館の中で
少女――の姿をした少年は、館の中を歩きつつ感動に身を震わせていた。
多少肌寒かったので部屋を漁る間に見つけたフード付きの外套を羽織り、上機嫌に口元を上げていた。
生前の彼は、最終的に歩くことすら満足に出来ないという状態にあった。こうして、何の支障もなく歩行しているというだけで、当人にしてみれば奇跡的なのである。
姿は違えど、自分が普通の人間と同じように過ごせていることが、置かれた状況と自らの身体への疑問と不安を打ち消していると言える。決して度胸のある方ではないが、彼の歩みは軽かった。
(古い。歴史の教科書で見た覚えがある造りだ)
装飾品は全て埃をかぶり痛んではいたが、煌びやかであったことが窺い知れる。
現代日本の一般家庭に備えつけられているような、廉価品・量産品ではない。病室の中で何年も過ごしていた少年でも、あからさまに時代感が異なっていれば、その程度の判別は付く。
エントランスより階段を上がり、朽ちた廊下を無意識の内に静かに歩き、彼はため息をついた。
人が居ない。ということは、彼に現状を解説する者も居ないということだ。
すかさず周囲を見渡してみたはいいものの、ただでさえ世間慣れしていないインドア生物に、視覚情報のみで自身の置かれた異常な事態を把握してみろという方が殺生である。
そもそも突然何の説明もなく見覚えのない棺に放り込まれて、しかも身体は親しみのある自分のものではなく、それどころか死ぬものと考えていたというところで、誰が彼を未成熟な思考であると笑えるものだろうか。
少年は廊下の奥に位置する一際重厚な扉のノブに手を掛けた。
「……誰も居やしねえ」
荒い口調は病床で読みふけっていたコミックの影響である。
自分が動けない分、空想の世界に浸ろうとするのは自然な流れであった。
今の彼の外見には、素晴らしく不釣合いではあったが。
室内は窓から差し込む僅かな月明かりによって、全体を見渡すことが出来た。大きな机と、書物が詰められた本棚が壁一面に設置されている。暖炉には湿気た炭があったが、幸いにして暖を取らねばならない程の気温ではなかったので、少年は無視して本棚の前で腕組みをした。
大半が革装丁の分厚い本である。埃のせいもあって、また純粋に品質が劣化していることもあって、題名を読み取ることすら難しいだろう。
開く際に舞った埃で小さく咳き込んでから、彼は中身を眺めて肩をすくめた。
(読めない。根本的に文字が分からない)
少年にしてみれば見たことも、触れたこともない文字の羅列がそこにあった。
いくつか違う本を広げてみても同様である。
ひとつ、物語の外から物を言うとすれば、それは彼が元々住んでいた世界で一般に認知された言語ではなかった。無論、文字の形態として類似したものはあるが、研究者でもないただの少年が即興で解読できるようなものでないことは明白である。
彼に分かるのは日本語とせいぜい片言の英語くらいのものだ。その二つでなければ、眺めているだけ時間の無駄である。
よってこの行動の収穫は、第一に少年がこの地で扱われている言語習得の必要性を認識できたこと、そして第二に彼が閲覧した図書の中に活版印刷によって製作されたものがあったということである。
少年はそれを深く考察せず、手ごろな本を一冊小脇に抱えて本棚を離れた。
(最悪、焚き付けにはなるか)
なお、この世界における本はそれなりに高価である。
文化というものはその価値を理解しない者にとっては、単なるゴミのようなものだ。
この屋敷の主人が誰であったにせよ、その人間の文化的活動はこの転生した少年によって脅かされようとしているのであった。
一応のところ、彼も積極的に文書を償却しようとは考えていないようだった。しかし必要があれば、気の毒な本は無慈悲な炎で一時の温もりを提供するだけの篝火にされてしまうことだろう。
(――こういうところを歩き回れるということは、それなりに丈夫な身体らしい)
少年はそういった文化的憂慮を一切せず、自身の身体に思いを馳せていた。
健康な人間でも廃墟は危険に満ちている。
TV番組やネットの記事などで、少年もそれは心得ていた。有害物質が発生していることもあるだろうし、床板や天井が崩れてしまうこともある。
だが彼の新たな身体は、安置されていた場所とは違い満足に風が通らない場所でも、拒否反応を示すことはなかった。直接に塵を吸い込まない限り咽ることはなく、軋む床も難なく歩けてしまう。古びた靴でも足が痛まない。
逆に言えば、彼の歩き回っているこの屋敷はそれなりの規模のものであったのだが、気にしている余裕はないようだ。
動ける内に館の中だけでも探索を終えておきたい、という考えの表れなのかもしれない。
(こんな古びた場所に食料があるのか? 缶詰とかあればいいけど)
ないとすれば狩猟・採取に行かねばならない。
それは避けたい少年である。何故かといえば、アウトドアの経験などほぼないに等しいからだ。間違って毒のある食物などを口にしてしまえば、取り返しが付かない。
彼が覚えているのは「きのこはだめ」、「美味しそうに見えたとしても地面に落ちた果物はダメ」という正しいのか誤っているのか微妙な知識だけである。
彼は急ぎ足で館の中を見て回ることにした。正確な時刻は分からなかったが、のろのろして活動限界を迎えることは避けるべきという判断であった。
一見妥当な判断と思えるが、その実これは奇妙である。
彼が目を覚ました時、空に月が昇っていた。ということは夜半であることは断定できる。惑星の運行にまで視野を広げればこれもまた熟考すべき案件かもしれないが、まずは彼の生きていた世界を基準に考えるとしよう。
人間の活動時間は主に昼だといって差し支えはないだろう。ここで昼夜が逆転する生活を送っている人々は思考の外に置くが、おおよそホモ・サピエンスはそのように生活している。
何がおかしいと言って、ここで探索を翌日の昼に回そうという発想がないことだ。いや、それだけではない。活動限界とは就寝を必要とする時間を示しているものだろうが、だとして人間が夜に眠ることに何の問題があるというのか。
明るい内に探索をしようというのが人間として自然な発想ではないのだろうか。
拠点は確保できているのだ。人気のない、お世辞にも身体によいとはいえない環境だが、住居である。
常識はずれな状況に混乱している――確かにそうかもしれない。
だが夜も更けた時間帯に、まるで昼間に普通の人間がそうするように館の中を駆け回っているということが、すでに元の常識から外れているのである。
それは少年が新たな身体に慣れ始めたことの、証左なのかもしれない。
室内にありながら火を灯すこともなく、細かい本の文字を視認できたこともその一環だろう。
――ともあれそんなことを考えもせず、寝室を確認してから少年は一階の台所らしき一室を発見した。
(映画だとこういう場所にはハムとか干し肉が吊ってあるもんだけど)
彼の探し物は確かにあった。
ありはした、というべきかもしれない。
「げ、カビてる」
何の手入れもしなければ、いかに塩漬けにして干していても劣化する。真っ白なカビに覆われた肉塊は最早別の食材にも見えた。期待するほうがおかしいというものだ。
見渡す限りで食べられそうなものはなかった。萎びて干し草のようになった葉野菜がせいぜいだろうか。草食動物の気持ちを理解するのには役立つだろうが、空腹を満たすには少々足りない。
保存食の類はといえば、瓶に詰められた何かを発見したものの、半液状化した怪しげな食品を試してみる勇気はないようだった。
少年はいよいよ肩を落としてしまった。容姿が美しいので様にはなっていたが、別にこれで事態が好転するわけではない。
(どうする。一日二日ならともかく、一週間はもたない。明日目が覚めてから外に出るのはいいけれども、夜の屋外と言うのは何か出そうで怖い)
しかし真面目に外を散策できるのは嬉しい。
少年の表情は内心を正直に表していた。
屋外から人や車が行き交う音がしないことは、彼も分かっていた。恐らく郊外か、はたまた余程の田舎なのかもしれないと考えている。
半ばピクニック気分でいるのだ。能天気である。
――と、彼の尖り気味な耳がぴくりと震えた。
(物音?)
人の足音である。
人数は少ない。入り口付近で戸の開く音がして、続いて硬質な足音が響いている。
それを少年の鋭敏な聴覚が拾い上げたのである。ちなみに厨房は入り口からもっとも離れた区画にある。
(しかもこっちに来る)
まずいのでは、と少年は身構えた。屋敷の持ち主ならばまだしも、この古びた館に入ってくるのだ。柄の良い連中ばかりではないだろう。
幸いにして場所は厨房である。彼に戦闘の知識はなかったが、とりあえず近くにあった包丁に手を伸ばした。
(……いや、これだと死んでしまう)
伸ばした手を引っ込めて、彼は思案した。
そして来訪者が一室に踏み込んできたその瞬間、彼は一足飛びに頭上高くに吊り上げられたカビだらけの豚肉を引っつかんで――ついでにフードを目深に被り――突きつけたのである。
「ちょ――ちょっとそこで止まってくれ。別に泥棒ってワケじゃないんだ」
侵入者は何も言わず、言葉は通じずともなんとなく彼が混乱していることを察してか、頷いた。
黙っていればまだ美しい少女の姿をしていたのに、酷い光景であった。