275 ノースウェルの今
かつて神聖国ノースウェルの首都であった大都市マリナス。宗教国家の中心だったこの都市は、中央の大聖堂をはじめ、町中に数多くの荘厳な教会が見られる。
ここに、スミレは遠洋への長期調査に備えて食料と物資を買い込みに来ていた。リースは光学迷彩を用いながら、街の外に待機している。
この町は外縁部に獣人族が多く暮らしているため、あまり近づくとリースの存在に気づかれる恐れがある。光学迷彩では、獣人族の鼻までは誤魔化せないのだ。
防水仕様の背負い袋に保存のきく食材を詰め込み、ついでに探索に必要そうな工具も買い込む。
流石は港町の海の男御用達の店で買った背負い袋。パンパンに積めても頑丈な革製の袋はびくともしない。おそらくは水属性を持つ魔獣の皮でできているのだろう。魔獣素材は、死後もその性質をある程度維持する。もちろん、生きていた時ほど性能はないが。
そんな大袋を背負いながら、スミレは町を眺めて歩く。
・・・さて、一通り街を巡ってみましたが、やはり以前のような活気はありませんねぇ。
スミレが前回ここに来たのは、開戦直前。すなわち約2ヶ月前だ。
たった2ヶ月で、このマリナスの様子は大きく変わった。建物は、クロ達が派手に戦ったという区画以外は、大きな変化はない。
しかし、人の様子が大きく異なる。
パッと見てわかるのは、雰囲気が暗くなった。戦争に負けた、というだけではない。彼らは大きな不安を抱えているのだ。
ここの市民、いや、ノースウェルの元国民達が共通して抱くようになった不安。それは健康だ。
これまでここの国民は、いわゆる「神の加護」によって守られていた。怪我はたちどころに治り、病にかかることはない。常に健康が約束されていた。
しかし、敗戦によってそれが失われた。具体的に何がどうなって加護が失われたか、知っている者は、この市井にはいないだろう。しかし、敗戦が、教皇がいなくなったことがきっかけだと、誰もが理解していた。
他所から見れば、それは普通に戻っただけのことだ。今までが特別恵まれていただけで、それがなくなっただけ。もしかしたら、ここの国民を見た他所の国の者は、何を甘えているのか、と怒るかもしれない。
だが、ここの国民にとっては、それが当たり前だったのだ。健康で当たり前。怪我を気にする必要はなく、病気も心配しなくていい。事故死の心配すらない。寿命まで万全であり続けることが約束された世界。それが突然失われた。
・・・勇者君はさぞ、ここの国民に恨まれているでしょうねぇ。ま、実際に殺したのはクロさんなんですが。
そういった不安、不満、恐怖。それらがここの国民を一様に包んでいる。
さて、そんな状態のこの国は、これからどうなっていくのだろう。そう思ったスミレは、リースとの合流時刻までまだ時間があることを確認した後、大聖堂前まで足を延ばしてみた。
すると、折よく、人が集まって何やら演説が行われているのを発見した。道端の小さな集会とかではなく、大聖堂からその前の広場へと向けて行われる、公的なもののようだ。
スミレは大荷物を抱えながらもするりと群衆の中に滑り込み、その演説が聞こえる範囲まで進んだ。
「・・・ですから、不安に思うことはありません。私はこの国の文化を尊重します。枢機卿の方々、騎士団の方々と手を取り合い、この国のために・・・」
演説しているのは、身なりからイーストランドの者だとわかった。それも結構偉い。
・・・植民地に派遣されて来た執政官でしょうか?にしては、腰が低いというか。
スミレは、その演説を聞いて、前世の選挙活動を思い出した。
戦勝国が敗戦国に送る執政官と言えば、もっと頭ごなしに強気で来るイメージを持っていたが、これはそうではなさそうだ。
一言で言えば、優しい。
ただ、政治において優しい、というのは、何か裏があるか、優しくする理由、必要性があるものだ。
スミレはじっと演説する執政官を観察する。表情、仕草、魔力の色、様々な要素を総合して、対象の感情を読み取る。
・・・事を荒立てたくない。そんなところかな?それも、かなり必死みたいですねぇ。
武力で勝る相手、今にも手を出してきそうな相手に、ひたすら謝り、なだめて、穏便に事を済ませようとする。そんな光景が浮かぶような感情。スミレはそう読み取った。
・・・まあ、確かに現状の戦力を考えれば、戦争再開はイーストランドに不利でしょうし、こうなりますか。
この演説で、スミレはイーストランド側の思惑を読み取った。
だが、そのうえで懸念を感じた。
・・・でも、あんなやり方で、本当に穏便に済みますかねぇ?
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広場から見えないところまで下がった執政官ソンは、ホッと息を吐いた。ソンの傍らに護衛として同行するクリスは涼しい顔のままだ。
そこへタイミングよく1人の修道女が出迎える。
「お疲れ様です、ソン様。」
「おお、シルビア殿。いや、無事に終わってホッとしているところですよ。」
今しがた演説して来た場所に、ソンは顔を向け、耳を澄ませる。
歓声も拍手もないが、罵詈雑言もない。静かなものだ。去っていく民衆の足音がかすかに聞こえる程度である。
「正直、石を投げられるくらいは覚悟しておりましたから。御清聴いただいて有難い限りです。」
「あら、ご心配なく。我が国にはそんな野蛮な民はおりませんわ。」
「おっと、失礼。そういうつもりでは・・・」
「ふふふ、お気になさらず。」
シルビアは温和な表情でそう答えた。それを見たソンは、どうやらシルビアは皮肉で言ったわけではない、と感じた。
クリスはと言えば、全く表情を変えない。にこやかではあるが、まるで仮面のようだ。
シルビアはサッと手帳を取り出して、スケジュールを確認する。
「では、これからご休憩いただいた後、19時から会食です。そこで枢機卿の方々と親睦を深めていただければ。」
「何から何までかたじけない。」
ソンがここに到着してからというもの、シルビアは付きっ切りで彼の世話をしてくれている、
「気兼ねなく頼ってください。文化の違いは理解しているつもりです。戸惑うことも多いでしょうが、私がフォローいたしますから。」
「よろしく頼みます。」
そうこうしているうちに、ソンのために用意された部屋に到着した。
「ではまた後程。」
「ええ。何かあればお呼びください。」
部屋に入ったソンは、部屋を見回す。
到着したのは昨日のこと。まだ荷開きも済んでいない。
ソンが荷開きの続きに取り掛かると、扉の傍に陣取ったクリスが声をかけた。
「ソン殿。あまり彼女に気を許すべきではありませんよ。」
「油断はしていないつもりですが・・・ただの修道女でしょう?」
「役職としてはそうでしょう。ただ、いくらか武の心得があると見えます。不意打ちであなたの心臓に小刀を突き刺すくらいはできますよ。」
「・・・ご忠告痛み入ります。しかし、警戒心を表に出すわけにもいかない。私は平和を作りに来たのですから。」
「ごもっとも。我が役目故の老婆心と思いください。」
そんな会話の間も、クリスは涼しい顔を崩さない。
きっとこの男ならば、刺客がゼロ距離からソンをナイフで狙ったとしても、その隙間に魔法の盾を滑り込ませるくらいするだろう。ネオ・ローマン魔法王国において、防衛戦や護衛任務において右に出る者なし、と言われる<輝壁>の名は伊達ではない。
その実力は、確かにソンも信頼している。ただ、どうにも事あるごとに上から目線で言われている気がして、時々イラっとするのが玉に瑕だ。
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「お疲れ様です、シルビア殿。」
「ルートリクス様。そちらこそ大変だったでしょう。騎士団には血気盛んな者も多いですから。」
「ははは。まあ、その通り。何名か「出かけよう」としていたので、止めるのに苦労しました。」
「仮に来ても、大事にはならなかったと思いますよ。あの護衛、相当腕が立つようです。」
「・・・それは、少々心配ですね。多少腕が立つ護衛がつくことは予想していましたが。騎士団以上だと?」
「おそらく。・・・しかし、執政官はだいぶ抜けているようですね。民衆に石を投げられる心配をしていました。」
「それはまた・・・調査不足ですね。」
「ええ。神聖国民が石を投げる等、するわけがないではありませんか。我らが信徒は、怒りをそのような方法で表現しません。」
「ええ、まったく。教会通いを忘れがちな私でさえ、教義には忠実です。武力を行使するのは騎士団の役目。民は暴力を振るってはならない。これを破る民はいません。」
「その通りです。が、ルートリクス様は毎日教会に行ってください。」
「・・・善処します。」
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「お待たせしましたぁ。」
日も沈みかけた頃、スミレはようやくリースの元へとやって来た。
「遅かったじゃない。どんだけ買い込んだのよ。」
「買ったのも多いですがぁ、まあ、ついでに簡単な調査を~。」
スミレは町で見た、ノースウェルの現状を話す。
「ふーん。正直言って、私は今の政治とか興味ないんだけど。」
「連れないですねぇ。」
「でも、あなたの見立てくらいは聞きたいわね。イーストランドはノースウェルを御せそうなの?」
スミレは、リースが取って来ていた魚を焼いたものを一口食べてから答える。
「そうですねぇ。・・・もしあの演説そのままでやるとしたらぁ・・・」
「やるとしたら?」
「暴動・・・いや、ノースウェルの教義的には・・・」
スミレは数秒の黙考の後、予想を告げる。
「革命、ですかね。」
次回までちょっと間が空きます。




