生活と訓練
シュウ少年の朝は極めて遅い。
朝というよりも、夕が過ぎて夜の帳がおり始めたころになって目を覚ます。
本人の感覚としてはそれでも早起きなのだが、人間の基準からすれば昼夜逆転の極みである。
(吸血鬼――アミルはそう説明してくれた)
この日でアミル宅に彼がやってきて丁度3週間が経過する。少年は既に、彼の身体に関する特異性の解説を受けていたが、寝起きのタイミングと鋭い牙、少々頑丈らしい骨身くらいしか本人に自覚はなかった。
感覚は鋭敏で、夜の内に外に出てみれば、まるで真昼のように暗闇を見通すことが可能である。
一里先の鼠が歩いた音を拾い聞き、頬に触れる絹のような黒髪を一本一本認識できる。
当然、その感覚はシュウのものだ。身体がまるごと造り変わっている以上、身体能力に感覚が付いていけないということは起こり得ない。その逆もまた然りである。
「シュウ。勉強は捗っているか」
「ああ。もちろんだ」
誤解を生まぬよう、注釈を入れておこう。
このとき二人は決して互いの言語を十全に理解できてはいない。
例えば、この会話の中でシュウが聞き取れたのは自分の名と「勉強」という単語のみである。その続きについては表情と仕草で類推したものだ。
人間のコミュニケーションに占める視覚情報の割合は意外なほどに高い。事によれば音声言語による意志伝達よりも高い伝達性能をもつとすら言われる。
それに加えて、少年が真面目に言語を学ぼうとしていることがある。
そのおかげで二人は時々の擦れ違いを笑って流しながら、共同生活を営んでいるのである。
ちなみに、アミルが吸血鬼に関して解説した際のジェスチャーは非常にコミカルなものであったのだが、今は割愛しよう。
シュウは目の前に広げた羊皮紙を眺めて頷いた。
「しっかし、文字はどうにかなるにしてもさっぱり読めないね!」
「聞くのと読むのとは違うからな」
「だろうさ」
何しろ単語の構成が分からないのである。
もう、冒頭から少年については分からない事だらけなのであるが、輪をかけて言語の習得は難しいようだった。文字を覚えるのと、単語を覚えることは違い、更に文法や熟語を使いこなすとなると難易度は桁が違ってくる。
言葉の端々だけでも聞き取れ、単語単位ならば話せるようになっているだけ少年はがんばっていると言えるだろう。アミルが協力的であることもその大きな要因である。
そう、この男がすごかった。
朝早くから起きて少年が眠りに就くのと入れ替わりに、狩りに出かける。そこから町に出向くなりわなを確認するなり(アミル宅は森林の入り口にあった)、とにかく動き回る。
そうして夕方になった頃、疲れを全く面に出すことなく自身の夕食とシュウの朝食を用意するのである。
更に今やっているように識字訓練を手伝い、穏やかに微笑んでいるのである。
子供好き。いや、時代が時代ならば少女趣味の危ない人間と認定されていたかも知れぬ。
何しろシュウ――これは仮名であるが――は見目麗しき少女なのだ。格好だけだが。
しばし彼らはこの地の代表的な詩を綴った紙片と向き合い、よく学んだ。
この学習時間、別に少年だけの話ではない。
少年の言葉・表情から意志を読み取るというアミルの訓練でもある。もっとも、彼はその方向については熟達の域に達しているようで、あまり必要性を感じるようには見えないが。
「――ではシュウ。私は眠るが、がんばるように」
「ああ、任せろ」
アミルは一応普通の人間なので、日を跨ぐ頃には眠ってしまう。
ではその間にシュウが何をしているのかというと、ひたすら荒々しく原木を彫っている。
手本は家主が所持していた木彫りの像である。これは彼が居候生活を始めて二日目にはアミルが提案していた訓練であった。
少年は元々病人である。
望んだことではないが、野外での技術を身に付けられなかった。簡単な肉の調理や加工もできず、特に刃物の扱いなどは酷いものだった。この世界のこの時代における評価基準を大きく下回る不器用さである。明らかに平民の出という風貌ではないが、日々を暮らす上で兎を〆る程度のことはこなせなくては困るのであった。
なので強い力を利用して、内職を薦められたのである。力の上手い使い方と手先の器用さ、そして完成度が上がれば、アミルが売りに出ることも出来る。
短刀で表面を粗く削り、細かいところは人差し指や小指の爪で引っ掻いて整える。整えてしまえるのである。この訓練を始めてすぐに、シュウは自身の爪をある程度自在に伸ばすことが出来ると発見していた。
(蛇は彫っていて楽しいな)
入院中の暇潰しには一家言ある少年である。
黙々作業をこなすのは得意な様であった。樫材によく似た性質を持つ木材が、見る見る内に削られ、成形されていく。
(外は面白そうだけど、これもいい)
彼の心境には臆病も混ざっていた。
アミルが先導してくれていたから、このレンガ造りの家に来る時は問題がなかった。流石に用便の際に怖いということはない。外で水浴びをするくらいならば平気である。
だが外の森を歩き回る勇気を、少年は未だ持てずにいた。
好奇心に任せて行動する。
自分の身を省みずに一歩踏み出す。
屋敷の探索では少年もそれが出来ていた。今それを躊躇うのは、彼がアミルの庇護下に居るからである。
つまり少年の行動は、その責任は彼一人で負えるものではなくなったのだ。
それに、この家の居心地が良いこともある。
家に誰かがいるという安心感である。自分を保護してくれる誰かが居る。個室暮らしをしていた少年にはそれが新鮮で、嬉しいことであった。
それらの複雑な心境が、少年に外界への一歩を躊躇させているのである。
(無理に出る必要はない。無防備に出て、アミルに迷惑をかけてはいけないだろう)
しかし、彼の瞳は不意に窓から差し込む光を辿って、空に佇む三日月を捉えた。
少年は嘆息し、彫像の鱗を念入りに掘り進めたところで、何か閃いたのか「おお」と呻いた。
そして翌日夕刻、跳ね起きるなり、少年はアミルの腰にある曲剣を差してこう言った。
「――よければ、剣を教えてくれないか」