五月二日 霜崎亜美END
二、
笑って過ごせる日々を時雨はまだ過ごしていた。あれから少しの月日がたち……………といっても、十日ほどが過ぎたぐらいなのだが。
あれから変わったことといえば、毎晩のように霜崎亜美から携帯へと電話がかかってきている。話している時間は一時間近くだ。隣の家に住んでいるのだし、窓を開けて放そうと思えば話すことはできるのだが、彼女は気がつかないのかずっと時雨に携帯電話を使用しての会話を求めているようだった。既に時雨の携帯の電池は換えなくては使い物にならないだろう。
電話について時雨はちょっと悩んでいた。いや、霜崎亜美のことではない。最近、ノイズが入ってきているのだ。そのたびに霜崎亜美の身に何かあったのだろうかと考えなくてはいけなくて、あわてて隣の家まで走ってくると安否を確認する毎日だった。
「…………あの空間に入っちゃったからなぁ」
一昔前のことを思い出してそんなことをぼそりと呟く。
あの空間について知っている知り合いの話によれば一ヶ月ほど待っても何もなければその人物はあの空間にはもう入れないとのことだったが、まだ十日ほどしかたっていない。注意をしておくことに異議はないとのことだった。まぁ、霜崎亜美の身辺警護をしておくのは時雨の仕事となるので時雨の気苦労が増えるだけだったのだが。
もっとも早い話が時雨と同じ場所、時間を霜崎亜美が共有してなければいいのだ。しかし、あの日を境に時雨の視界の端には絶対に霜崎亜美の姿があった。これまでもそうだったのかもしれないが、彼女のことが気になってしょうがない。
ふとした拍子に見ているのだ、ずっと。
別に時雨は霜崎亜美のことをどうとは思っていない。
問題は彼女の影にいる何かだ。
あそこから帰ってきて確実に彼女の影には何かが棲んでいる…………いや、潜んでいるといっていいだろう。
これが何なのかは大体見当がつくが、見当がつくからと言って相手に背中を見せるのはまずい。襲われる可能性があるかだ。もしも襲われてしまったら霜崎亜美には二回目に襲われたということになる。いや、あのときの住宅街のことはカウントには入れていない。あれも一種の襲われ方だがどうこうなったわけではない。もっと小さい頃だ。そう、二人がであって間もないころに……………
「…………寝るかな」
時計はいつも自分が寝ている時間帯を指している。今日はもう疲れた。英語の斉藤先生が執拗に当ててきたのが一番つらかった。英語は理解できないし、あの先生の言動も理解することは出来ないだろう。
明日は数学がある。予習を…………
「………してなかったな」
忘れていたことに気がついたベッドに既に入っていた体を引きずるようにして机についてノートを広げ、教科書を読む。
「…………」
徐々に襲ってくる睡魔と心に浮かぶ霜崎亜美の顔。昔は亜美ちゃんと読んでいたが今では霜崎さんだ。彼女が遠くに感じられる。自分とは多分、違う道を進んでいるに違いない。いや、違う道を進んでいるのは自分のほうかもしれない。まぁ、当然のことだろう…………あの影の中にいる相手を引きずり出さないと…………
そういったもろもろの事情を考えながら、彼は終わらぬ数学の予習を前にして敗北を喫したのだった。
―――――
時雨は目が覚め、辺りを見渡す。勿論、数学の予習が終わっていないノートは真っ白で、なおかつよだれの穴が開いていた。異世界の門ができたようないびつな形をそれはしている。
「…………」
体を起こす。無理な姿勢で寝ていたからか、体の節々が痛い。もう年なのかもしれない。現役高校生なのだがきっともう年だろう。関節痛によく聞くといっていた薬はどこにあっただろうか?
そんなどうでもいいことを考えている時雨の耳にチャイムの音が聞こえる。
「…………早いな」
時計を見るが、まだ七時前だ。なんだかだんだん来るのが早くなってきているような…………
「おじゃましまーす」
霜崎亜美の明るい声が聞こえてくる。まぁ、朝から聞く声の中でも最高の部類に入るだろう。あれからずっと彼女は時雨の家に来ていた。何故かはよくわからないが、そっちのほうが時雨も安心する。
「おはよう、時雨君」
「…………おはよう」
自室に勝手に入ってきたことについては特にない。
見られて困るようなものは既に処分をしている。
ベッドの下、教科書のカバーをしたフェイクブックにファイリングしたお気に入りのものまで…………執拗なまでの霜崎亜美の探索には正直肝を冷やした。別にばれても構わないが学校で霜崎亜美がそんなことを言ってしまえば間違いなくあの学校からは転校しなくてはいけない。それだけは避けなくてはいけない事情を自分は持っている。
「まだ朝ごはん食べてないの?」
「うん、いま目が覚めたところだから……………」
異世界の門を体に刻んでしまった数学のノートを閉じ、自室を出ることにした。
「適当にくつろいでて」
「うん、そうするつもり」
食事を取るために一階へと降りる。こんな時間帯に彼女が来るのは珍しいことだが、既に家族は仕事に行ってしまっている。まぁ、どうやら母親が先ほどまでいて霜崎亜美を上へと導いたのだろう。テーブルに座って食事を始める。
味噌汁に焼き魚、ご飯といったところだろうか?どれも既に温かみが消えかけているようだった。
少し冷めてしまった朝食の食器を片付け、二階へと向かう。自室の扉を開けると…………
「………す〜………」
霜崎亜美は時雨のベッドで寝ていた。とても安らかな顔をしている。十分ほどの時間の間に眠ってしまったのだろう。制服で来て寝てしまっているから短めのスカートからは白い足が伸びていて、何かが見えそうである。
「…………」
朝から何を考えているのだ、自分は!と時雨は自分を叱咤して彼女を起こすために肩を叩こうとして……………
「………時雨君のえっち」
寝言と共に彼女は寝返りを少しだけうち、時雨が触れようとした肩の場所には………彼女の胸が来ていた。
「…………」
がっしと大き目の胸を掴んでいることに気がついて時雨はそれを放そうとするが、まるで離れない。左手で右手を掴んでようやく放す。
「はぁ…………」
顔が上気しているのが容易に想像できる。これはもう、やばい。色々と生の感情が浮かんできており、白い足の上のほうにはピンク色の何かが既に見えている。やばいという感情は待ってくれなかったが…………
霜崎亜美の影を確認することによって時雨の思考は鋭く、引き締まった。
「霜崎さん、おきてよ。学校に遅れるからさ」
「ん?あ〜寝ちゃってたのか」
今度は確実に肩を掴んで揺さぶることが出来た。これまであの空間関係には迷惑ばかりかけられたが今回ばかりは感謝をしている。あの影がいなかったら今頃自分は警察に連絡されているところだっただろう。
笑えないそんなことを考えながら時雨は制服を手に取る。
「じゃ、ちょっと着替えるから…………」
出てってもらいたいんだけど………といおうとしたのだが、それを制するように霜崎亜美がすばやく口を開く。
「ああ、気にしなくていいよ。風景の一つだと思っていいから」
「…………そ、そうなの?」
「そうだよ」
そういうならば…………時雨はパジャマを脱ぎ捨てる。なんだかとても霜崎亜美がこちらを見てきているようなのだが、最近の風景は眼力を持つようになったのだろうか?きっと、彼女は長年同じ場所に置かれて命を手に入れてしまった日本人形みたいな置物となっているのだろうとなんだかわかりにくいことを考えていた。
じーっという擬音が聞こえてきそうな感じがしたが、それは気のせいだった。
「あ」
「え?」
突然に霜崎亜美が言葉を発する。
「その切り傷…………治ってなかったんだ?」
「ん?どれ?」
あざやら何やらは体中いたるところにはついている。しかし、切り傷は一つもないはずなのだが…………
「どこ?」
「ここ」
右肩あたりに冷たくてすべすべした霜崎亜美の指が傷跡を撫でる。
「…………そこの傷って………ああ………」
納得できた。そこにある傷は幼少の頃、それこそ、時雨と霜崎亜美がはじめてあったとき…………霜崎亜美が時雨に負わせた怪我と言っていい。確かあの時は…………
「ごめんね」
「え?」
考え事の途中で意識が現実へと引き戻され、霜崎亜美の両手が時雨の胸の前まで回されていて背中にはやわらかいものが当てられている。
「な、何が?」
後ろを取られたことであの影のことが確実に時雨の頭の中を支配していくが…………影は時雨の足元でニヤニヤしているだけだった。どうやら、野次馬的存在のような奴のようだ。どうぞ、先を続けろとばかりにこちらに視線を向けている。
「………あの、霜崎さん………気にしなくていいからさ」
影のことが気になりながらもこのいろんな意味で危機的状況挟み撃ちを回避する方法を模索してみる。やはり、ここは離れるように説得するのが一番だろう。
「それに、もうそろそろ学校だから…………」
やんわりとした口調で時雨は口を開いたのだが、
「私は学校より時雨君のほうが大事なの!!!」
そう言って彼女は時雨を振り回すようにしてベッドへと倒す。あっという間に時雨はベッドに倒れこんでしまった。
「ちょ、ちょっと何を…………」
ベッドに押し倒されて時雨は困惑。さらに、霜崎亜美は制服を脱ぎ始めようとしている。それを時雨はぎょっとしたまま眺めていた結果、霜崎亜美のワイシャツのボタンを途中まで開けて後は時雨の上へと乗り、時雨を見下ろす…………
瞳は潤み、頬は蒸気をしている。その瞳に見られることで心はうずき、抱きしめたいという感情が時雨の中で強くなっていく…………だが、疑りぶかい性格である時雨はからかわれているのかもしれないという感情が生まれたのであった。
「…………ちょっと、どいてくれない?」
「………なんで?」
目の前の女の子が嘘をつくということを知らないということは知っている。からかうこともないというのも知っている。しかし、それは自分の視点からだけだ。もしかしたら影では嘘をつき、他人をあざ笑っているのかもしれない。
「僕は………僕はからかわれるのは嫌いだ」
少し、侮蔑のこもった声があっという間に霜崎亜美の心を捉え、放さなくなった。
「そんな………私はからかってるわけじゃ…………」
心のほぼ十割を占める存在にそんなことを言われ、彼女の心に不安と恐れ、表情はこわばって涙が頬を伝う。
「い、いや………そんな、泣かないでも………」
涙を見た瞬間に時雨の心は透き通った。彼女は素直で一直線の好意を自分に向けているだけなのだと。
「ちょっと、どいてくれないかな?」
有無を言わさず時雨は霜崎亜美の肩を掴んで起き上がり、ベッドに二人して腰掛け
、涙を流す彼女を抱きしめるような形で時雨は心をそのまま霜崎亜美に見せる………
「ごめんね、君の事を信じられなくなったんだ」
視線を霜崎亜美の影に向ける…………そこに、あの野次馬みたいな顔をした影の姿はなかった。今わかった、あの影は中の良い二人を引き裂くためだけにここにいただけなのだと。
影がいなくなった今、二人きりだ。
「し、時雨君は………」
泣いていた霜崎亜美は涙をこらえながら抱きしめてくれている時雨にたずねる。
「……………私のこと、嫌い?」
「ん〜………幼馴染としては好きだよ」
「どういう意味?」
「…………君のことなんて僕はさっぱりわからない…………だからさ、こんなことをしてくるなんてさっぱり思っていなかった」
静かに目をつぶる。小さい頃の霜崎亜美は自分を引っ張って行ってくれているような頼もしい人物だったが………今抱きしめている彼女は今にも折れそうな人物だ。その気になれば、彼女の心は二度と立ち上がれなくなってしまう可能性だってある。
その権利を霜崎亜美から勝手にもらってしまっているのだ、自分は。
「…………だ、だって………私からどんどん………ううん、既に遠いところにいる存在だから、近づきたかった」
「そうかい?今、こうしてすぐとなりに………いや、引っ付いているのにね。遠くじゃないさ、こんなに近くにいるよ。僕らは……………」
抱きしめる力を強くする。細身の体が同じように力をこめてくる。
霜崎亜美は時雨の顔を見ることなくたずねる。その言葉には重く、切ない気持ちが混ざっていた。
「…………これから、どんなことがあっても隣に、近くにいていい?」
「構わないよ」
「私だけを見てほしいの」
授業中はどうするべきだろうか?と時雨は思ったが…………
「可能な限り見ておくよ」
「…………」
「い、いや、ちゃんと凝視しておくよ。穴が開くまでね」
「よかった…………じゃあさ、キス………しよう?」
霜崎亜美は離れようとするが、時雨がそれを許さなかった。
「…………ごめん、先にさ………」
彼女は既に霜崎亜美を見ていなかった。彼の視線の先にはそろそろ学校がはじまってしまうと指差している時計だった。
「………登校しない?僕、今のところ皆勤賞なんだよね」
こうして、二人はあわてて鞄を掴むとその部屋を出て行ってしまったのだった。
もし、もしもだが…………霜崎亜美が時雨にからかわれているとわかってその場から走り去っていたらどうなっていただろうか?もし、時雨から彼女を抱きしめ、学校なんか関係ないという方向に持っていってしまっていたらこの話は変わっていたに違いない。
物語は、まだあるのだ。これは、ただ、霜崎亜美と時雨の物語だったというだけだ。




