リンカネイション
少年は病んでいた。
酷い病――ではなかった。身を蝕む激痛はない。へばりつくような倦怠感もない。
ただ、内臓器官の衰弱と筋組織の不明な脆弱性が、少年から大地を蹴って走るというだけの自由を奪い取っていた。長く生きるというだけのささやかな望みを奪い取っていた。
生来の病である。不幸にもそうなった、というだけの話。何処にでもある悲劇である。
(正義の味方になりたかった)
少年は脳内で独り言を呟いた。
過ぎた望みである。人並みに生きることすら出来ない生物が、どうして過去の英雄譚を我が物としようというのか。創作の物語に登場する、様々な魅力的な人物のように活躍しようというのか。
それでも彼は夢見ていた。
恋は知らない。
しかし両親が自身の為にあらゆる手段を講じていたことを知っていた。
小難しい数式は解らない。
しかし数少ない友人が身を案じてくれていたことを理解していた。
だから何かをしたかったのだ。何も出来ないとしても、望むことは自由だ。
(そうでなくとも、せめて誰かの役に立ってから)
そうしてから、息を引き取りたい。十代も半ば、病床での生活にやせ細った体で彼は考えていた。
不可能である。
心電図は徐々に直線に近い波形を示している。弱弱しい鼓動が、残酷にも視覚化されてしまっている。
彼の目に映る景色は単調で、見慣れた病院の天井でしかなかった。忙しなく動く医者も看護師も、若い命をどうにか救い出さんとして必死である。少年の薄れ行く意識が、如何なる思考をしているかということは彼らにとって重要ではないようだった。
残酷ではない。仕方のないことである。
だが、それでも少年は祈った。
願わくば次の一生は誰かのために使おうと。
そして、僅かに身体が軽くなったような感覚に驚き、少年は息を引き取った。
故にここからは彼の与り知らぬ事象である。
転生――少年は文字通りに生まれ変わるのである。何も知らぬままに。
目を覚ました少年が寝転んでいたのは、ひたすらに暗い空間であった。
彼は戸惑いながらも起き上がろうとして、見えない壁に頭をぶつけた。小さく悲鳴をあげて、彼は自分の声が不思議と甲高いことに気が付いた。
(なんだこれは)
誰だってそう思うだろう。死したと思えば、何も見えない空間に放り出されている。
いや、それでも彼は判断が早かった。
(まさか、生きたまま棺桶に入れられたというオチか)
時折彼が見ていた怖い話を纏めたTV番組で聞いた話である。
医療ミスか何かで生きたまま棺に閉じ込められ、そのまま火葬場に送られる。
骨まで炭化する釜の中生きたまま焼かれるのだ。
少年の顔が青ざめた。
「ちょっと待て、それはマズイ――!?」
叫んで壁を殴りつけたところで、その奇妙さに彼の眉が寄せられた。
十代半ばとなればそれなりに声変わりの時期を迎えている。少年とてその例外ではなく、長く付き合いのある看護師などから数年前にはそれを指摘され、祝福されていた記憶がある。
だが、彼の声はとても変声期を迎えた男性のものではなかった。
むしろ女性――少女のもの。
鈴を転がすような、そして柔らかな少女のそれであった。
異常事態も異常事態、病院で成長したようなものなので世間慣れしていない彼にしても、これはあまりにも常軌を逸していた。寝ている間にヘリウムガスでも吸わされたのか――彼にはそんな悪戯を仕掛ける知人に覚えがなかった。何しろ何が原因で病状が悪化するのかも、わからなかったのだから。
少年と呼びたいがどうにもそれが不適切に思えてきた彼は、恐る恐る左右に手を伸ばそうとして、無理を悟った。寝転ぶには全く問題のない空間であったが、大の字になるには狭い。
しかし熱さは全く感じられなかったので、ひとまず彼は安堵して息を吐いた。
(どうなっている)
それが分かれば誰も苦労はしないのだ、若人よ。
(たぶん生きてはいる。生きているのだけれども、ここはどこだ)
問題はそこだった。
彼の身に起きた変化も無視できないが、この暗闇もいけない。何も見えないのでは行動のしようもない。
おもむろに彼は体を叩いて確認し始めた。
(服は着ている。薄いが、寒くはない。だが)
間違いなく、その服は女物だった。
そしてついていなかった。
股間にあるはずの感触がない。
代わりに胸には少しだけ膨れた何かの柔らかさがある。
混乱の極みである。どんな病が男を女に変えるというのだ。もちろん、ホモ・セクシュアルの一環としてどちらかが女性的に振舞うということはあるかもしれないが、ここまでの変化となれば改造工事である。
無論、少年にそのような手術を受けた覚えはない。サインした記憶もない。
とにかく、彼はそれについて考えることをやめた。
切り替えは早いようだ。感心なことである。
「よい――しょ、お」
試しに彼は頭上の壁に手をついて、押した。すると蓋でもしてあったかのように、漆黒の天蓋は持ち上がったのである。
否、正しくそれは蓋であった。
月光が内部に差し込むと、彼にも自身の横たわっていた場所が理解できた。
――棺桶であった。
洋風の、赤いビロード張りの棺に、少年は横たえられていたのである。ご丁寧なことに、枕元には萎れた花が添えられていた。白の百合だろうか。少年は首を捻り、身を起こした。
「なんだ、ここは」
朽ちた洋館、ホラー映画にありがちな古臭い屋敷の、おそらくメインエントランスのど真ん中であった。そこに安置されていた豪奢な造りの棺に少年は寝ていたのだった。
月光は天窓から差し込んでいた。どこからか吹き込んでいる風で、空気は清浄である。
生物の気配はない。
少年はしばし現代日本にはそぐわぬ情景に見蕩れ、不意に視界に移りこんだ黒い糸を引っ張った。
「……俺の髪?」
その通りである。それは少年の髪であった。黒曜石の如く月の明かりで輝き、彼が手で梳くと何の抵抗もなく流れていく。少年にとっては長すぎる、腰辺りまでの長髪であった。
もはや明言してもよいだろう。
彼は既に彼ではなく、彼女であった。
透き通って消えてしまいそうな白い肌に、前述の黒い長髪、立ち上がって初めて分かったその背丈は、生前の彼のものよりも遥かに低く、年の程が十を少し過ぎた程度の少女のものであった。
少女にあえて寄り添うことなく、客観的意見を述べるとすれば、端的に美しい形をしている。いや、端正な顔立ちだ。人形のようで、整いすぎた、という印象である。
質素な黒の死に装束が、何故か似合っていた。
しかし、本人がそれらを自覚するのは、少々後の話である。鏡がないのだ。
(どうすればいい?)
そこである。
誰がこの状況を予測しうるだろうか。
そして誰が対応しきれるだろうか。
人によってはパニックを起すだろう中で、それでも冷静になろうと努めているのは褒めるべきだろう。
だからといって何か画期的な解決案を編み出せるほど、機知に富んだ人間ではない。精々彼の頭の中にあるのは、無理に動けば体力が減って動けなくなるのではないかという危惧と、立ち上がることが出来たというだけの状況に湧き上がる歓喜である。
不安と興奮、その二つの感情を天秤にかけ、彼が採った行動は廃墟の探索であった。
我を失い狂乱するのが普通の人間か。
そうではない。普通の人間はどこかで理解と思考を放棄するものだ。
入力情報の容量超過である。
彼の選択は、訳が分からないので好奇心に任せて行ってしまえという、言わば投げやりなものでもあった。
「よし」
そう呟いた口元から、異常に発達した犬歯がちらりと覗いた。
この世界に生まれ変わった吸血鬼は、そうして新たな生への第一歩を踏み出し――棺の淵に足を引っ掛けて転んだ