早川雪乃
薄暗い部屋の中、か細く甘い声が名前を呼んだ。
吐息が当たるほど目と鼻の先にある彼女の目はうっとりとして、頬は少し紅潮しているように見えた。
「どう……したの?」
「あの時、私が言ったこと憶えてる?本気で言ったんだよ」
「どの時……?」
「してもいい?」
「なにを……?」
彼女の唇が耳元まで近付いていく。
そして囁くように呟いた。
「キス」
* * * * *
その人は優しい。
スポーツもできて女子から人気。
その人は明るい。
気さくで親しみやすく男子から人気。
その人は友人。
思いやりがあって温かい。
その人は親友。
私の愛した女性。
人間は考える葦である。
ヒラヒラと尾びれを揺らしながら60cmのキューブの中を泳ぐ白透明鱗のメダカを眺めながらパスカルの言葉を思い出した。
人は独りでは何も出来ない弱い存在であると同時に、思考することができる偉大な存在だということを謳った言葉だ。
もしメダカに人間のような知性があれば、童謡にあるメダカの学校はどんな学校になっていただろうか。
きっと幼い子供が元気に歌えるような歌詞にはならないだろうと思う。
突然知性を与えられたが故に、目覚めた自我が今まで上手くやれていた関係を少しずつ崩壊させていく。
それが偉大である証だとひねくれた解釈をするのは、私がまだ16歳になったばかりの子供だからなのか、親友の女の子に特別な感情を抱き執着するだけの何の取り柄もない生物だからなのか。
水槽の水換えが終わると、16時を過ぎた生物準備室には夕日が差し込んでいた。
生物科目担当の桐谷先生がここで飼育しているメダカの世話を時々手伝わせてもらっている。
朝とこの時間の餌やりは日課だが、水換えは経験がまだ浅い。
他人より記憶力に乏しい私は、水槽の掃除方法など大事なことは特にメモ帳に記している。
冷え込んでくるこの時期は水換え用の水を汲み置きしておく期間が長くなるらしく、今回は5日も日に当てていた。
ひと息吐いて水槽を見やると、10匹ほどのメダカの群れがまだ軍隊の行進のように息を揃えて泳いでいた。
文字通り白くて少し透明で、頬の辺りがポッと紅く染まっている姿がとても可愛らしい。
全ての生き物は遺伝子の奴隷である。
いつか読んだ本にそんな言葉があった。
随分偏った考え方だと思う。
幼い頃の私は、メダカは独りが恐い寂しがり屋だと思っていた。
みんなただ寂しくて、その気持ちをお互いに許容し合い、寄り添っているのだと。
私にそっくりなのに、周りと上手く馴染めるメダカが羨ましかった。
生き物の行動にはだいたい理屈を付けられるらしい。
人間も生き物として遺伝子の奴隷とするなら、私の遺伝子は何を望んでいて、どんな理屈が付くのだろう。
「早川さんお疲れ様です。水の入れ換えは終わりましたか?」
開けたままの部屋のドアの前には生物科目の桐谷先生が立っていた。
ふわっとした癖毛に眼鏡が印象的でどこか優しい雰囲気の漂う先生だ。
「はい。さっき。」
そう応えて餌袋を手に取って見せた。
その行為の意図を察するように先生は軽く頷いた。
「帰る時は鍵を閉めて来て下さい。これから会議で遅くなりそうなので。鍵は僕のデスクに置いておいてもらえますか?」
「はい。」
コクンと小さく頷く。
桐谷先生は軽く微笑み背を向けると、入れ替わるようにパッと明るい笑顔をした少女が入ってきた。
「雪乃! 帰ろ!」
彼女の動きに肩先まで伸びたサラサラの髪がふわっと靡く。
一本一本の髪がまるでメダカの群泳のように流れて、追い掛けて、纏まる様子につい見惚れてしまう。
「……あれ、なんか予定あった?」
「ううん。職員室に寄るから、待っててくれる……?」
「鍵?いいよ、一緒に行こ!」
餌袋のチャックを閉じながら、親友の明里をちらりと横目で覗うと子供を見守る母親のような眼差しで真っ直ぐこちらを見つめていた。
「雪乃ってメダカ好きだったんだね。」
「ん……たぶん?」
言葉にならない声が漏れた。
「えー? 好きだからここ来てるんでしょ? あ、桐谷にやらされてるとか?!」
首を横に振り、伸びた前髪が視界で揺れる。
「可愛いから、来てる」
「確かに可愛いよね。なんかほっぺ赤いし」
「うん。あと何も考えてなさそうな、自由な感じとか」
「ちょっとわかるかも。平和そうだよね」
クスッと明里が笑っている。そのまま水槽に顔を近付けると、呟くような声で続けた。
「なんか雪乃に似てるかも」
「……そう?」
「うん、可愛い目しながらボーッとしてる雰囲気とか、こう……小動物みたいな感じ?」
そう言うと明里はハッと何かに気付いた様子で慌ててこちらを向いた。
「悩みなさそうとか思ってないからね!? 深い意味はないよ?」
「う、うん」
明里の必死な表情に思わず笑みがこぼれた。
「ていうか雪乃さ」
水槽の高さまで屈んでいた明里のスラリとした脚が伸び、肩にかけていたスクールバッグのチャックを開けると中を物色し始めた。
すると「あった」と呟きながら取り出した手には黄色いシンプルなヘアピンが握られていた。
「眼、見えてた方が絶対良いって!」
明里の伸ばした左手が近付いてくる。
前髪の内側に滑らせた指の関節が額に軽く触れ、伸びた前髪を手のひらで優しく掬い上げ器用に束に纏めた。
恥ずかしさと緊張で身体が硬直する。
突然の出来事に見開いた目が露わになり、一瞬合った目を逸らした。
ふわっと香るシャンプーの良い香りが鼻腔を優しく通り抜けていく。
「雪乃の髪って見た目より柔らかいよね。」
ボソッとそう呟きながら纏めた前髪が右側に流され、ピンを持った手と一緒に彼女の顔が目と鼻の先まで近付いた。
「想像より、だけど。昔から櫛で梳かしたりしてないでしょ?寝起きのまま学校来てますって感じの日とかあるしあんまり気付いてる人いないかもしれないけど――」
明里から微かに漏れる吐息を肌が感じる。
そのすぐ後にこめかみ辺りでヘアピンがスっと差し込まれた。
「結構サラサラだしツヤっぽいなと思ってたからもっと硬いのイメージしてたよ」
そう言いながら私の全身をその瞳に映すようにして少し距離を空けた。
「……ほら、絶対可愛いと思った」
俯いていた顔を上げてみると、得意気に微笑む明里が窓から差し込む夕焼けに照らされて美しい紅に染まっていた。
それは今まで見た事もないような、あまりに美しい光景だった。
1秒が永遠に感じられるほど長く、ただ恍惚とその光景を見つめていた。
「それあげる。来年は先輩になるんだし、雪乃もちょっとは身なりにも気を使わないとね」
"好き"。その言葉が心の奥底から湧き出るように頭に浮かんだ。
意図せず本能的にその単語が思い浮かんだことは何度もある。
そこにはいつも必ず彼女がいて、意識する度に心臓が全力で身体中に血を巡らせて火照らせるのが心地良かった。
彼女にもっと触れて欲しい。そう思えば思うほど、今も手を伸ばせば届きそうな距離にいる彼女に手が届かない事実に打ちのめされきた。
だから私は、この1mほどの距離を保ってたまに与えられる幸福を享受するしかない。
「あっ」
振り絞った声は嗚咽するような音を出した。
「ありがとう……」
「どういたしまして」
校舎を出ると、一瞬肌を刺すような北風が吹いて明里の指先がブレザーの下のカーディガンの袖の中に隠れていった。
校門前にそびえ立つ桜の木はもう葉の無い枝を剥き出しにして春の訪れをじっと待っている。
明里はいつも私の半歩先を歩いて、私はその後ろ姿を見つめるこの時間に安心する。
みんなに優しくて輪の中心にいる彼女は、二人きりのこの時間には私のためだけにこの場所にいるんだという事実に幸福感を覚える。
時折こちらを向いて顔が見えるくらいのこの距離感が丁度いい。
「雪乃は期末どうだった?」
「順位落ちちゃった」
「そっか〜。今回お姉さん忙しくて教えてもらえなかったんだっけ?」
「うん。」
「いいな〜東大行ってる上に美人なお姉ちゃん私も欲し〜。」
「明里は凄いね。順位表見たよ。」
「ありがとう。でも4位以上とは結構点差離れてるし格上って感じでしんどいな〜。」
そう言うと明里は「えへへ」とおどけたように笑った。
学年5位の明里に比べ私の成績は決して良いとは言えず、学年順位は100〜110位。
全国一の国立大学に通う姉や、中学時代からずっと成績上位を維持している明里に比べたら天地の差がある。
それでもこの有名私立校に合格できたのは優秀な姉が勉強を見てくれた影響が大きかった。
特に暗記物が苦手で、他人の何倍も勉強してようやく平均的な成績を出せるのが早川雪乃という人物。
けれど私にとって学校の成績なんてどうでもよかった。
私は明里と同じこの高校に通うために勉強した。
今はやる気のある明里に嫌われないように同じように勉強を頑張っているだけ。
親も不出来な私の成績や進路に期待などしていない。
明里とは友達として何も釣り合えないかもしれないけれど、私が頑張っている間は傍で一緒に勉強して応援してくれる。
私にとって三枝明里という人間が全てで、それだけあれば他には何も要らない。