3. アパートに着いたよ
『いつも通りだよ』
そう聞こえたのは気のせいだったのかも知れない。
愛ちゃんが玄関横の収納庫を開けるとガスメーターと水道メーターとビールの空き箱が目に入った。
黄色いプラスチック製のビールの空き箱を玄関下に置くと両手を広げてにバランスを取りながら乗って呼び鈴を押し「開けて」と声を掛けて飛び降りて元に戻す。
ガチャガチャと中から鍵を開ける音がして扉が開き「お帰りなさい」と優しそうなお姉さんが出迎える。
「ただいま!」と「お腹が空いたわ!」をほぼ同時に言いながら愛ちゃんは玄関を駆け抜け奥へと消えて行った。
『愛ちゃん待って、僕の事何か説明してから行って!』
突然の出来事に声がでなかった。
頭の中で愛ちゃんの『お腹が空いたわ』がまだ反響している。
置いてけぼりを食らった私は途方に暮れた。
「何かご用ですか?!」
優しい声が険しい声に、観音様の顔が般若の顔に豹変するのをこんなに間近で見る……いや体験する事になるなんて想像もしてない。
扉の外で茫然自失となっている私に情け容赦ない言葉が投げ掛けられる。
「あんた一体誰なのさ、今の時間は学校だろうどうしたんだい、用件がないんだったらいま直ぐこのアパートから出て行ってくれないかい、ここにはうち達しか住んでないんだから」
ヘビに睨まれたカエルの様に完全に固まって口も動かない。
私はまだ『お腹が空いたわ』の呪縛から逃れられずにいた。
『チャーシューメン残したじゃない!』
私は頭の中で訴えながら最善の言葉を模索する。
「あ、いえ、私は、公園で、愛ちゃんに……」
失敗に終わった。
彼女の独特な顔立ちに見とれていたからだとは言えない。
凄い美人だ、確かに東南アジア系の女性は美人が多いと聞いたことがあるが本当だったんだなぁと実感した。
「アイちゃんって言ったのかい?」
美人が聞き返してきた。
「いえ、愛鈴ちゃんにアパートまで……」
『知らない人には鈴木愛鈴と名乗らなくてはいけないのよ』と言っていた言葉を思い出しながら、私は私の身の潔白を証明する為に今迄のいきさつを正確丁寧に説明した。
説明が終わって何とか分かってもらえたようで助かった。
本当に良かったと胸を撫で下ろす。
「アイリーンが迷惑掛けたね」
「アイリーン?鈴木愛鈴ちゃんではないのですか?」
「その名前は外での名前さ、ベトナム農業実習生しか住んでいないこのアパートに鈴木愛鈴なんて名前の子供が住んでいたらおかしく思われるだろう、だからここではアイリーンと呼んでるんだ、あんたもそう呼ばないといけないよ」
「うちの名前はウオンあんたの名前は?」
「わた…僕は石井光一です」
「アイリーンが食べた分は払うから教えてくれないかい、いくらなんだい」
「お代はいいです、僕が無理に誘ったみたいなので。お姉さんですか?」
アイリーンが自分のこと『うち』と言っているのは多分この人の影響だと思う。
ここで出来るだけ好感度を上げておきたい。
「いいや嬉しいこと言ってくれるけどそんなに若くはないよ、うちはアイリーンの母親の仕事仲間さ、ここでは休みの人が交代でアイリーンの面倒を見ているのさ」
私は既に知ってることだけど全く疑問を持たないのも不審に思われてしまうので早目に質問することにした。
「そうですかすみませんでした」
「男の子がそんな簡単に謝ったりするもんじゃないよ、それとも何かい謝らなくてはいけない事でもしたのかい?」
「いえいえごめんなさいいつもの口癖で……あれ?」
「アハハハハ、そんなもんかい」
ウオンさんが笑ってくれたので少し安心した。
「日本人が『すみません』を枕詞にしているのは聞いたことがあるけどね、実際に目の前で使われるとイラっとするよ、気を付けることだね」
「わかりましたすみません、これからは気を付けるようにします……あれれ?」
「坊やがふざけてないのならそれはもう病気だね」
(やばい確かに今まで何も気にしたことはなかったけど、もうこれは『すみませんとごめんなさい』を使用禁止用語にしなくてはいけないかもしれない)
そのことは後からゆっくり考えるとして、今は愛ちゃんの母親と話が出来るように段取りが必要っと。
「アイリーンさんのお母さんは、まだ帰ってないみたいですね。少しお話ししたい事があるのですけどぉ……」
小さい声でさらりと言ってのける。
「あんたが何をアンと話そうってのかい?まあいいか、アンなら直ぐ帰って来るから上がって待つかい」
(助かった)
思わず吐息した。
追い返されるんじゃないかと凄く不安になっていたから。
「失礼します」
玄関で靴を脱いで揃えてから上がる。
狭い玄関でウオンさんの横を通り過ぎる時、東南アジア独特のいい香りがした。
後ろでウオンさんが玄関に鍵を掛ける。
(私のことを信用してくれたんだと思うし常に鍵掛けはいい心掛けだと思う。まあ愛ちゃんも居ることだし大丈夫だよね。それよりわっと……へぇこれが農業実習生のアパートねぇ、他のアパートと違って特別仕様になっているという話は聞いたことはないし)
年数が古い割には結構きれいだなと思ったのが第一印象だった。
間取は玄関を一歩入って右がトイレ、隣が台所、左が脱衣場、そしてバスユニット、正面の間仕切りドアを開ると四畳半の畳部屋、そこに置かれた四角いテーブルに愛ちゃんがきっちりと正座してチャーハンを美味しそうに食べている。
私が苦言を言い出す前に愛ちゃんが私に気付いてテーブルを左手で叩いたからそこに座っての意味なんだろうと諭す。
テーブルの向こう側にはガラスの引扉があって……少し開いたすき間から奥へと続く畳部屋とベランダが見えた。
見えてしまった! 洗濯物。
ベランダにはTシャツとかタオルが干してあるけどその手前の室内にカラフルなブ、ブラとかパンティとかが洗濯ハンガーに干されている。
私はそそくさとガラス扉を背にして何気ない顔を必死に作って愛ちゃんの隣に座った。
ちょうどそのタイミングで、ウオンさんが「どうぞ」と言いながらガラスコップに入った麦茶を目の前に置いたその時、不審者を見る目で私を見てガラス扉をピシャリと閉めて戻って行く。
「お兄ちゃん!お顔が赤いよ変態なの?」
愛ちゃんの無邪気な声が私の良心に突き刺さる。
愛ちゃんは、もしかしたら、変態と言う言葉を間違えて覚えているんじゃないかと思いながら、カラカラとガラスコップに入った氷の音を聞きながら頬を冷やす。
「愛ちゃん、ウオンさんにここではアイリーンって呼びなさいと言われたからそうするね、それとお腹が空いていたならチャーシューメン食べちゃえば良かったじゃない。何でかなぁ」
愛ちゃんにしか聞こえない位の小声で話す。
「今日はウオンさんがお昼ごはん作って待っているってのを、チャーシュー麺見てから思い出したのよ。それに……あの店のスープすごく濃いくて脂っぽかったわ」
愛ちゃんも小声で話す。
「そうだね『外食したからお昼ごはん食べられない』なんて言ったらどんな目に遭わされるのか恐ろしくて想像したくないね、ウオンさん怖そうだから」
「あっ、ウオンさんに言ってやろー!」
愛ちゃんがニィって笑うのを横目に捉えた。
「ウオン……」
「やめて愛ちゃん。ごめんなさい!すみません!許してください……あれれのれ」
(ダメだなこれは詫び言葉は使わないって決めたのに10分も持たなかったよ)
「光にいちゃんさっきアイリーンって呼んでくれるって言ったよね。何で愛ちゃんって言うのさ、うちはね本当のことを言うと鈴木愛鈴ってあまり好きじゃないんだ。なんだか嘘っぽくてさ」
そうか、アイリーンはどこまで知っているのだろう、自分の父親について自分が誕生した時には既にどこにいるのか分からなくなっていた鈴木さんの事を、出生届を受け付けてもらえなかった鈴木愛鈴と言う名前の事を。
「ああ、ごめんなさいアイリーン」
私はこれ以上言葉を続けられなくなっていた。
小声で会話しながらチャーハンの皿が空になった頃に玄関の扉が開く。
「ただいま」
アンさんの声が聞こえてくる。
さあ、最後の関門がやって来ましたよと自分を奮い立たせた。
「お帰り」
「お帰りなさい」
ウオンさんと愛ちゃんが返事する。
「お邪魔しています……ゴフッ」
麦茶が気管の方へ入って、少しむせた。
愛ちゃんが面白い顔をして私を見ているのを目にしてしまったから。
今は笑いを必死に堪えている。
こいつは私が失敗して恥をかくところを見たいんじゃないかと思ってしまう。
ばつが悪いタイミングでアンさんと目が合ってしまった。
「ウオン男の人を部屋に入れないでと何度言ったら分かるの、それにしても今日はまた小さい子供? を上げてるわね、もう連れて来ない約束をしているでしょう帰ってもらいなさい」
帰って来るなりご立腹のご様子である。
職場で何か面白くない事でもあったのだろうか。
「この子は愛ちゃんが連れて来たんだよ、チャーシューメンを食べさせてもらったんだって、お友達にでもなったんじゃないかい」
今度はアンさんから睨まれる。
「お礼言って帰ってもらおうとしたら、あんたに会って話がしたいって言ったので上がってもらったのさ。10分位前だったよ」
ウオンさんとアンさんの口調が怖い、私には優しくして欲しいと願った。
「アイリーン今日はお出掛けの約束してましたよね、どうして真っ直ぐ帰って来なかったのですか」
叱るではなく優しく言う。
「ううん、お兄ちゃんとまだ遊ぶの、だから来てもらったの」
アイリーンにとって約束とはあってないようなものなのかも知れない。
それとも、全てを知った上での行動なのかも知れない。
「あのぉ~。その前にお話しさせて貰えませんでしょうか」
私は二人の会話に割り込んだ。
少々あせっていたのかもしれない。
これから彼女たちが何をしようとしているのか知っているから。
「何かしら?」
アンさんがあんたまだ居るつもりなのね、みたいな顔をしている。
さっさと帰りなさいよと言われる前に話を切り出す。
「大事なお話しをしたいのですが」
「どうぞ」
「いや、二人だけになりたいです」
愛ちゃんをチラッと見ると食べ終わった食器を台所まで持っていっていた。
(偉いぞ愛ちゃん)
心の中で誉めてあげた。
愛ちゃんが僕の目配せに気付いて向かって来たので方向を変えさせる方法が何かないかなと焦り始めた時。
「アイリーン、冷蔵庫の中のアイス食べていいわよ、すぐ戻ってくるから待ってるのよ外に出て来たらダメだからね」
アンさんのナイスフォローが入った。
「わかったー!」
本当に『わかったー』のだろうかと不安になりながらアンさんを見る。
「こっちよ、付いて来て」
アンさんは部屋を出てアパート1階の角にある喫煙所に私を連れて行く。
紙巻きタバコを取り出して唇に挟んだけど火は着けなかった。