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第1説「よりどころ」





これはきっと、夢なのだろう。



子どもの頃の自分の姿がそこにあって、ペタンと腰が抜けたように尻もちをついていた。

そこはキャンプ場だろうか。小川と木々に囲まれた、せせらぎが心地よい空間。子どもの自分の周囲には、BBQキットや小さなテントなどが置かれてあった。

和気あいあいとした喧騒がここにはあったに違いない。そう思うに足るだけの楽しむための準備が周囲になされてあった。

だけれど、そこには。

自分以外の誰も、いやしなかった。

いや、違う。

誰もいない…………しかし。

自分の目の前には、『何か』があった。

影。

それは影と形容するしかない、どす黒い『何か』。

それが地面から空に伸びるようにして突き出ていた。

泡のようにぼこぼこと湧き出ては川のように流れてを繰り返し循環している『何か』。

その『何か』と子どもの自分だけが、その空間にはいた。

得体の知れない『何か』。

理解の範疇を超えた『何か』。

どす黒く気味の悪い『何か』。

だけど。

子どもの自分を見据える『何か』は。

まるで泣いているかのように。

悲鳴のように言葉を俺に向けて。

声にする。



『ねぇ』



『────て』



『冬樹───────────』




────き。


…………ゆき。


………………きろ……………ふゆ……………。



「起きろ!柊冬樹!いい加減に起きんか!」



「は、はい!?」

稲妻のように激しい怒鳴り声が耳に届く。

突然の声に驚いて思わず飛び起きると、ガタンと椅子が跳ねる音がして。

辺りを見渡してみると、そこは授業中の教室の中だった。

頬にじんわりとした痛みと、口元に垂れる涎の感覚。

寝ぼけた頭を揺さぶって無理矢理脳を働けるようにする。するとクラスメイトたちのくすくすと忍び笑う声が耳に届く。それに気付くと、意識の覚醒と同時に羞恥心が身体中を駆け巡った。

は、は、は……っ。

はっずかしぃ……っ!

授業中に爆睡してしまった!!!しかも大袈裟に立ち上がって無駄に目立ってしまって……っ!これ!思いっきり恥ずかしいやつだ!!!

かっ、と熱くなる身体を小さく縮こませて、申し訳ないとへこへこと周りに謝り倒しながら愛想笑いでやり過ごす。

すると、俺の態度に呆れ果てたのか、国語教諭の熊谷先生は小さくため息をつくと、その大きな身体で大袈裟にやれやれと身振りした。

「まったく、気を抜きよって。仕方ない、代わりに誰に読んでもらおうか……」

そこで熊谷先生は誰を指名しようかと辺りを見渡した。おそらく、本来は俺が教科書を読み上げなくてはならなかったのだろう。見れば、黒板に書き出されていた今日の日付は俺の出席番号だった。

それに気付けていればこんなみっともない姿を晒さなくて済んだのに……と、自分の注意力のなさを恨みつつ、逃げるように席に着いた。

どうせあいつが呼ばれるのだろう、と。『代わり』に呼ばれる時に、先生から必ず指名される優等生の顔を思い浮かべながら。

そして、俺が席に着くと同時に入れ替わるようにして、そいつは席を立った。

「おい、橘!さっきの続きを読み上げてくれ」

「はい」

熊谷先生からの指名に対して、凛とした声の返事が真後ろの席から聞こえた。

気の抜け切ってしまった間抜けな空気の漂う教室に、ぴしりと整った声が差し込まれる。

突然の指名に狼狽えることもなく、堂々とした振る舞いで立ち上がるそいつ。

ガラリと、椅子の礼儀良く引かれた音が、静かな教室に響く。

その音に引かれて、俺はつい、視線を後ろに向けてしまう。

────そこには、完璧を体現した男がいた。

清潔に短く整えられた栗毛の直毛。凛々しい眉に、固く結ばれた逞しい唇。

橘杏子朗たちばな きょうしろう

頭脳明晰で運動神経抜群。

寡黙ではあるが人当たりがよく、誰に対しても真摯に応える男。

そのため教師陣からの評価はもちろんのこと、クラスメイト、先輩たち。渡りに渡り、学園中で話題になるほどの人気を、こいつは入学まもない頃から得ていた。

どうせあいつだろう、という嫉妬ではなく。

きっとあいつが、という期待を掛けられる。

そんな、誰もが認める人気者。

それが、橘杏子朗という男だ。

そして。

そんなヒーローのような男は、俺の血の通わない兄弟────

つまりは、同い年の義兄であった。

……嫌になるよなぁ。

俺は立て掛けた教科書に隠れるようにして、机に突っ伏した。

傍から見れば不貞腐れているようにしか見えないだろうな、と思いつつ。

後ろで芥川龍之介の羅生門をつらつらと読み上げる杏子朗の声に耳を傾けながら、自己嫌悪に耽る。




──☆──



キーン、コーン。カーン、コーン…………

「おや、チャイムだな。じゃあ柴井。号令を」

「はい。……起立、気をつけ、礼」

ありがとうございました、と声もまばらに、気だるげな号令と共に授業が終わる。

そうして教師が教室を出ると、静まり返っていた教室に、徐々に喧騒が広がっていく。

しかし、活気づいた教室とは対照的に、俺は未だに先ほどの失態に凹んだままだった。

ため息が止まらない。

「は~あ…………」

脇からちらりとうしろを覗き見る。

杏子朗は……既にそこにはおらず、そして教室からも姿を消していた。

忙しいやつだ。大方、教師に頼まれ事をされて、その手伝いに行っている、といった具合だろう。

いつものパターンだ。

反面、俺は何もすることも無く惚けているだけ…………みっともなさだけが目立つ。

そんな俺を、あいつは決して気にはしないだろう。あいつと俺との縁など、義兄弟であることを除けば、砂粒ひとつ程度の酷薄さだ。

血縁も、姓名も違う。

同じ親の子として引き取られただけの関係。

……きっと、あいつは。落ちこぼれの俺など、鬱陶しく思っているのだろう。

それは、あいつの目を見ていたら、伝わってくる。

あの、漆のように綺麗で真っ黒な目を見ていれば。

「……はぁ」

もう何度目になるかも分からないため息をまた1つ吐く。

と、そこでそういえばと思い出す。

(……にしても、さっき見た夢は一体なんだったんだ?)

奇妙な夢だった。

自分1人だけの空間。キャンプをしていたという状況だけが残る、他に誰もいない空間。

頬を撫でる涼やかな風も、鼻腔をくすぐる肉の焼ける匂いも、川のせせらぎや重なる枝の擦れ合う音も。

やけに現実的で、どこか懐かしい。

目を閉じればあの夢での感覚がすぐに蘇ってくるようだった。

しかし、奇妙と言えば…………あの時。

(誰かが、俺の事を読んでいた、ような……?)

誰も、何もなかったはずなのに、どこからか声が聞こえていた……気がする。

あれは一体何だったんだろうか。

あの声、どこかで、聞いた気も…………

……まぁ、考え込んだところで所詮は夢なのだ。何が起ころうとおかしくないし、何があろうと知ったことではない。考えるだけ損でしかない。きっと、熊谷先生が俺を呼んでいた声が夢にまで届いてきたってのが現実だ。それは何とも夢のない話だが。

だけど。

……なぜだろうか。

何かを失った、みたいな。

漠然とした恐怖が、今も背中に残っている。

それがとても気味が悪くて、俺は無意識に腕をさすっていた。

「……なんだかなぁ」

「なーにが『なんだかなぁ』だよ。凹んでるとか、らしくねぇぞ。冬樹」

「よっ、極悪人!授業中の居眠り罪で逮捕だー!」

どん、と背中に軽い衝撃。

そちらに目を向けると、2人の男女が座る俺を見下ろしていた。

「楓……それに杣崎」

芦目楓あしめかえで杣崎祥枝そまさきさかえ

楓は中学からの付き合いの仲の良い友人で、よく遊びに行っている。たまに相談をしてもらってなんかしてたりして……飾りっけのない気持ちのいい性格をしている2人だ。俺にはもったいないくらい、とても良い奴。

そんな、とても良い奴だからこそ放って置く奴なんていない訳で……

杣崎は、そんな楓の彼女だった。

楓が選ぶくらいだ、彼女も良い奴……なのは接していて分かるのだが。

やけに距離が近くて少しやりように困る。変にどぎまぎしてしまうというか、気持ちのやり場に悩むというか。ようするに、少しだけ、気まずい。知り合って一月は経つというのに、未だ彼女に慣れていないのだ(友達の彼女という意味でも)。

だから杣崎。俺のほっぺを指でグリグリするんじゃない。どう反応を返せばいいか分からないだろ。

「でも珍しいな。今まで頑なに授業中はしっかりしてたのにぐっすり寝るなんてよ。何かあったのか?」

俺の前の席に腰掛けつつ心配そうな表情を見せて、俺の顔を覗き込む楓。

「ん……いや、別に疲れとかはないんだよ……はは、気が抜けてたのかな」

「あは、明日から春休みだからって気が抜けてたんじゃない?ぜっこーちょーって証じゃん!」

めちゃくちゃにポジティブなことを口にして笑い飛ばしてくれる杣崎。やっぱり良い奴なんだよな。

にしても。

「はは、気が逸って終業式のこと忘れてないか?」

「それな。その存在忘れてたわ。って、あ、そーだ。そんなものよりも、ふーゆきっ、来週の水曜日さ、友達連れてショッピング行こうと思ってんだけど一緒に来るー?」

「……え?」

突然のお誘いに心がザワつく。

おいおい勘弁してくれ。友達ってことはそれってお相手は女子ってことだろ?女子のグループの中に男が一人で買い物なんて、難易度が高すぎるぞ……!気まずさの極みだろうがそんなの!

「か、楓は?」

助けを求めて楓に話を振る。しかし。

「ん?いや、その日は親が居なくてさ……チビ共の面倒見なくちゃならないんだ。すまんな」

返ってきたのは無情にも救いの手はないという通達の声だった。

ちなみに、チビ共というのは楓の弟と妹たちのことで5人いる。6人兄弟姉妹の長男が楓なのだ。共働きをする親の代わりにならなくちゃいけないってのは、結構大変そうだよな……

「そうそうそれそれ!聞いてよ冬樹~、こんな可愛い彼女を放っておくとか酷くない?冷たくない!?氷が服着て歩いてるような男だわ!」

「昨日から謝ってるだろ。それにどうせ荷物持ちが欲しいだけだろ、お前」

「はー?違うしー、友達誘うのにそんな酷い理由で呼びませんー、誰かさんと違って冷たくないもーん」

恨みたらたらな杣崎の言葉にさすがの楓もムッとした様子だったが、俺はそんな2人のやりとりを見て、面白くてつい笑ってしまった。

あぁ、本当に良い奴らだ、お前たちは。

落ち込んでいた心が、少し和らいだ。

きょとんとする2人。そして俺は杣崎に顔を向けて、きちんと返事をする。

「ごめん杣崎。誘ってくれたの、すっごく嬉しい。だけど、明日はやることあるからさ、また今度、誘って欲しい」

別に、本当はやることなんてない。けど、考える時間は欲しかった。

そんな勝手な理由で人の厚意を断るのは少しだけ忍びない……けれど。

「ほんと?次は良いって言ったからね?また誘うからね?決定!」

「そん時は俺も一緒に行くよ。今度、予定合わせようぜ」

杣崎が笑ってくれて、楓がそれに乗ってくれたから。

俺も笑って返すことができた。

ありがとう、って。



――☆――



放課後。

青かった空が段々と赤らめていき、街並みが夕暮れの中に沈んでいく時間。

校舎もその夕暮れに沈んでは、影に染まりつつあった。

「……よし!」

俺は帰る支度を整えておもむろに席を立つ。

別れ際、談笑する楓と杣崎に「また明日」とあいさつを交わして教室を出る。

2人の「またね」と「またな」を背に受けて廊下を歩く。次第に二人の明るい声は段々と遠くなり、小さくなっていく。

きっと、2人はどんな時でもあんな調子なんだろうな。

そう思うと、確かに恋人と言う関係を羨ましくないと言えば嘘になるけれど。それよりも、2人の関係を見ていると微笑ましさが勝ってしまい、思わず顔がほころんでしまう。

通常運転がどこまでも頼もしい。

俺は微笑む表情のまま走っていく。

大した理由はないけれど、急げ急げと廊下を足早に過ぎていき、階段を軽やかに跳ねるように降りていく。

そうして1階に辿り着いて、昇降口の方へと身体を向けたところで。

その先に、ゆっくりと扉が開いていくのが見えた。

俺の行先を阻むかのように開く扉。

「おっとと……」

出てくる人にぶつからないようにと走る勢いを抑え、ゆっくりと歩いていく。

ここはどこだったかなと表札を見てみると、そこは理事長室と書かれていた。あぁ、なるほど。どおりで仰々しく重苦しい扉だ。

だとしたら来賓の方だろうか。タイミング悪いなぁと思いながら、気まずさを抱えて扉から人が出てくるのを待つ。もしも来賓の方なら、礼の一つでもしなければ。それに万が一、ぶつかって怪我でもさせてしまったら大問題だ。

そう思い神妙な面持ちで立ち尽くし。

すると。


「────失礼しました」


………………………え?

聞き覚えのある声がした。

聞き覚え……そう。

そうだ、毎日。

後ろの席からよく耳にするような。

完璧を体現したかのような、あの声。

どくん、と。

緊張とは違う、怯えたように大きく脈打つ鼓動。

不意に湧いた声に心臓は破裂したと錯覚するくらい大きく跳ねて。そして、扉から出てきたそいつを目にした時、心臓は反転して潰れたと錯覚するくらい縮こまった。

もう何もかもが嫌になるくらい、苦しく。

そいつは、折り目正しく腰を畳んで、最敬礼をした後に丁寧に扉を閉めて退室すると、こちらの存在に気付いてから、小さく息を吐いた。

「……冬樹か」

「杏子朗……」

そう、橘杏子朗。

俺の後ろの席の優等生。

同い年の義兄弟。

理事長室から出てきたのは、俺の義兄だった。

「……どうした。構えたりなんかして」

そう指摘されて気付く。いつの間にか俺は杏子朗に対してファイティングポーズを取っていた。

目を向けられて、そして名前を呼ばれただけでこうも分かりやすく警戒心を剥き出しにするとか、どれだけ肝が小さい男なんだ、お前は。

「え、あ。いや、これは、違うって。これは自然体だよ。そう。これが俺の自然体。はは」

「……そうか」

「ははは……と、いうか!お前こそどうしたんだよ。そんなとこから出てきて。まさかだけど、呼び出されて説教された、とか?なんて、お前に限ってそんなことはないよな。ははは」

何とも素気のない杏子朗の態度にも負けず、俺は何とか歩み寄ろうと会話の糸口を見つけようと躍起になった。

自然、何をしていたのか?という無難な質問になってしまったけれど、これは実際に気になることでもあった。

大した理由もなければ理事長室になんて呼ばれない。

もしも、杏子朗に大した理由が生じたのであれば、義兄弟として知っておいてもなんら問題はないだろう。

義兄弟として。

……友達として。

相談に乗れるかもしれない。

そう思っての質問だった。それ以上でも以下でもなく、ただそれだけの意図での質問。

けれど。

「お前には関係ない」

帰ってきた答えは、どこまでも無情なものだった。

俺だけ、時間が止まったようだった。

戸惑いを隠せない。

今まで考えていたことも、感じていたこともどこかに忘れ去ってしまったかのように、俺の心臓は凍り付いた。

何とか、固く結ばれた唇を何とか動かして、喉の奥から言葉を絞り出す。

だからだろうか。

その言葉は、今まで抑え込んでいたものが溢れ出て。

涙まじりの、何とも言えない訴えとなった。

「は、はは……。…………………なぁ。なんだよ。なんで、そんなに。なぁ?俺たち、血は繋がってないけど、兄弟じゃないのかよ。兄弟って、そんなたった少しでも、話しちゃいけないのかよ。そんな冷え切った関係をずっと続けるなんて、俺には」

「────お前には、関係ない」

情けない、震えた声の俺の言葉を遮って。

杏子朗は、断絶した。

先程と同じ言葉を、再び、言い聞かせるように。

もうそれ以上話す必要は無いと、有無を言わせぬ毅然とした物言いで。

「…………それに」

そこで、杏子朗は身を翻す。

俺に背を向けて、歩き出す。

拒絶するように。

俺から距離を取った。

きゅ、と。上履きが踏みしめる音がして。

そして、杏子朗は言葉を吐き捨てた。



「俺を義兄と呼ぶな」



────それっきり、杏子朗は何も言わずに立ち去った。

呆然と立ち尽くすままの俺を置いていって。

「………………はは」

なんだよ。

なんなんだ。

俺は。

ただ…………

「………………………………はは、は……………────っ!」



ちくしょう。



そんな言葉ひとつでも。

俺には吐き捨てることは出来なかった。

目の前に杏子朗がいなかったとしても。

あいつに向かって、文句のひとつすら。

あぁ、なんて。

どこまでも、情けなく、惨めなんだ。

────ばかやろう。



──☆──



重い足取りで帰路に着く。

空はとっくに黄昏て、照明灯がそこかしこで主張するように地面を照らしていた。

その光すら億劫になって、逃げるように避けて歩道を歩く。

横を通り過ぎる車ですら、今は苛立ちの要因でしかなくて、エンジン音が耳に入るだけで舌打ちをしたくなる心境だった。

両手にぶら下げた買い物袋。

あの杏子朗との邂逅の後、俺は気だるげな身体を引きずって帰路を行き。途中、立ち寄ったコンビニでストレス解消にと菓子やジュースを散財してみたものの……

大した量の買い物という訳でもないのに、手にぶら下げた買い物袋は嫌になるくらい重たく感じた。

ただ苛立ちは募る一方で、感情に任せて買い物袋の中身をそこらにぶちまけてしまいたくなる衝動も、そんなもったいないことはしたくはないので、なんとか踏みとどまってはいるけれど……

「……はぁ」

今日何度目かも分からない溜息をまたひとつ吐く。

……杏子朗。

あいつはきっと、今日も家に帰って来ないのだろうな。

それを思うと、俺のこの小さな反抗はただの徒労でしかなかった。

我が家は義父から与えられた家だ。

俺と杏子朗のための家。

けれど、それもここ数年は俺しか使ってない。

もしかしたら俺が寝ている間に帰ってきているのかもしれないけれど、俺が起きている間にあいつと家の中で出会ったことは、まったくない。

空虚で寂しい家。

誰も俺の帰りを待つ者がいない、一人ぼっちの家────

その思考が脳裏を過ると、ただでさえ重い足取りが更に重さを増していった。沼にはまり込んだ足を持ち上げているかのような疲労感。ただただ疲れが蓄積していくばかりだ。

でも、それももうすぐ終わると思えば、少しの辛抱。

線路をガタンゴトンと走る電車のその下。

人がぎりぎりすれ違えるかといった幅しかない高架下を過ぎれば。

あと数分の距離で家に着く。

たった5メートルほどの高架下。

あれが見えたら、もうすぐ家に帰りつくというサインだ。

さぁ、もうひと踏ん張りだと、その下を通り抜けようと。

1歩。

コンクリートに降りた影に足を踏み入れたところで。



────ぐにゃり。



全身をこねくりまわされるような。

身体が歪む感覚が一瞬、この身を襲った。

「……………?」

おかしな感覚だった。

身体が重たくなったとも違う、なんというか、そう。ジェル状の液体がプールいっぱいに敷き詰められていて、それにゆっくりと浸かったらこうなるのかな、というような。

全身を舐られたような。

肌に直接吸いついてくるような。

温くて、重苦しい。

そんな、気味の悪い感覚……

ぞわりとした感覚に思わず立ち止まって、反射的に買い物袋を手放して身体を擦る。嫌悪感を拭うようにして、身体に異変がないか確認する。けれど特にこれといって変化は見られなかった。尋常じゃないほどの冷や汗が流れているとそこで気付いたくらいで。

何だったんだ、今のは……と、買い物袋を拾い上げる。

そうして、再び帰路に着こうと、視線を身体から前に戻して。

気付く。



黒と紫。

黒、紫。

黒紫黒紫黒紫黒紫黒紫黒紫黒紫黒紫。

紫黒紫黒紫黒紫黒紫黒紫黒紫黒紫黒。

黒紫黒紫黒紫黒紫黒紫黒紫黒紫黒紫。

紫黒紫黒紫黒紫黒紫黒紫黒紫黒紫黒。

黒紫黒紫黒紫黒紫黒紫黒紫黒紫黒紫。

紫黒紫黒紫黒紫黒紫黒紫黒紫黒紫黒。

黒紫黒紫黒紫黒紫黒紫黒紫黒紫黒紫、────と。

チェス盤みたく黒と紫が交互に敷き詰められたパネルの広がる空間の中に、俺はいた。



「……………………………………………………はぁ?」



頭が追いつかない。

突然の異常事態に思考が吹っ飛んだ。

思わず間抜けな声を垂れ流すくらいには、混乱していた。

確かに俺は高架下に足を踏み入れたはずで、だから、こんなアミューズメントパークの広場みたいなへんてこな場所に踏み入れたはずがないんだ。

本当なら、もう俺の家が少し先に見えているはずで…………そもそも高架下はこんな開放的な広さじゃない。

ぐるりと丸く広がるフロア。

半径はおおよそ50メートルくらいの円形で。

その端から壁がぐんと上に伸びて取り囲んでいた。あるであろう天井は果てしなく遠く、目視すら叶わず、闇だけが天井に残っていた。

その壁を沿うようにして階段が螺旋を描いて天井に向かっていて、例えるなら、まるで灯台の内部のような様相をしていた。

灯台と違う点を上げるなら。

ここには出口が見当たらない、というところか。

仄かな闇と静寂だけが敷き詰められた空間。

風の音もない、完全な密室であった。

「な、んだよ。ここ……どこなんだ、一体」

隙間ひとつ見当たらない場所。だから、光が差し込む余地もないはずなのに、はっきりとここがどういった場所かなぜか見て取れた。

暗闇に目が慣れたとか、タイルや壁が発光しているとか、そういう次元ではなく。

『なぜか』認識できる。

景色や地形が、はっきりと。

俺は突然湧き出たこの空間を、戸惑うままに足を進ませる。

カツカツとローファーが刻む音。硬質な床だ。石畳やコンクリートとも違う、なにか別次元の無機質な素材。

壁も……さらりとした、上質な紙のような手触りで、だけれど神のようには破けそうにもない硬さ。

触れて軽く押し込んだ指先から、壁のぎっしりと詰まった感じというか、重さというか存在感というか。俺なんかでは太刀打ちできない『どうしようもなさ』が伝わってきた。きっと、壁を叩いたところでこちらの拳が傷付くのだろうと容易く想像できるくらいには。

……本当にどうすればいいんだ。

混乱も、今のこの状況を飲み込めるようになるまでには落ち着いた。

突然、ワープでもしたかなんだかは知らないけれど、俺はどうやらこの空間に閉じ込められたらしい、と。

すると、この異常な状況を把握していけばいくほど、腹の底から不安が、恐怖がずくずくと湧いてくる。

もしかして。

俺は、このへんてこな場所から。

一生、出られないのではないか…………と。

「冗談じゃない……!」

俺は溢れ出る恐怖を、虚勢を張って押し込める。

それに、諦めるには早い。まだ調べてないところはあるじゃないか。

期待を抱いて向けた視線の先。

そこには、わざとらしく付けられた壁に沿う階段があった。

あれを登った先に、もしかしたら出口があるかもしれない。

問題は、果てしなく上に伸びる天井がどこまで続いているのか、という点なのだが。

淡い希望ではあるが、しかし、手放す訳にはいかない。

救けがいつ来るかも分からないんだ、それなら……

立ち止まっているよりも、何か行動していた方がマシだろ……!

俺は意を決して、階段に1歩、足を掛ける────

と。


「………………に……………………」


「え?」

耳に届いた、奇っ怪な音。

いや、音……ではなくて。

これは、声……?

「…………ぷ…………………………に…………………」

再び響く奇っ怪な音。

間違いない!これは、声だ!

果てしなく遠い天井の方から、誰かの声が!

何も無い空間に湧いて出た何かしらの手掛かりに心が沸き立つ。

一人取り残された不安と恐怖が、その声の主に救いを求めていた。

居ても立ってもいられず、フロアの中心に躍り出る。

天井を埋める闇の中。

そこに、『なにか』がいる。

それが分かるくらいにはその『なにか』は降りてきていた。

降りてくる、というよりは落ちてきている勢いで、声も段々と大きくなっていって。

「ぷに~~~~~~~~~~っ!!!!!」

その声がはっきりと耳に届く頃には、それは人の声ではなく、人ではない『なにか』の鳴き声だということが分かった。

そして、その鳴き声には悲鳴じみた恐怖と緊張の混じった色が滲み出ていて。

その鳴き声の後から。

大きな羽ばたきの音が続いていることに、気付く────

「……………っ!?」

どくん、と。心臓が激しく跳ねる。

とてつもないプレッシャー。

とてつもない、『死』の気配。

上から降り注ぐ、押しつぶされそうなほど強大な気配に全身が総毛立つ。

『俺はここで死ぬのかもしれない』。

そういった思考が、緊張が、全身を駆けていく。

「ぷに、ぷに、ぷに~~~っ!!!」

しかし、そうして闇の中から飛び出してきたのは思い描いていた姿とは大きく外れた、小さく小さな『なにか』だった。

丸っこい身体に小さな足を4つ生やして、小さなツノがぴょこんと2つ立っては大きく丸い単眼を涙に濡らし、体長と同じくらいの長さの細い3つのしっぽは風に煽られて慌ただしく揺れていた。

一見、ワインレッドの色をした子豚みたいな『なにか』。

空から降ってきたものは、それだった。

「は……!?」

その『なにか』は一直線に俺に向かって降ってきて。

気付いた時にはもう避けることも出来ないところまで迫って来ていたので、思わず反射的に受け止めてしまった。

軽い。

受け止めた際の衝撃はさほどなく、少し足がもたついたくらいだ。

5キロとなさそうな体重。バスケットボールくらいの大きさ。

そんな外見を持つ、見たことのない奇っ怪で珍妙な生き物だった。

そう、『生き物』。

衝撃というなら、それが何よりも衝撃的で。

その『なにか』は俺の今までの常識から外れた、何者にも当てはまらない『生き物』だった。

紛れもない『生き物』。

生きている。

ロボットや着ぐるみでもなく。

触れる肌からは脈打つ鼓動が確かに伝わり、暖かい。

漫画やアニメでしか見られないような妙ちくりんな身体をした異次元の存在。

そんな謎の『生き物』は俺の腕の中から逃れようとばたばたともがいていた。

あるいは、何かから逃げるように。抱き止められているというのに、俺のことなんてまったく気にしてない様子で。

「あ、こら!」

しかし、俺はその『生き物』が逃げようとするのを押さえ込んだ。潰れるくらい抱きしめて、出てくる頭を腕で抑えつける。

せっかくの手掛かりなんだ、逃がしてたまるか!

最初に目にした時はあまりのへんてこ具合にギョッとして固まってしまったが、変化のないこの異様な空間に、まさしく降って湧いた手掛かり。こいつがどこかから湧いて出たというのなら、そのどこかからとは出入口なのかもしれない。ならばこの『生き物』にはそこまで案内をしてもら────


ばさり。


ぞわりと、またもや全身が総毛立つ。反射的に音のする方────天井を見上げた。

そうだ、バカか俺は。何を呑気にその後を考えている。

思っていたよりも可愛げのある『生き物』が降ってきたものだからと緊張を解きやがって。

忘れたのか。

この『生き物』の鳴き声に続いていた。

この、死神の足音にも似た、羽ばたく音を。



────ばさり。


────────ばさり。


────────────ばさり。



上空から徐々に降りてくる羽音。

暗闇の中で大きな身体を躍動させながら。

そいつは、俺の目の前に現れた。



【きろきろきろきろきろきろきろきろきろきろきろきろきろきろきろきろ】

【きろきろきろきろきろきろきろきろきろきろきろきろきろきろきろきろ】



そいつは、喉を大きく震わせ、劈くような甲高い不協和音を喚き散らかし。

この空間いっぱいに広げられた翼は、無音の敷き詰められていたこの空間を、荒ぶる風で満たしていく。

鷲のように鋭い爪。

鴉のように滑らかな翼。

梟のように丸く寸胴な身体。

どれも通常ならば気にも止めない鳥類の特徴。

けれど、そいつを異常たらしめるのが。

その全てが曲線と直線で作られた無機質な、鈍く輝く鋼鉄の身体であるという所。

そして。

頭部の部分には。

まぁるいまぁるい球体が1つ。

その球体がぱっくりと割れて嘴のように尖って。

笑みを刻むように開けられた、その嘴の中。

そこから覗かせる、十字の刻まれた瞳孔の巨大な眼球が、俺を睨めつけて、見下していた。

そいつは。

にやりとまぁるい顔を歪ませて。

けたたましく喉を震わせた。



【きろきろきろきろきろきろきろきろきろきろきろきろきろきろきろきろ】

【きろきろきろきろきろきろきろきろきろきろきろきろきろきろきろきろ】



「ぅぐっ!!!」

再びの不協和音。

全身に叩きつけられる高音に耐えきれず、咄嗟に耳を塞いで蹲る。

とてつもない音の重圧に身体を動かすことが出来ない。耳を覆う手を離してしまえば、たちまち鼓膜が破れようかという音量。

そうして蹲ると当然、抱えていた『生き物』を手放すことになり、『生き物』は音を気にもせずそそくさと離れていった。

しかし俺はそれを目で追うことも出来ず、早く音が止まってくれと神に祈ることしか出来なかった。

なんなんだよ。

なんなんだ、こいつは!

異様。

異形。

異常。

紛れもなくこの世のものではない『生き物』だ。

こんなの、決して存在してはいけない『生き物』だろう、こいつは!

無理の極みの存在に俺はただ身を竦ませることしか出来ず、内側から溢れ出る赤ん坊のように泣き喚きたくなる狂気を無理やり押さえ込んで、上空の『生き物』を睨み上げる。

すると、そいつは。

今、まさに、動きを見せようとしていた。

ぐあり、と。

翼を大きく羽ばたいて、弓を引くように振り上げて────。

鞭を打つようにしならせ。

放つ。

────直後。

翼から、鋭く尖った『槍』の雨が降り注いだ。


ずががががが!!!!!


『槍』がタイルを穿ち、突き立つ音が連続する。

それはまさしく豪雨の如く激しさで。

フロアは一瞬にして戦場のような凄惨な有様と変わり果てた。

「な、な………っ」

ごうっ、と唸りを上げて巻き起こる風を引き裂いて撃ち放たれた『槍』。

それはもはや『羽根』と呼べるような代物ではなくて、

それが、俺の横を掠めて、地面を穿ち、突き立っている。

それを認識した途端に脂汗が全身から吹き出した。

やばい。

やばいやばいやばいやばいやばいやばい。

やばい!

こんなのが当たりでもしたらひとたまりも……っ!

ごくりと生唾を飲み込んで、改めてその『槍』を調べる。

どこにこんなものを隠し持っていたんだ。という疑問も、調べてみて直ぐに解消される。

この『槍』は、あの『生き物』の羽根だった。

俺の知る羽根の形状と似てはいる。細く伸びた葉っぱのようにも見えるけれど、間違いなく羽根だ。強いて言えばのレベルだけれど。

しかし、そうか。考えてみれば当然だ。

鋼鉄の肉体。

ならば、羽根の1つを取ってみてもそれは鉄の塊なのだ。たかが羽根の1つでも、それは立派な『槍』となる。

『槍』は『槍』でも、歴史の教科書で見た、城壁を突き破る為に用いるような『槍』ではあるが。

ならば翼は『剣』で、嘴は『ギロチン』か。

────全身凶器の異形の鳥。

それがあの『生き物』ということか。

この鋭さをもってすればどのような物でもズタズタに出来てしまうだろう。

明確な殺意が込められた攻撃。

それを容易く撃ち出せてしまう凶悪さ。

まさしく、太刀打ちの出来ない脅威だ。

────けれど。

その殺意は俺に直撃しなかった。

この攻撃が俺を狙って放たれたものだとしたら、今頃、俺はこの世にいなくなっていたことだろう。

しかし、この攻撃は俺のことなどまるで眼中に無いといった風で、俺が範囲内にいたからこうして、辛うじて生きているというだけ、ということなのだろう。結果、危機に瀕していたというだけで。

ならば、この攻撃は何を狙って────

…………いや、待てよ。

そうだ。

そうだった。

あいつの他にいるじゃないか。いたじゃないか、ここに現れた『生き物』は!

羽根の槍がいくつも立つその中に。

ヘンテコで小さなあの『生き物』は。

ボロボロになって蹲っていた。

「お、おまえ……っ!?」

立ち込める砂煙の晴れて見えたその姿は、直撃こそないものの、きっと瓦礫の破片が当たったのだろう、全身を打撲による裂傷でいっぱいにしていた。

息も絶え絶えだ。たった1度の攻撃ですでにグロッキー。立ち上がる気力さえ残っていない様子だった。

胸が詰まる凄惨な状況に、けれど、俺は恐怖だけではなく確信も抱いていた。

やはり、あの『生き物』が狙っているのは、こっちの小さい方だ!

あの『生き物』からしてみれば、俺は狩場に迷い込んだだけの蝿みたいなもの。そう考えれば眼中に無いのも頷ける話ではある。

………待て。それなら。本当に眼中にないのなら。

もしかして、息を潜めてやり過ごしていれば、助かる………?

と、目の前に飛び込んで来た可能性に飛び付きたくなる衝動を、グッと押し込める。

バカ……!それはここから確実に出れるという保証があったらの話だろうが……!

もしそうだとして、あいつがいなくなった後はどうする。この異質な、出口の見当たらない空間からどうやって逃げるのか確実な保証がないんだぞ?それに出口があるという可能性も、真っ暗闇の広がる天井の方にあるのだとしたら。

あの『生き物』が佇む天井に。

結局、あの『生き物』と対峙する羽目になる。

あの小さいのがいなくなった後、あの『生き物』が俺を目視したら。

存在を認識したら。

あいつはきっと俺を逃がしたりはしないだろう。

目の前を過ぎ去る俺を見逃すなどは。

見つかったその時こそが、俺の人生の終わりになる。

だとしたら、どうすればいい?

助ければ確実に死ぬ。

助けなくても、見殺しにしたところで出口が見つからないのだったら時間の問題だ。追いつかれて死ぬ。

────死ぬ。

死ぬ。

死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ。

死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!

どう足掻こうとも死がどこまでもついて回る。

そんな予感ばかりが浮かんでは、俺の足を掴んで離さない。鎖が巻き付くかのように、がっしりと。

足が竦み。思考が凍り。呼吸も忘れて。

壊れたおもちゃのように震え上がり、立ち尽くす。

どうすればいい、どうすれば……!

────すると。


悲観に打ちのめされていた脳裏から。


脳髄の奥の暗闇の向こう側から。


どこか懐かしい、女性の声がした。



『――――逃げちゃおうよ』


『大丈夫……君は、危険な目には遭わないよ』


『君は、君のことだけを考えればいいのだから』


『だから』


『そのまま、上へ、上へ』


『逃げちゃおうよ』


『だぁれも、怒ったりはしないから』



猫なで声の甘い声。

頭に響き渡るその声に、俺はなぜか安堵を抱いていた。

大丈夫だって言って貰えたから。

危険な目には遭わないと断言してもらったから。

けれど、それだけじゃなくて。

この、聞いたことの無い女性の声に。

なぜか、完全な信頼を抱いていたからだ。

まるで母親に撫でられたかのような心地に包まれて、そこで身体の震えが止まっていることを自覚する。

すっと、全身の緊張が和らいでいき、深く息を吸って呼吸を整える。

滞っていた思考も、冷静になって非常に晴れやかな気分であった。

そうして、考える。

今尚、痺れるように脳髄に残る声を。

先程の女性の声を反芻する。


────逃げちゃおうよ。

────誰も、怒らないから。


きっと、言う通りにすれば、俺は危険なく安全に元いた場所に帰れるのだろう。

あぁ、そうだ。迷わず逃げればいい。

階段を登っていけば、それで帰れる。

自分のことを第一にして、生きることだけを考えれば。

……けれど。

なぜだろうか。

そうじゃない。

それは違う、って。

心臓が激しく脈を打つ。

痛いくらいに、どくん、どくんと。

熱く、熱く。

ズキズキと心が疼き、強く、訴えかけてくる。

否定しなきゃいけないんだと、強く。

否定するべきだって、俺の鼓動は譲らない。

……そうだよな。

俺は、自分の鼓動に向けて頷き返す。

死にたくない。

それは、紛れもない本音。

けれど、元より迷う必要はなかったんだ。

決心をした瞬間、俺はすでに足を踏み出していた。

ぐっ、と力強く。

1歩を踏み出して、あの小さいのに向かって、駆け出していた。

「うぉおおおおおおおおおおっ!!!!」

叫ぶ。

溢れ出て止まらない恐怖心を掻き消すくらい大きな声で。

突き刺さる槍の柱を潜り抜け、そして小さいのの元に辿り着く。

ボロボロになって弱ったその小さな身体を抱えあげると、小さいのは不思議そうな表情でこちらを見上げていた。

俺はその顔を見返して、精一杯の強がりで、めいっぱいの笑顔を見せた。

「大丈夫か?一緒に逃げよう!」

そうだ。逃げるなら『一緒に』だ。

『一緒に』逃げるんだ!

こいつを見捨てて、見殺しにして。俺だけ生き残るなんてことはできない。

この小さいのが虐められるのを見過ごすことなんて、できない。

俺は杏子朗みたく何でも出来るような奴じゃない。

けれど。

けどさ。

これくらいなら、俺にだってできるはずだ。

お前を見捨てないってことくらいは……!

「大丈夫……きっと助かるさ」

俺は半ば自分に言い聞かせるように、小さいのに向かって声を掛ける。

だって、この上には出口はあるんだって、保証してくれたんだ。

聞いたことの無い誰かの声だったけれど、そこには確信があった。

大丈夫って言える要素はそれだけだ。

それしか保証はない。

脆弱なまでの強がりでしかないけれど、大丈夫。

きっと、助かるさ……!

俺は自分の決意を信じてる。

その決意を表すように、小さいのを強く抱きしめた。

今度は、小さいのは拒みはしなかった。

「……よし…っ」

早く行動に移さねば。嬉しくなって感極まってる場合じゃない。

とはいえ、このまま飛び出してもあの『生き物』に狙い撃ちされるのがオチだ。

何か気を引けるものがあれば……

と、周囲に何かないかと見渡す。

そこである物が目に入った。

「……………何もしないよりかは、マシか」

作戦とも言えない数撃てば当たる戦法でしかないけれど。

生き延びるためにはこれしか手はない。

腹を括れ、ここが勝負処だ……!



──☆──



あの鳥のような鋼の『生き物』は、上空からこちらを見下ろしていた。

機械的に、監視カメラのように。

そうして、小さいの動きを見落とさないように、ジッと見据えている。

その場から動かず、滞空して。

動きがあれば、即座に動けるように。『槍』を撃ち込めるように。

どんな細かな動きも見落とさないように、僅かな影の揺らぎも見過ごさないように。

標的の────小さいのの動きを。

────そう。

『小さいの』の動きを、だ。

あいつが狙っているのは、この小さい『なにか』だけなんだ。

それは、俺が動きを見せたというのに俺を攻撃してこなかった所から予測できる。

俺はあの『生き物』の狩場に迷い込んだだけの哀れな虫けらでしかなく、あの『生き物』にとっては後回しでもいい、獲物以下の存在だ。まさしく、吹けば飛ぶような塵に等しい『どうでもいいモノ』。

だから俺が何しようと目で追わないし、目に入ったところで気にしない。

あくまで狙いは『小さいの』だけ。

その目標を逃すまいとするなら、誤差のような微かな動きすらも目で追う。

機械的であるが故に、反射的に、本能のままに。

現に、俺が小さいのを救けに動いたのにあいつはアクションを起こさなかった。

今も、ジッと小さいの動き『だけ』を見続けている。

確実に殺す為に、俺と言う障害物がなくなるまで……か?

俺から小さいのが離れるまで待っているのかは分からないけど。

『小さいの』の動きを絶対に逃さないとするのなら。

それが如何なるものでも。

『小さいの』と同じくらいの大きさであるのなら。

俺から離れたものなら、あいつは目を向けざるを得ないんじゃないか……?

俺は、出来るだけ小さいのがあいつの視界に入らないように覆い被さりながら移動して。

しゃがみ込んだ。

そして、地面に散乱していた買い物袋の中身。

掴みあげた『コーラ』を振り向きざまに思いっきりぶん投げた!!!

「どらぁああああああっ!!!!」

弧を描き頭上に放たれるコーラのペットボトル。

俺の居る方向から明後日の方に飛んで行った、出来るだけ小さいのに似たカラーのラベルをしたそれは。

瞬間、『生き物』が放った『槍』に穿たれて見るも無残に弾け飛んだ。

それを目視するよりも早く。

俺は小さいのを抱え込んで、思いっ切り階段を駆け上がっていく!

「うぉぉおおおぁああああああああああっ!!!!」

叫んだってどうにもならないけど、叫ばずにはいられなかった。

高層ビルかというくらい果てしない階段を駆け上がるにあたって、とてつもない気力がいるから。

軋む身体に鞭を入れ、つんのめり、もつれてしまいそうな足を無理矢理に前へと進める。

駆け上がれ、駆け上がれ!

止まるな、止まるんじゃないぞ!

俺は、俺たちは……っ!


────楓。

────杣崎。

────……杏子朗。

────脳裏によぎる、あいつらの姿。

あいつらのためにも、俺は……!!!


「生きるんだぁあああああっ!!!」


────ばさり。


真下から。

たった一はばたきで、『生き物』は俺たちに追いついた。

息を飲む。

この距離は、もう、逃れることは、できない────

そいつの嘴から覗かせる、十字眼がぎょろりとこちらを見据えていた。

反射的に俺は小さいのを被さるように抱きしめていた。

『生き物』は俺を攻撃しない。

その確信があったから。

けれど、気付く。

先程までこちらに目もくれずにいた十字眼が。

俺のことをジッと見据えていることに。

標的と、見定めていることに。

────なぜ、と。

不思議とそうは思わなかった。疑問はなかった。

そもそもが俺を狙わないでいることがおかしかったのだ。標的を横取りされて起こらない方がおかしい。

あの時、脳裏を過ぎった女性の声を疑っていた訳では無い。ただ、きっと、あの時までは確かに俺は助かるはずだったのだ。

小さいのを助けなければ。

だから、これは俺が招いた種で。

免れようのない結末だ。

お前は悪くない。

悪くないんだ。

俺の自己満足に巻き込んだだけだ。

だから。

「ありがとう」

せめて最期は笑顔で。

自己満足に終わりたい。

胸を張って、生きたことを。

終われる事を。

誇りたい。

俺は、抱きかかえていた小さいのを背中に回し込んだ。

直後。

俺の身体は、放たれた『槍』に貫かれ。

ズタズタに引き裂かれ。

そして。

終わった────

………はは。これで、終わりか。

小さいの。俺に寄り添ったところで、何にもないぞ。早く逃げな。

一度だけでも、お前を護れたんだ。

それだけで、満足だよ。

あぁ、でも。

そうだ。

心残りがあるとするなら。

1つだけ。

1つだけ、あったなぁ。



「そ、まさき……やくそ、く………」



────────。


────────────。


────────────────………………………………。




「────『影遊えいゆう』」



声が、した。

同時に、ガラスの割れたような華奢な音が鳴り響く。

な、んだ…………?

意識が途切れる寸前、ぼんやりとした視界の端で、誰かがあの『生き物』と戦う姿を捉える。

その誰かの足元から黒い刃を伸びていく。

空中を走り、弾丸のように『生き物』に向かって伸びる黒い刃。

それはあの『生き物』の翼を捉え────貫いた。

奇声を上げて地面に墜落する『生き物』。

すると、その隙を逃さずに落下する『生き物』の腹の上にその誰かは飛び乗ると、手に持った刃渡り1メートルを優に超える長さの刀を大きく振りかぶり。

どずん、と。

全体重を乗せ、突き立てた。

鋼鉄の身体も意に介さずに、まるで、風船に張りを突き立てるかのように容易く。

それは、『生き物』の決定的な何かを貫いたのか、『生き物』はピタリと動きを止めて力尽き墜落する。

すると『生き物』は、途端にサラサラと砂のように崩れていった。

風に流され、空気に溶けるように消えていく『生き物』。

その跡にカツンと何かが地面に落ちる。

紅い、綺麗な宝石だ。

墜落寸前に無事に着地を果たしていた誰かは、しかし、それに目もくれず、すぐさまこちらに向かって階段を駆け上がって来た。

脇目も降らず、全速力で。

ぼやけていても、その人の表情はとても必死で、お前の方が死んでしまいそうだというくらいに辛そうで。

なぜだろうか。

それを見て俺は、安心して意識を手放すことが出来た。

「君、大丈夫か!しっかりし、────っ!」

その声は、どこかで聞いたような声で。

そいつらしくもなく、冷静さを欠いた形相で、声を絞り出していた。

「…………お、まえは」

聞き慣れた声。

誰よりも嫌いで、けれど、嫌いにはなれなかった声……

どこだろう。

どこで、聞いた、んだっけ。



「────冬樹…………っ!」

…………あぁ、そうか。この、声は…………



……………………………杏……子…朗…………………………………――――――――――。






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