COLORFUL
『ま』の音は柔い黄色、『い』の音は藍色、『ろ』の音はピュアな白色。
『ま・い・ろ』
『まいろ』
それがわたしの名前。
見上げた空の色は灰色。
ビルに張り付く電光掲示板はケバケバしい蛍光色。
人は、ほんのり赤い。
肺の空気を鼻から小さく長く流して、首から提げたヘッドフォンを被ればお気に入りの色が目の前で踊りだす。
肺の空気を鼻から短く吐き、ちょっぴり唇の端を上げて、色のない空の下を歩き出した。
目を閉ざして、体の内側に沈み込むように没頭すると、一番最初の記憶が浮かび上がる。大きな手と顔が並んで見下ろしてくる視界に黄色が踊っていた。
それは、わたしが初めてこの世界で奏でた音だったのだろう。生まれた瞬間から、わたしにとって『音』とは『色』だった。
大きな手に抱きかかえられて、次には汗で前髪を額に張り付かせた、とても疲れ切った笑顔がいっぱいになった。
しきりに、何かを言っている。
いくつかの色が口の動きに合わせて点滅する。
ごめんね、こんな欠陥品でさ。
わたしはお母さんの声さえ、ちゃんと聞いてあげられない親不幸者だ。
ヒトは共感することを反復し、他者との同感を確信にしていくことを絆と呼んで大事に想う。
だからきっと、わたしは一生、ヒトと手を繋ぐことはできないのだろう。
だって、わたしは、わたしを大事に想ってくれていると確信している両親とさえ、共感できない世界に生きているから。
べつにそれはいいんだけれど。
ローファーの歩みは橙色。
ヘッドフォンの音色が一曲の中で一番綺麗な色彩で世界を染める。つい先日に見つけたばかりのこの景色に、わたしはまだ感動できる。
まだこの色彩には飽きていない。
駅のプラットホームで電車を待っていると、肩を強めに叩かれた。
振り返れば、大柄なオバサンが眉根をつり上げて口を動かしている。怪訝に思って首を傾げると、わたしのヘッドフォンを指して、痛い黄色で景色を壊した。
ああ、そういうことか。
制服の内側の胸ポケットから障害者手帳を取り出して、オバサンの目の前で開いた。
オバサンは瞠目してから黄色を吐き出すのをやめて、手帳の内容を読み、そして眉根を戻してぽかんとした。
わたしは、腰を90度折って頭を下げる。
わたしは知っている。
他者への介入を目論む理由の本質は、承認欲求だって。
だから、わたしは肯定してあげることにしている。
その方が、わたしの『べつにいいけど』で終わらせることが出来るから。
ささやかなお返しに、オバサンが停車した電車に乗り込むまで頭を下げ続けたあと、わたしはオバサンとは違う車両に乗車した。
オバサンが今頃車両内で周囲からどんな顔を向けられているのかを考えて、ふっと息を吐いて嗤った。
ざっくりとした病気のくくりで言えば、わたしの抱えている欠陥は、『機能障害』。
そう、障害者。
聴覚機能の欠陥。
わたしは、書籍に記されている『聞く』が出来ない。
より正確に言えば、鼓膜には異常がなく『聞く』ことは出来ているらしいが、聴覚野で処理した情報を変換することが出来ず、辞書で引かれている意味の『音』を認識することが出来ない。
それだけじゃない。
視覚機能の欠陥。
わたしは、物体の色を認識できない。
色素網膜の情報を脳へ伝達する機能にも欠陥を抱えているわたしの視界は、物体が反射する色を認識できない。
でも、色は知っている。
こんな欠陥品の私に与えられた、申し訳程度みたいな能力があるから。
共感覚。
簡単に言えば、感覚の誤認。
五感で認識する情報を、本来受け取るべき感覚器とは別の感覚器でも受け取る知覚現象。
わたしは聞くことを知らない。だけれど、振動を色で認識することができる。
わたしにとって、声も歌も色の波のことを言う。けれど、この感覚はだれとも共感できない。
春の景色は美麗で、手を広げれば、ひらりと舞う桜の花びらがポトリと落ちる。
退屈な色ばかりだった入学式はすでに一週間も前に終わっている。クラスにあった緊張にも弛緩が見られた。
入学する前に、あれほどあった未知への期待は、わずかな期間で既知に変わった。結局、今までやってきたこととおんなじなんだって。
一つの部屋に集まって、教科書をめくる。
それを去年よりも高い視点でやる。
新しい教室には宇宙人はいないし、未来人も超能力者も潜んでいない。
それを実感したら途端に高校生活は掌からはみ出さないものだって分かってしまう。
異端と言えば、わたしのことだろうけれど、それももう、クラスメイトの彼らは扱い方を心得たみたいで何よりだ。
入学式当日に担当教諭から、クラスメイトにはわたしの説明は済んでいる。
ぺこりと頭を下げたわたしは、様々な視線にさらされたわけだけど、今ではそれもすっかり少なくなった。
面倒ごとを背負いたくないのはみんな同じ、それが自分のことさえ不安定な15歳だったらなおさら。
わたしの扱いは例年通り、概ね不干渉で決まったらしく、何よりだ。
時代の理器は偉大で、わたしみたいな物理的なコミュ障でさえ必要な情報共有には苦労しない。ちゃあんと、クラスのグループメッセに入れて貰えているし、個人的な用事もグループのリストからメッセが飛んでくる。
ちょうど良い距離感を確保できて、わたしの高校生活も人心地がつけそうだ。
このポジションを維持するために、後ろの席でわたしのおっぱいが大きいとか、こそこそ言っているのは見逃してやろう。もう15年も音を見て生きてきたのだから、細かい内容は無理でもざっくりとした内容なら色の波を見て理解できる。
どうせややこしいことになるから言うつもりはない。
彼らの中のわたしは耳が聞こえなくて、話すことも出来ない可愛そうな女の子でいい。多少話の内容が分かるだけで、不自由なのは間違いない。配慮なしで生きていける体では無いことをわたしは自覚しているし、その事実に反発する気骨だって持ち合わせていない。
なんか、儚げとか言っていたし、こんどプリントを回すときに微笑みかけてやろうか。
そんなイタズラを目論みながら、教室を離れた。
もちろん、寄り道なんてしないでまっすぐ帰るつもりだった。
帰ってヘッドフォンを被って、また良い感じの色を見せてくれる曲を求めてオンラインミュージックサービスのサンプルを漁る趣味に没頭するつもりだった。
そうなっていないのは、色の波が見えてしまったからだ。
こういう体質をしているわけだし、音楽の色彩はわたしにはどんな物にも代え難い娯楽なわけで、つまりは、わたしが音に対して敏感なのも自明の理だった。
だからまあ、綺麗な音が見えたら、体が疼いて、気になって仕方が無いのだ。
豆を啄んでザルに捕まってしまう雀を思い出して、自嘲しつつ、のこのこと音を探して放課後の校舎を彷徨った。
わたしはなにをやっているのだと、何度も反芻するくせに音の源泉を探して階段を上っていた。
ああ、ここだ。
淀まない音色。
濃淡がぐるぐると回ったかと思えば、白が光って、黄色まで駆け上がる。
オレンジに群青、ちょっと不思議な紫の尾ひれを引く色とりどり。
わたしの胸の赤色が濃くなっていくことが分かった。
ドアに背を預けてへたりと腰砕けて、もたれる。
この色の波はどうやって描かれているのだろう。
体が震える。
上履きの中の足指をきゅうと絞る。
ああ、だめ、近づきたい。
その世界に寄り添いたい。
喉がぐうっとせり上がった、
この色彩の一つになりたい。
衝動が、もう抑えきれなかった。
唇が勝手に開いていく。
そして、―――。
わたしの中から色が飛んだ。
柔い黄色だった。
まいろの『ま』の色。
わたしの色が旋律の色彩に混じったら、もっと体が震えた。
こんなの、止められるもんか。
次々と、わたしは色を吐き出す。
世界を染める色にわたしは合流し、触れていく。
やばいやばいやばい!
涙の粒さえ浮かべて興奮しきりだった。
わたしの胸の赤色が見たことないくらい濃厚な赤色を叫んでいた。
あっという間だった気がする。
疲労感が体に重くのしかかる。
視界は赤に染まって、そこに淺葱色が混じって、ヘンテコだ。
胸が痛い。
落ち着かなきゃだめだ。
言い聞かせても、体の内側はまったく収まりがきかない。
深呼吸をしようと、大きく息を吸ったタイミングだった。
背中を預けていた固さが無くなって、マヌケな黄色を吐き出しながら仰向けに倒れた。
そんなわたしを、つり上がった目の男子生徒が見下ろしていた。
やらかしたなって、思った。
音を作っていたのは彼だろう。
部外者のわたしは思いっきり彼の邪魔をしてしまったわけで……。
これは、やらかしている。
どうしたら許して貰えるだろうか。
笑ってみたら良いだろうか。
おっぱい揉ませたら許してくれないだろうか。
ダメだろうな。
だって、目の前の彼はすごくマジメそうだ。
後ろの席のクラスメイトは制服のボタンとか当たり前のように第二まで開いていたのに、目の前の彼は襟づめまできっちりだし。
考えあぐねていると、彼に二の腕を捕まれて引っ張って起こされた。
微妙にセクハラでは? と考えていると、彼は何やら必死な様子で色を吐き出した。
色がめまぐるしくて、見分けるのが難しい。
こういうときは、もちろんアレの出番である。
わたしは90度で頭を下げて、色が消えるのを待った。
それから、顔を上げて怪訝な顔をする彼を伺いながら障害者手帳を開いて見せた。
困った顔もしておこう。
眉根を寄せて、弱く握った片手も彼との間に挟んで。
演出はしているが、わたしは間違いなく弱者だ。別にウソを吐くわけではない。
まあ、それと今回のわたしのやらかしは無関係だけれど、彼が勝手にわたしに同情してそっちの件も情状酌量の余地有りと見てくれるなら、わたしからわざわざ何かを言うこともない。
さあ、もう良いよって言ってくれ。そしたら今度こそ帰るから。
顎に指を掛けて考える彼に願ってみたが、彼は、次には指を突きつけて、音を吐き出した。
『うそつきめ!』
短かったから分かった。
はっ?
いやいや、嘘つきって、文字読めんだろ、見ろよ、この手帳。
わたしはつい手帳を指差して、彼に再度突きつけた訳だが。それこそが愚行だと言うことにもすぐに気がついた。
彼がにやりと嗤う。
それはもう、ひっどい笑顔だ。
バカめというセリフが透けて見える、そう言う笑顔だった。
実際、わたしがバカだった。
彼の言葉に反応してしまった。
実は障害者手帳にはわたしが単調な言葉ならば理解が出来るという記述があるのだが、そこまで細かく見るヒトはそうそういない。
だから、いままでこっそり指で隠しながら見せる手で乗り切ってきたが、彼には通じなかったらしい。
まんまと彼はわたしの弱みを握ることに成功した。
まあ、その件に関しては問い詰められたら素直に認めるつもりではいたけれど。
自分から言うつもりは無いが、フェアじゃないっていう自覚はある。教室の件が良い例だ。クラスメイトの彼らにはわたしに配慮をしようという気持ちは確かにあった。それを台無しにしたのは、わたしが意図的に秘密を持っているからだ。
こういう日が来るのも必然だったのだろう。
わたしは手帳をしまい、頭を掻いて、スマホのメモ帳アプリで文字を入力した。
《 それで? 》
目的は何だ?
おっぱい揉ませるくらいならべつに良いけれど。それ以上ならお断りだ。こんなわたしのためにお金を稼いで生活を保障してくれている両親に申し訳が立たない。
つり目の彼はにいと口角をつり上げると、ピアノまでつかつかと歩いて鍵盤を押した。
理解できなくて首を傾げると、彼は色を吐いて『だしてみろ』と言った。
どうやら、おんなじ色を出せば満足らしい。
橙と黄色の真ん中の色。
次は、……藤色を薄めた色。
その次は、青藍、それから橙まで上って、黄色、もっと鮮やかな黄色。
これがなんだって言うのだろう。
色を吐くと、彼はその度に目を輝かせた。何度か、繰り返してやっと満足いったのか、彼はもう一度わたしの前まで来て肩をばんばん叩いた。
痛い。
それから彼は、わたしとまっすぐに目を合わせた。
『おれの――』
なんだ?
多分あんまり普段は見ない単語なんだと思う。色を見ても分からなかった。
彼はわたしを置いてけぼりにしたまま『あしたもこいよ』なんて残して出て行った。
これは許されたのだろうか。
釈然としなくて、なんとなくローファーで橙を踏んで、ピアノの前まで来ると、紫の色を出す鍵盤を押したのだ。
さてと、次の日の放課後。
わたしはの性懲りも無く彼が待ち受けているであろう教室を訪ねていた。
いやいや、我ながらの愚かしさは理解している。
でも仕方ないのだ、だって、彼のせいで、わたしはお気に入りだったオーディオに満足できなくなってしまったのだから。
まだ購入して一週間くらいしか経っていないというのに、もったいない。
色への関心を満たせないと不安になる。もう二度とこの世界を綺麗だと思えなくなるのではと考えると、踏んでいる地面さえ心許ないものに思えてくる。
昨日から弄りすぎたせいで、人差し指と親指の爪はボロボロになってしまった。
わたしをあんなに夢中にさせた彼が悪い。責任を取って貰わないと、せめて、飽きるか、次の綺麗な色を見つけるまで。
教室に近づくたびに、世界が色づいた。
現金なもので、わたしの胸の赤色は、昨日の興奮を取り戻して色を濃くしていた。
ああ、やばいな。
もう満たされていく。
わたしの全身が彼の作る色を好きだって叫んでいる。
昨日と同じく、ドアの前に立つ。
入って、いいよね。
今日はお呼ばれしたわけだし。
ドアにかけた手が震える。扉越しでもこれだ。もし直接聞いたら、わたしはちゃんと次の満足できる色を見つけられるのだろうか。
迷っていると、彼の作りだす色が消えた。
あっ。
落胆の気持ちが色になって溶ける。
磨りガラスの向こうに影が現れると、ドアが開き、つり目の彼が現れた。
とりあえず頭を下げようとしたら、それよりも前に彼に腕を捕まれて教室に引っ張り込まれた。
昨日も思ったけれど、彼って乱暴すぎない?
教室には彼以外にいない訳だけど、ちょっとくらい配慮とかあってもよくないかと思う。
彼はピアノの前に一脚だけ置いてある椅子へと、わたしを促した。
わたしのために置いてくれたのだろうか。ちゃんと配慮はあったらしく、なによりだ。
遠慮しても仕方ないし、ちょこんと座る。
彼はと言えば、それ以上は何をしろとは言わず、鍵盤の前に戻っていた。
そして、長い指先の腹を静かに鍵盤にくっ付けて。
――天色。
一瞬で染まる世界。
その上に次々と色が落ちて染みていく。
早速わたしの体は喜んで、鳥肌を立てていた。
ぞくぞくと背筋が粟だって体を掻き抱く。
落ち着かなきゃと言い聞かせる。昨日の二の舞はごめんだ。
そんなわたしに、彼が流し目をくれた。
挑発するみたいに、あるいは、催促するみたいに。
あ、いいんだ。
そう思ってしまったら、歯止めが利かなくなった。
色を重ねる。
目の前の色彩に、わたしを溶け込ませていく。
もっと綺麗に、もっと鮮やかに、もっと、もっと!
解放されてしまった欲望の趣くままに、憧れの色彩に手を伸ばし、わたしを色に変えて一つになる。
時さえ止まってしまいそうなほどな色彩の織幡。
わたしはそこに飛び込んで、溺れてバカみたいにはしゃいでしまって、最後の一音が無色に吸い込まれるまで我を忘れた。
ああ、またやってしまった。
汗だくになって、我を取り戻し、早速バツが悪くなって、彼を見る。
彼も似たようなモノだった。
暑いならボタンくらい外せば良いのに、そんなことも忘れてバカになったみたいに天井を仰いでいた。
わたしだってヒトのこと言えない。
ニヤけるのを止めらんない。
もう色彩は消えてしまったのに、わたしの頭の中ではまだ駆け回っている。
落ち着け、静まれ。
今日の分は終わりだ、だから――
彼がけだるい目でわたしを見る。
わたしも、見返した。
――だから、うん、また明日!
あれから、わたしは彼の元へ通っている。
いくつかの話もした。
彼はどうやら、わたしが手で隠していた特記部分を目敏く見咎めた訳ではなく、本当にわたしの障害者手帳が偽物だと思っていたらしい。わたしに聞く力が無いことを認めると頭を下げてきた。
乱暴なくせにマジメなのだ、きっと生きづらいだろうなと思った。
わたしみたいな性悪が世の中にはごろごろいる。どうにかして、自分の苦労を他者にやってしまおうという腹づもりのヤツがいっぱいいるのだ。
だから、せめてわたしは、彼にはそういうことをするのは止めたいと思った。
毎日授業が終わると、彼と音を合わせた。
休みの日は、録音した音でニヤけながら色に囲まれて過ごした。
彼がくれる音の色彩はいつでも新鮮で、いつまで経っても飽きなかった。
彼さえいれば、きっとわたしはもう孤独になる不安におびえなくて済む。そんな確信がわたしを充実させてくれていた。
わたしは、いつのまにか彼に依存していた。
それは、わたしが一番ヒトに、ましてや彼にやってはいけないことだ。
だって、わたしがいったい、彼に何を返してあげられる?
親しくなればなるほど、わたしと一緒にいる人間は負担が増える。気を揉ませてしまう。
わたしは、欠陥しているのだから。
その記事を見たときに、わたしはどうしようも無く、自身の卑小さを思い出していた。
校内の掲示板に張り出されたコンクール入賞の記事。
大コマ写真の主役は、彼だ。
おおきなコンクールで結果を残したらしく、取り上げられたのだった。
わたしは、知らなかった。
彼がどんなヒトなのか、わたしは、この記事を見るまで知らなかった。
クラスメイトはグループメッセで教えてくれなかった。
クラスのことじゃないし、それに、知ってて当たり前のことだったのだろう。
きっと彼は学校のいろんなところで噂されていたのだ。わたしが、聞くことが出来なかったから知らなかっただけで。
わたしだけが、彼と毎日会っていたクセに、わたしだけが分からなかった。
いや、そんなの言い訳だ。
彼は、あんなにも綺麗な色彩を生み出せるのだ。ただ者であるはずが無かったのだ。わたしが浮かれて彼の音ばかりを見ていたから、彼本人に対して無知なままだった。
わたしだけが、バカだったのだ。
ヘッドフォンをした。
お気に入りだったリストをガンガンに流した。
痛いくらいの色がわたしの世界を囲った。
その日から、わたしは彼を訪ねることを止めた。
桜の花はもうとっくの昔に散ってしまった。
茂る枝葉を伸ばす木は、もう別の木と言われたって分からない。
わたしは一人で歩いている。
大丈夫、世界にはちゃんと色がある。
オンラインミュージックサービスを巡回して、購入したお気に入りの曲のリスト。それらが、わたしの世界に色を与えてくれる。
ちゃんと世界は綺麗だよ。
飽きたら代わりを探せば良い、見ていない曲の数は無限だ。音楽は日々、増えて行くのだから。
世界中にいるアーティストは、わたし一人を賄うことなんて簡単にやってくれる。
だいじょうぶ。
校門を出ようとしたときだった。
腕を捕まれた。
『そっちじゃないだろう』
色が揺れた。
振り向けば、いままで見てきた中で、一番不機嫌そうな彼がいた。
あ、怖い。
だって、すっごい怒ってる。
彼は、いっぱい色を吐き出した。
いや、困る、分かんない。
かろうじて、見分けられたのは、『せきにんをとれ』だった。
なんてことを言うのだろう。
だから、困るんだ。わたしなんかには、そんな力はないんだ。
ああ、どうしたらいいんだろう。
そっか、うん、こういうときは、アレの出番だ。
ヘッドフォンを首に掛けて、わたしは、制服の胸ポケットから、手帳を取り出した。
いつもみたく開いて、そして、そこにくっきりと印字された『障害』の2文字を彼に見せた。
ごめんなさい。
最敬礼の90度。
ごめんなさいを、ちゃんと伝えるための90度。
こんなわたしだから、許してくださいの降伏のポーズ。
ああ、なんて情けない。
涙が出てきた。
わたしは、情けない。
早く行ってくれ。
周囲のざわつきが滲んだ視界にまだらで見える。
ほら、行きなって、じゃないと悪者になるよ。せっかく学校のヒーローなのに、わたしみたいなのをイジめる悪い子になっちゃうよ。賢くなって良いんだよ。
……行ってくれないと、顔を上げらんない。あなたに、見せられる顔なんてしていない。
お願いだから、これ以上、あなたの色をわたしに見せないで。
彼はなかなか立ち去ってくれなくて、わたしも彼が行ってしまうまで頭を上げるつもりは無かった。
羞恥心と日照りで、ずっと顔が暑い。
額に浮かんだ汗が鼻筋を這って、鼻っ柱から滴る。
彼が先に動いた。
我慢比べはわたしの勝ちらしい。
やっぱりわたしは自分勝手な人間で、ほっとしたと同時に、胸がちくりと痛んだ。
ぎゅうと瞼を絞ると、眦から溢れた滴が、汗と混じった。
ん、あれ?
なんか、足が宙ぶらりんだ。
えっ、おなか痛い。
ちょっと、え?
錯乱した思考が、へにゃへにゃの色になって口から吐き出る。
なんか、彼の肩に担がれていた。
確かにくの字になっていたわたしは担ぎやすかったかもしれない。彼とわたしでは性差も手伝って、体格も違うし。
いや、その前になんで担ぐ?
お尻、突き出てるんですけど?
抗議する間もなく、彼はわたしを担いだまま走り出した。
揺れる度に彼の肩がおなかにめり込むから、わたしは無い腹筋に力を込めなくちゃいけない、そのせいで、変な息が出る。
周囲はどよめきの色を染めるばかりで、止めてくれやしない。
担がれているわたしには、みんなの注目がよく見えるわけで、わたしは羞恥心100パーセントで熱くなった顔を必死になって隠した。
彼がわたしを拉致する場所なんて、最初から知れている。
その場所までは距離があるし、階段だって上らなくちゃならない。
彼も人一人を担いで走れるような鍛え方をしていないだろうに、こんなことで大事な体を痛めたりしたらどうする。
精一杯手を伸ばして、彼の肩を叩くが、彼は意固地なって、わたしを下ろしてくれようとはしなかった。
『これないなら、つれてってやる』
たえだえに、彼の声が点滅した。
やっぱり、彼は乱暴だ、めちゃくちゃだ。
わたしの胸の赤は、もう限界なくらい真っ赤なのに。
とうとう彼は、わたしをピアノのある教室まで運んでしまった。
窓が開いていて、薄いカーテンがはためいている。
気づいていた。
通わなくなってからも、ずっと、彼の音色がこの教室から溢れて、わたしを誘っていた。
彼に抱きかかえられて、わたしはピアノ椅子の端に置かれた。彼の顔が近くなったから、わたしは、ぐっと息を殺さなくっちゃあならなかった。
彼は今日の内に、いったい、どれだけわたしを恥ずかしい目に遭わせたら、気が済むのだろう。
彼は、わたしとは反対側の端に座って、大きく息を吸って吐いた。
本来、一人用の一脚。
彼とわたしの距離はふとすれば触れてしまうほど近い。わたし自身と彼の汗の匂いが混じっている。
彼が、わたしに一瞥をくれた。
あ、始めるんだ。
彼が鍵盤に指を置く。
わたしは、それだけで、全部を忘れて胸を弾ませた。
小さな色とりどりを含んだ風が、カーテンを膨らませる。
彼の指が、鍵盤に沈む。
わたしは、それに見入る。
そして、世界が一色に塗られた。
ときに、ぽつぽつと、ときに、じんわり。
彼の意思で、わたしの世界が染め上げられていく。
だけれど。
なにかが、足らない。
広げられた色彩の布は、いずれもどこかぼやけていて、曖昧だった。
彼がわたしにくれた音の景色は、こうでは無かったはずだ。
いつだって、わたしは感動して、興奮していた。これ以上なんてあり得ないってくらい、魅入っていた。
彼とわたしがいたこの教室は、いつだって色鮮やかだった。
彼と、わたし。
そっか。
分かった。
この曖昧は、足りない部分の色は、わたしだ。
彼の紡ぐ色彩には、必ずわたしの居場所があった。
ッ――。
こみ上げる。
彼の音色が、わたしを求めている。
わたしだけを必要とする世界が目の前にある。
だったら、そんなの……、我慢できるわけがない。
わたしは、わたしの色を吐き出した。
世界は、確かに変わった。
鮮明に、鮮やかに、音色が芽吹く。
隣で、彼が口角をつり上げた。
わたしの目からは涙が溢れたけれど、この色彩を一秒でも長く目に焼き付けたくて閉じるのを我慢した。
そっか、うん、分かった。
始めは違った。
彼は一人で世界を染めて、色彩を完成させていた。
でも、わたしと音色を交わらせ続けて、そして、いつの間にか、わたしと彼は、二人で一つの色彩を描くようになっていた。
だから、あの日々は充実していたんだ。
毎日、音を合わせる度に、彼とわたしの色彩は鮮やかに成り続けていたのだから。
責任、か。
確かにその通りだ。
わたしは彼を変えてしまったんだ。
こんなわたしが、最高の色彩を奏でていた彼を変えてしまえていたんだ。
すっと、淀んでいたモノが、体の内側から消えて、透き通っていく。
わたしは、音色に沈む。
彼の色彩の中を駆け回り、音を撫でて踊る。
最初は、わたしが勝手に飛び込んだはずなのに、いまは、何処へ行っても、必ず彼が寄り添ってくれていた。
わたしの世界は、永遠に孤独だと思っていた。
違う視界に生きるヒトたちとわたしが共感することは、あり得ないことだと思っていた。
でも、この色彩の波の中に、彼はいる。
わたしと同じ世界に、彼はいてくれる。
じゃあ、一緒にいたって、いいじゃないか。
色彩は余韻の中に消えていく。
名残惜しくはあったけれど、さみしくは無かった。
わたしは、ぐちゃぐちゃの顔を隠す気にもならなくて、笑っていた。
いつの間にか、彼と座る一脚の上で、手を繋いでいた。
そこに、彼とわたしの赤色が重なっている。
彼が、ゆっくりと、静かに言う。
『 My Dearst 』
何だったか、たしか、何人かの有名なアーティストのアルバムのタイトルに使われていた気がする。
意味は、……『最愛』。
振り向くと、彼は、唇を尖らせて、つんと、天井を向いていた。
そうか、彼にとっては、最初の一回からそういうことだったらしい。
おかしくって、わたしが吹き出すと、彼が非難がましく睨んできた。
だから、怖いって。
そんなに怖い目をしなくったって良いでは無いか。
乱暴だし、無茶苦茶するし、もうちょっとこちらのことを慮ってほしい。
そんなことだから、……わたしをこの場所に戻してくれたわけだけれど。
彼の視線を見つめて返す。
……うん、今なら言えそうだ。
彼が見せてくれたたくさんの色に比べたら、どうってこと無い。たったの五色なんだから。
重ねていた手の感触を確かめるように、指を絡めて繋ぎ直す。
彼のことを、わたしは――
『あいしてる』
ちゃんと言えたかどうかは、聞くまでもないだろう。
だって、彼が彼らしくもない、変な色を吐き出したのだから。
わたしは笑い、彼も結局、笑った。
わたしたちの重ねた手は、真っ赤に染まっている。
わたしたちの世界は、色づいている。
おしまい
ゴットフィンガーじゃない。