牙
少年はその日、扉を叩く音で目を覚ました。
正確には、その音は彼の眠る棺の蓋を叩く音だった。しばし寝ぼけていたが、シュウはきっと先日出会ったアミルが来たのだろうと思い、蓋を横にずらした。
対面し、彼の端正な顔が気まずく歪む。
(おはようとは、この国の言葉でどう言うのだろう)
アミルも同様の反応である。
出会って、彼の世話好きな性格から食料の提供のために参じたのであるが、相手が全く言葉を理解しないとくれば困るのも当然であろう。ボランティアといっても限度がある。
それでも来たのは、何のことはない善意によるものとしか言えまい。
いや、そうでない可能性もある。悪意ではなく、恋慕である。
少年の容姿は、この世界にきて劇的に変化していた。
美貌という言葉のみでは足らない、見た者の呼吸を止めてしまう妖艶な瞳。
陶磁器よりも滑らかで、雪よりも白い肌。
紅を差してもいないのに艶やかな唇。身体のどの部位を眺めたとて、至上の造形でない部分がない。
本人は気付いていないが――ほぼ一般的感覚を有する人間であれば、見蕩れざるを得ない。そうしなくてはならないと感じさせるほどの、言うなれば致命的な少女なのである。
中身は色々と残念な少年なので、結局話してみれば馬脚を現すのであるが。
それにはいくつかの障壁がある。
この場合、言語であった。
「さあ、食べなさい」
アミルが差し出したのは、香辛料と塩で漬け込まれた肉と干し菜であった。
もちろん少年は言葉の意味が分からなかったが、食えといっているのは分かった。
「ありがとうございます!いただきます。 腹が減っていたんだ――」
「待て、食べる前にきちんと神に感謝の祈りを……」
文化的行為を他文化圏の人間に求めることは難しい。
どの行動の意味をまず理解できない。意味を飲み込めても、所作の有する意図というものが分からない。
そしてその重要性が、どうしても現実味を帯びず、納得することが出来ないからである。現代日本の基準で言えば、例えばこの様に食事の前に神に祈ることであったり、定時の礼拝であったりといった行為である。
シュウもまた、最初はアミルが行う拳を掌で包み、天を仰ぐという行為が何を意味しているのか分からなかった。
(止めてまで指摘するってことは、やれってことだろう。郷に入っては郷に従えだ)
ただ、分からないままその行動を真似た。
男もそれは何となく察していたのだろう。顎鬚を撫で、違う様式の祈りを見せてシュウに訊ねた。
「きみは修正教徒なのかね。だとしたら悪いことをした」
修正教徒というのは、この世界の西方地域で広く信仰される宗教の教徒の呼称である。
アミルは異なる宗教の信徒であったが、わざわざ違う宗教の人間に押し付けようとは思っていないらしかった。最初の行為は不注意によるものである。
少年にとってはどちらでも構わない話なのだが、気にする人間は気にするものであった。
(いただきます、ということだ。うん、重要)
礼儀に煩い人間ではなかったが、彼は自然とその習慣が身についていた。
したがって、アミルが注意したことについても抵抗なく受け入れていた。
(うまい。そして何か歯がおかしい)
口内の感覚というのは意外と鋭敏である。
口内炎が、例えば腕の表皮に出来ていたとしたらどうだろう。そこまで気になるだろうか。簡単な擦り傷と同じように、すぐに無視できるようになるだろう。
だから彼は気付いたのである。
犬歯の長さが異常である。肉を食べようとすると、干し肉であるというのにさくさくとナイフのように筋繊維を噛み切ってしまう。
別に困りはしない。ただ噛んでいる本人としては違和感だらけである。
「アミル。すまないけど、俺の歯、何かおかしくないか?」
「……歯を見ろと? うん……? なんだ、これは」
成程、それが多少の奇形であればアミルも少女(実際は少年だが)を慰めて流しただろう。
しかし、彼の歯は明らかにそのように作られたものだった。
つまり、種族としての特徴である。50をいくつ超えたか、というアミルがその正体に心当たりがないということはなかった。
だからこそ、彼は瞬間沈黙した。
――吸血鬼とは人を襲うものだ。
だとすれば、何故わざわざそれを明かすというのだろうか。襲おうと思えばその機会がなかったわけではない。アミルは仮に襲撃されたとしても撃退できるだけの技量を有していたが、それでもこの、無警戒な少年が背を狙っていたとは考えられなかった。
とすると、と考え出すと男の思考は少女を哀れむ方向に向かっていく。
知らない内に噛まれて吸血鬼にされたのだろう、とか。
恐らく変異する間に屋敷の人間が去り、誰一人として面倒を見てくれない状況で復活してしまったのだろう、とか。
そんな風に解釈したのだ。無意識、全く理解の及ばぬ内に変性していたという部分は正しいので、あながち奇天烈な発想とはいえないのが心苦しいところである。
「……きみはひとりか」
(たぶんひとりかと言ったな)
シュウは頷いた。
「行くあてはあるのか」
(よくわからないけど、大抵のことに自信がないぞ)
何しろ自分が何者かということも分かっていない始末。
少なくとも少年がここで頷けるものは何もなかった。体調がどうこうという話ならばすこぶるよかったが、彼も新たな身体が妙な病気を持っていないかどうかということは知らない。
肯定できることがないから否定するしかなかった。その結果、上手く噛み合ったのである。
「きみさえよければついて来ないか。つまらない家だが、しばらく面倒を見てあげよう」
(提案らしい。手招きということは、たぶんついてこないかということだろう。信用できるのか?)
今更である。
シュウも同様に考えた。
この屋敷に引きこもっていたところでどうにもならない。
食事を探すとすれば、外に出なくてはならないのだ。今回渡された食事にも妙な細工がなかった。
信じて騙されたのなら、これもまた仕方がないことだと少年は割り切った。
そうでもしなくては二進も三進もいかなかったのだ。捨て鉢とも言う。
シュウは笑って手を差し出した。
「よろしくお願いします」
「――うむ」
ところで、とアミルは目の前の少女を立ち上がらせてやると、エントランスの壁に飾ってあったシンプルな仮面を取って渡した。
「これを被っておきなさい。きみの顔は人前に出すものではない」
(かぶれということか)
もしかしてやばい顔つきなのだろうか――などと益体もないことを考えながら、シュウはその仮面を被った。不思議なことに測ったかのごとくシュウの顔に丁度よい大きさであり、軽く留め紐を結べばずれるようなことはなかった。
「よし――ところでもう一ついいか」
「うん? なんだい」
アミルは浅黒い鼻先を掻いて、シュウが手に握り締めた鎖を指差した。その先は彼が眠っていた棺に繋がっている。
「……それは必要なのか」
(いつのまにか握っていたけど――)
彼には何の確信もなかった。
だが、ベッドの代わりとしてはとても眠り心地がよかったことと、何か言語化できない奇妙な感覚が、棺を手放すことを拒否していたのである。
アミルは困惑した。
部屋に入るだろうか――などと考えたが、
「大丈夫!」
意味の分からない言葉で、やけに自信ありげに少年がサムズアップをするので、仕方なく流すことに決めたようだった。
この二人組、ここまで来てほとんど雰囲気と勢いで全てを流してしまっていた。
人間、偶然行き遭った物事については何かを明確に決めて行動することなど、難しいのかもしれない。