言える。
昼食時はここに花菜と同じクラスの雪乃も交えて4人でいることが多い。
「そういえば一ノ瀬先輩、月バスの特集に載るらしいよ。ウィンターカップの先輩凄かったもんね〜。前から上手かったけどさ〜なんか才能が覚醒したって感じ?」
全国高等学校バスケットボール選手権大会。
通称ウィンターカップ。
先月のクリスマスに決勝戦が行われ、うちの高校の男子バスケ部は優勝こそ逃したものの善戦し準優勝に輝いた。
中でも一ノ瀬湊先輩は全国屈指の選手として以前から注目を集めていて、今回は特に決勝戦で一人で52得点も決めた選手としてバスケットボール専門誌に掲載されるようだった。
「んで、その覚醒の理由は明里との恋なんじゃないかって!」
「はは……。いや、ないから。ほんと。」
花菜は思ったことを口に出すハッキリした性格ではあるが、安易に噂話を吹聴したりはしないけれど。
「噂になったらめんどくさいからやめてね。」
そう釘を刺しておくと、花菜はさして気にもしてなかったような表情で「ふうん」と応えた。
花菜も沙織も勘が鋭い方だ。
だから本当に何でもないことなのだと察するのも早いのだろう。
もし本当にあの一ノ瀬先輩が私に好意を向けているのだとしたら当然、満更でもないのだけれど。
「あ、そういえば明里があげたヘアピンさ、なんか効果でてきたみたいだよ。」
「どういうこと?」
「うちのクラスの男子が「早川さんちょっといいよね」とか「話しかけてみろよ」みたいな感じで雪乃の話で盛り上がってるの聞いちゃってさ〜。」
花菜の話を聞いて、ふと以前一ノ瀬先輩に訊かれた台詞を思い出した。
『三枝って早川さんと仲良いよな?』
『早川さん部活とか何かやってるの?』
別に大した話ではない。
「気付くの遅過ぎだよねー。私は中学の頃から雪乃は結構可愛い顔してるなって思ってたけど。」
目立たなかった子が少し垢抜けたから気になるのは不思議なことじゃない。
「何のマウントよ。」
「私のヘアピンが仕事したでしょ。」
「ピンあげただけじゃん。」
いつもと同じ他愛のない会話の一つであるはずなのに、胸に引っ掛かる何かが私に作り笑いをさせた。
バスケットボール部と一括りに言っても女子部と男子部とで全く同じではない。
共通してるのは練習日だけで、一つの体育館を半面ずつ利用することもあれば第1体育館と第2体育館をそれぞれ全面利用することもある。
体育館の利用方法はバレーボール部やバドミントン部など他の部活動との兼ね合いによって決められているが、中でも男子バスケ部は優遇されていて、毎年スポーツ推薦で入学者がいるほど力を入れている種目の一つだ。
練習がない日の放課後は雪乃と過ごしたりクラスメイトといることが多い。
花菜と沙織とは通学路が校門を出てすぐ反対方向のため、どこかに寄る予定が無ければ放課後はあまり一緒にいない。
今日は練習が無く、雪乃の図書委員活動もないため一緒に帰ることになっていた。
「雪乃はこのあと何か予定ある?」
「ないよ?」
「じゃあ生物準備室寄らない?」
「いいよ。どうして?」
「メダカ見に行きたい!」
「うん」
少しだけタレ気味の優しい目がニコッと微笑む様子が可愛らしい。
長かった前髪が横に流されてから顔がよく見える。
先月あげたヘアピンを気に入ったのか、雪乃はそれから毎日身に着けている。
雪乃がメダカを見によく生物準備室に出向いていることを知ったのは2ヶ月程前の初冬のことだ。
雪乃が何かに興味を持って自分から行動する姿が珍しく、私もそれに興味が湧いていた。
生物準備室のドアは鍵がされておらず、部屋には誰もいなかった。
「桐谷先生いないんだ。」
「たまにしか来ないよ」
「勝手に入っていいの?」
「たぶん大丈夫」
たぶんと言われると少し不安だけれど、先生は知っていて何も言われたことがないらしい。
少し屈んで水槽のメダカを眺めてみる。
白く透明で頬の辺りが紅く染まっているところが可愛らしい。
一匹だけ丸みのあるメダカを見つけると、指を差そうとした私の手が雪乃の手の甲に触れた。
「雪乃あったかいね。」
「そう……かな」
雪乃の手を覆うように握ってみる。
「ほら、人間ホッカイロ。」
「……」
「ポカポカ〜。」
「明里は冷たい」
少し照れくさそうに笑っている雪乃を見て、今朝の花菜の話を思い出した。
なんだか少し居た堪れない。
「よし!キャラメルスチーマー飲みたい!」
「明里そればっかり」
「雪乃も好きでしょ?」
「……」
「え、いつも飲んでるじゃん!」
「す……」
「?」
「すき」
「おお〜。雪乃の口から好きって言葉初めて聞いたかも。」
雪乃は好きなものが少ない。
女子が挨拶のように多用する「かわいい」や「すき」を彼女は滅多に言わない。
言い慣れない言葉だからかとても照れくさそうで頬がほんのり紅く染まっている。
雪乃の熱が上がっていくのを手のひらが感じる。
ああ確かに、この女の子は可愛らしい。