3話
それは、今より少し時間が遡る。
高級なスーツに身を包んだ会社帰りの女性が夜の街を静かに歩いていた。彼女の名は二十日 来夢。
大手企業の女社長であり、エリートだ。そんな彼女は日々、耐え難い心の乾きを感じている。今日は最も、その乾きを感じていた。
「気晴らしに、飲んで帰ろうかしら」
いわゆるエリート街道を進んできた来夢は、徹底して一番であるように育てられ、一切の娯楽を知らずに育った。
故に、大企業を動かす立場になって初めて乾きを感じてしまった。自分には"癒し"が存在しない。
この乾きは社長という肩書きがあれ、自分には何も無いと思わせてしまう魔力があった。気の合う友達がいれば少しは変われただろうか?
なにか趣味を持てば、潤いのある日々を過ごせたか? 答えは否だ。
何故なら、来夢は知っている。自分が何をすれば満たされるのかを。自分に宿る願望がいつも心の中で囁いている。
「相変わらず、私は危ない事を考えているわね」
自分自身呆れながら、ため息を吐きつつ。来夢は、少しでも気分を変える為にバーへ足を進ませる。
来夢はこんな風に、強く心の乾きを感じる時はお酒を飲むと決めていた。喉を焦がすような熱い酒、はたまた甘ったるくもピリリと舌を痺れさせる様な酒を飲みたくなる。
「また、魔法を掛けて貰いましょう」
少し洒落た言葉を口にした後、気の向くままに足を進ませ細い路地へと入っていく、確かこの辺に何年か前に通ったバーがあったのを来夢は覚えていた。
「まだやっているかしら。まさか閉まっていないわよね?」
そうでない事を望みつつ、その店付近に近付くと。見覚えのあるネオンが目に付いた。良かった、どうやらお店はまだやっていたみたいだ……。
ホッと一息付き安心しつつ、来夢は静かにバーへ入店し。時は現在へ戻る。
◇
「モヒートとドライフルーツ、お待たせ。ごゆっくり」
「ありがとう」
グラスに注がれたモヒートを、来夢は早速飲んだ。清々しいミントがふわりと香りと鼻腔を擽った、本当に美味しい。来夢はモヒートが大好きで、バーに来れば最初に飲むと決めている。
それはさておき、何やら来夢から離れた席に座る若い女性客が騒がしい事に気が付いた。くたびれたスーツ、明らかに泥酔しており、マスターに絡み迷惑を掛けているように見えるが……。
来夢は不思議と目についてしまった。
「ねぇねぇマスター。これ美味しいけどさぁ。お酒の味しないよ?」
「そりゃそうだ。それ、ノンアルコールカクテルだからな」
「えーっ!?」
ショックーなんだけどー、と若干煩く騒ぐOLが気になった。彼女の名は灰被 姫子。来夢はまだ彼女の名を知らない。今日初めてあった女性なのに……何故か惹かれてしまう。
(あの娘。可愛いわね)
微かに思いつつ、モヒートで喉を潤した。
……ん、やはり美味しい。ミントの香りが鼻腔をくすぐり、僅かに心を潤わせてくれる。
長く味わうようにゆっくり飲みつつ、来夢は姫子の話に耳を傾けた。
「アルコール入ってないんならぁ、酔わないよー。ただのジュースじゃん」
「だね」
「だね。じゃないよー。私は酔いたいの」
「もう酔ってない?」
「そうだけど、もっと酔いたいのぉー!!」
あーー!! と叫びまくる姫子、しまいには煩いと。マスターに口を塞がれ黙らされてしまう。
(確実に会社で何かあったのね。ご愁傷さま)
タンタンとカウンターを可愛く叩きつつも、決して酔わないカクテル、シンデレラを飲んでいく。
「今日はそこまでにしときな。明日も仕事なんだろ?」
「いま、仕事なんて言葉聞きたくない」
「あー、ごめん」
「ゔぅ、別に良いけどぉ。ひっく」
文句を言ってる割には、シンデレラを気に入ったのかペースを早めて飲んでいく。
そのまま暫し軽いやり取りをしていた時。ふと姫子はグラスを置いた。
「シンデレラ……かぁ。あー、なんかさぁ、憧れるなぁ」
「へぇ、その歳でも憧れるんだ」
「歳は関係ないじゃん」
「ま、そうだね」
切なげに天井を見上げ、グラスを手にしたまま姫子は切なげに語った。
「私もシンデレラみたく魔法に掛けられたい。そんでさ、ステキな人と出会いたいよー」
カランカランと氷を鳴らしつつ、チビリチビリと飲んでいき。飲み切ったあと……。
「ダメなのかなぁ、こんなに傷付いてるのにぃ。シンデレラみたく頑張ってる訳じゃないけどさ。私、ソコソコだけど頑張ってるよ? 魔法使いが現れて、魔法を掛けて貰っても良いんじゃないの?」
悲しげに長々と呟いた。まさかとは思うが、ノンアルで酔いが加速したのか、酔い特有の身体の揺れが増した気がする。
「そろそろタクシー、呼んでやろうか?」
「まだ良い。もっと飲みたい」
「これ以上飲んだら、吐くぞ。薄給なのに吐いたら勿体ないだろうに」
「う゛ー……ぁー……」
カクンッと俯き、タンっとグラスをカウンターに叩きつけ。再度突っ伏した。そのまま姫子は消え入りそうな声で呟き始める。
「もう上司に会いたくない。でも、美味しい物食べたいから働かなくちゃだし、オシャレもしたい……。でも会いたくないのぉ、あそこではだらぎだくなぃのぉぉ」
日々の愚痴が止まらない、本気で癒しが欲しい。シンデレラの様に魔法を掛けられたいと本気で思ってしまう程に。
姫子は毎日の様にストレスを受けている。上司の嫌味から始まり、仕事の押しつけ、陰口。
そして、今日の昼休憩に言われた。同性愛者に対する酷い偏見。
「家に帰ったら、甘やかしてくれる優しい金髪のお姉さんにヨシヨシされたぃ。ウァァァ。飼われだいよぉぉぉッッ」
嫌な事が重なり過ぎて、その全てをこの瞬間思い出し……遂に泣き出してしまった。マスターは若干、面倒だと思ったが。
辛さに同情し、常備してるタオルを姫子の頭に掛けてやる事にした。
「少し、失礼するわね」
その前に。ずっと奥で姫子の話を聞いていた来夢が、動きを見せた。たった一言優しく声をかけた後。有無を言わせず隣に座った……。
(この娘、いま確かに飼われたいって言ったわよね?)
その直後、来夢の顔つきが恍惚に微笑んでいた。理由は単純明快……来夢が抱く願望を叶えてくれる存在に出会えたから。
来夢は静かに笑う。手にしたモヒートが入ったグラスを傾け、ひっそりと思う。
(私の乾きは、今日癒されるのかもしれないわ)
直後にモヒートをクイッと飲みきり……来夢は、己の望みが叶う事を願いながら優しく姫子に近付いた。