294 離別
7月2日、クロとムラサキが言い争った日の夜。
クロの家から小さな影が一つ抜け出した。
荷物は一切なく、身一つでの出発である。
クロの家がある荒れ地を東に抜けて森に入る。少しばかり進めば、その森を抜け、草原に出る。東に進めば、フレアネス王国の王都がある。
しかし、その草原に出たところで、1人、彼を待っていた者がいた。
「やはり出て行きますか、ムラサキ。」
「止めるのか?・・・マシロ。」
草原でムラサキを待ち構えていたマシロは、ムラサキの問いに首を横に振る。
「マスターは、この地にいる誰も束縛する気はありません。共に生きることが互いに利益になると思う者たちが集まる場所としたいのです。」
「じゃあ、何しに来たんだよ。」
マシロの嗅覚は、他者の感情を読み取り、そこからそこそこ正確に思考を把握できる。だから、クロと言い争った後のムラサキが、家を出て行こうと考えていたのは、すぐにわかったのだろう。
しかし、マシロが読み取れる思考は、あくまで感情から大雑把に推測するものである。詳細はわからない。
だから、マシロはムラサキに尋ねる。
「確認です。ムラサキ、あなたは、何故今までマスターと共にいましたか?」
それは、遠回しに、ムラサキがここを去る理由を問うていた。
ムラサキは、少し悩んでから答える。
「・・・初めは、腐れ縁みたいなもんだな。魔族の集落を抜け出すアイツについて来た。アイツがいなきゃ、オレはずっと魔族の実験動物だったから、恩も感じてる。でも、一番の理由は、楽しかったからかな。」
魔族の集落を抜けた後、仮にクロについて行かなければ、どうなっていただろう?
魔族となったムラサキは、もうただの猫としては生きていけない。獣人に化けて、ヒトに紛れて生きることも可能だったかもしれないが、ムラサキにとっては窮屈な人生になっただろう。いくら人型になれるとはいえ、猫が自分の本来の姿なのだ。
その点、クロの家では、魔族としても猫としても、好きに振舞うことができた。趣味の料理も、皆に感謝されて、やりがいがあった。
確かにクロの家での生活は楽しかった。しかし、だ。
「でもな、それでも、今回のことは、オレには納得できない。今まで付き合って来たけどな、正直なところ、オレは、別にヒトが嫌いなわけじゃないんだよ。」
「そうでしょうね。」
それは、マシロならずとも皆が気づいていた。
「オレの住処を奪った帝国軍はともかく、むしろオレは人間好きだ。人間憎しで殺し回るアイツには、これ以上付き合えん。」
「今回の事、マスターは、憎悪だけで動いたわけでは・・・」
「わかってるよ。この土地を守るため、だろ?でも、それだって、口実に過ぎねえ。」
「・・・・・・」
そこにはマシロは反論できない。
今回のアルバリーでの虐殺は、マシロの言う通り、ヒトへの憎悪だけで行ったものではない。この土地を脅かすものを排除するため、今後もこの土地に手を出すものを出さないため、そう言った理由があった。
だが、それらを達成するのが目的なら、他にも方法はあったはずだ。そこで虐殺という手段を取るのは、やはりクロの根本にヒトへの憎悪があるからだ。
マシロも、それは常に感じ取っている。
「オレとアイツじゃあ、人間への対応が真逆なんだよ。一致してたのは、帝国相手の時だけだ。根っこじゃ、相容れないのさ。」
そう言って、ムラサキはマシロの横を通り過ぎようとする。
そこへ、マシロが問いを投げかける。
「では、その相容れないはずの者を、マスターが相棒と呼んでいた理由は、わかりますか?」
「・・・単に最初の仲間ってだけだろ。他にいなかっただけだ。・・・今はもういっぱいいる。」
「いいえ、違います。」
マシロは、通過しようとしたムラサキに近づき、しゃがむ。
長身のマシロが立ったまま話すと、ムラサキをどうしても見下ろしてしまう。顔も遠い。
今は、マシロはできるだけムラサキの顔の近くで話したかった。
「あなたの代わりなどいません。今日のように、マスターの行動を面と向かって諫められるのは、あなたしかいない。マスターも、それを期待して、あなたを傍に置いていたんです。自分が道を誤れば、止めてくれるだろう、と。」
ムラサキは目を見開いた。
いつも自分に対して、気に食わない、と厳しい態度をとっていたマシロが、今日だけは妙に優しく言葉をかけて来る。
それに、自分への評価が意外と高かったことにも驚いた。
だが、ムラサキに、家へと戻る気はない。
「そんなもん、お前が止めてやればいいだろ。」
「私がマスターに注意できるのは、マスターの身を案じての事だけです。自分がヒトの常識に疎い自覚はあります。」
「・・・狸達がいるだろ。」
化け狸達は、ヒトの社会に紛れて生きて来た。社会常識にも詳しいはずだ。
しかし、マシロは首をまた横に振った。
「彼らは、マスターを自分より上と見ています。マスターは対等を望んでいますが、彼らにとっては、マスターは領主です。易々と意見を言える立場だと思っていない。」
「・・・・・・」
化け狸達がそうなら、アカネやアカリも言わずもがな。
ヤマブキはと言えば、なんだかんだ言って、一歩引いた位置にいる。協力もするし、助けもするが、基本的にクロの行動方針には口を出さない。
「・・・自分の道が正しいかどうかくらい、自分で考えろよ。甘えんな。」
「マスターに、自身に関する記憶がないことを考慮してもですか?」
クロには、前世の記憶の大半がない。前世の社会の常識や知識はあるが、自分がどういう人間だったか、周囲とどんな人間関係があったかは、ほとんど残っていない。なぜ人を憎悪しているか、その明確な理由すらも覚えていないのだ。
当然、過去に自分がどんな選択をして、どんな成功や失敗をしたかも覚えていない。ただ、残された知識だけを頼りに、自分の方針を決めている。
それが誤りでないか、クロが確認する術は、他人に聞くしかない。
しかし、クロは他人を滅多に信用しない。クロが意見を聞き入れる相手など、世界中見ても数えるほどしかいない。
「マスターと意見を異にしたうえで、マスターが信用している者は、あなたしかいないんですよ、ムラサキ。」
「・・・やっぱり引き留めに来たんじゃねえか。」
「まさか。私が本気で引き留めるなら、有無を言わさず捕まえています。」
「なるほど、確かに。お前ならそうするわな。」
ムラサキは悩んだ。マシロの言う通りなら、クロの暴走を止められるのは自分だけだ。ここでそれを放棄して、出て行っていいものか?
しかし、そう悩んだのも少しの間のことだ。
「本当にアイツが、クロが、自分のやり方が間違ってた時に、オレに止めてほしかったんなら・・・今回のことをやる前に、オレに一度話せばよかったんだ。」
「それは、確かにマスターの落ち度ですね。」
「なら、やっぱりオレは出て行く。ちっとは反省しろってんだ。」
ムラサキは再び歩き始める。マシロは、立ち上がってそれを見送る。
「それは、いずれ戻るという意味で間違いありませんか?」
「気が向いたらな。時間はあるだろ?」
「戻るなら、早めに。」
ムラサキは、そのマシロの言葉に、疑問を抱き、振り返ったが、マシロはもう背を向けて森に帰って行っていた。
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翌朝。クロの家の客間に、一同集まっていた。ムラサキが出て行ったことはもう知らされている。
「他にも出て行きたい奴がいたら、好きにして構わないぞ。」
クロが全員の顔を見渡す。
まず、アカネが全力で否定する。
「私は他に行くとこなんかないよ!ここにいていいでしょ?」
「ああ、居てくれるなら、俺も助かる。」
次にダンゾウ初め、化け狸達。
「儂等は拾われた身ですし、そもそも、今回の件も儂等がやられた報復ですしねえ。儂等が出てくのは筋が通らんでしょう。」
「そんなこと、気にしなくていい。」
「いーえ、儂等が気にします。それに、正直なところ、ヒトに化けずに仕事ができるここの環境は、得難いものですし。他所に行く気はないですよ。」
その次に、ヤマブキ。何も言う気配がなかったので、クロが視線を向けると、質問の対象に自分が含まれていたことに初めて気がついた顔をした。
「拙者でござるか?・・・何か、出て行くべき理由がありましたかな?」
「いや、今まで通りにしてくれるなら、助かる。」
最後にアカリだが、その姿がこの場に無い。
「アカリお姉ちゃんは?」
「あいつなら、出てった。」
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クロの家を出た翌朝、ムラサキが目を覚ますと、傍に人の気配がした。
結局、昨晩の内に王都まで辿り着けなかったムラサキは、そう簡単に死ぬ身でもなし、と草原のど真ん中で野宿にしたのだ。
故に、朝目覚めれば、原っぱにぽつんと自分がいる状況を想定していたのだが、目の前には、焚火を焚いた跡と、その近くの岩に腰かけるヒトの姿があった。
ムラサキには見慣れた、魔女のような恰好の人間である。
「アカリ?」
「あ、起きました?ムラサキさん、いくら魔族だからって、こんな開けた場所で無防備に寝るなんて無謀すぎますよ。魔獣だっているんですから。・・・まあ、森に比べれば少ないですけど。」
どうやら、寝ているうちにアカリがやって来て、ムラサキの傍で焚火を焚き、魔獣や獣を追い払っていたらしい。
「お前、何やってんの?」
「ん~、何というか、ムラサキさんがほっとけなくて。」
アカリは、焚火が確実に鎮火しているか確認しながら答える。
「クロの方はいいのかよ。お前が任されてる仕事もいっぱいあっただろ。」
「それは別にいいって言われました。手間は増えるけど、できなくはないから、って。」
話しながら『ガレージ』を開き、朝食であろうサンドイッチを取り出す。
「そもそも私が居場所がないって言うから、置いてたんで、行くとこがあるなら止めないって。・・・ムラサキさんも食べます?」
「・・・もらう。」
ムラサキは獣人形態になり、サンドイッチを受け取る。
「でも、お前ならすぐにクロの家に戻れるだろ。『ガレージ』で。それだと、なんかアイツと離れた気がしないっていうか・・・」
ムラサキがそんなことを言うと、アカリはポケットから1つの指輪を出して、ムラサキに見せた。
「それ・・・」
「クロさんのです。何かあった時のために、これは置いて行こうかと思ったんですけど、クロさんが律儀に渡して来たんです。最近買い足した分も含めて。」
このペアリングは、アカリの『ガレージ』を遠方に開くための目印だ。これがある場所にだけ、アカリは好きに出入りできる。
それをアカリに返したということは、アカリはクロの元へ転移することはできないということだ。逆に、クロがアカリを呼び出す事も無い、という意味でもある。
「結構高いのに、ポイっと渡しちゃうんですよねぇ。」
ペアリングは魔具であり、数も限られた高級品だ。本来は結婚指輪として用いられるもので、一生に一度、大枚叩いて買うような代物である。
「まあ、アイツにアカリを呼ぶ気がないなら、使わないものだしな。アイツにとっては、物の価値なんてそんなもんだよ。世間の一般的な価値なんて関係なく、自分にとって使えるかどうかだ。」
「そうですねえ。」
アカリは何かを思い出すように、ぼんやりと返事をした。
ムラサキはそれが少し気になったが、互いに過去を詮索しない約束をしたことを思い出し、追及しないことにした。
サンドイッチを食べながら、ムラサキが言う。
「言っとくけど、オレは行く当てなんてないからな。楽な旅じゃないぞ。」
「旅なら初めてじゃないですから、問題ないですよ。それに、荷物持ちがいれば、旅もだいぶ楽になるでしょう?」
「そりゃあ・・・確かにそうだ。」
『ガレージ』があるアカリがいれば、食うに困ることもないし、手荷物もいらない。野宿だって、必要な道具は全部簡単に運べる。
「しかし、そうなると・・・」
「何です?」
「何というか、不便を覚悟して飛び出して来たのに、お前がいると楽になっちまう、というか?」
「おや、じゃあ、別々に行きますか?」
「・・・いや、一緒に行こう。来てください。オネガイシマス。」
アカリがいるといないとでは、利便性でも安全性でも、そして食の質の面においても、大きく違う。特に食事の質については、ムラサキは可能な限り良くしたかった。
そうして、ムラサキとアカリは、2人でクロの家を出て行ったのだった。




