凧
山道は進んで行くほどにその勾配を増していき、車はエンジン音のピッチを高くする。何度も現れる急なカーブに差し掛かるたびに目前の視界は大きく開き、私は左右に振られる体を踏ん張りながら助手席の窓の向こうに広がる雄大な景色を眺める。山と山との間から、こじんまりとした町並みと数時間前に私が降り立った駅が小さく見え、ここまでの行程を実感させる。
「こんな山の中なのにずいぶんときれいな道なんですね」
ハンドルを握る滝沢さんを見ると、彼は前方を見据えたまま口元を軽く緩めた。
「そうだよな。2年前に整備されて全線舗装されたらしいね。俺はその前はどうだったか知らないけれど、地元の人たちはだいぶ楽になったって喜んでいるみたいだよ」
冬だが常緑樹で色濃く茂る緑の手前を、まだその白さを保っているガードレールが背景とのコントラストも鮮やかに後ろへと流れていき、この道の歴史の浅さを裏付けていた。
私がこの地を訪れたのは衝動的な思い付きからであった。
滝沢さんは大学の先輩だった。彼は卒業後に都内の会社に勤めていたが、去年の春に都合により故郷に帰ったと、私は人づてに聞いていた。この正月に彼からの年賀状が届き、それを手にした私は学生時代の懐かしい気持ちと当時の甘酸っぱく、そして少しほろ苦い思いがこみ上げてきて、会いたいという気持ちに抗うことが出来ず、そこに記してあった番号に連絡を入れたのだった。電話に出た彼は、初めは少し驚いていたようだったが、申し出を快く受け入れ私を招待してくれた。
駅で待っていた滝沢さんの姿は私の記憶よりも少しほっそりとしていて精悍な印象さえ纏っていたが、その笑顔は昔のままで、私は心の隅に抱えていた不安を解き放ち、一気に学生時代のあの頃へと戻ったような気持ちになった。
「久しぶりだなあ。元気だったか?」
「突然押しかけちゃってすみません。どうしても顔を見たくなっちゃって」
「俺も会えて嬉しいよ。遥々よく来てくれたね」
私たちは駅前の蕎麦屋で昼食を取りながら、お互いそれぞれの近況を伝えた。食べ終えてそろそろ出ようかというときだった。
「ここらじゃちょっと有名な滝があるんだけど行ってみるかい? 少し遠いけど行ってみて損はないと思うよ」
「滝ですか。見てみたいけど、ご迷惑じゃないですか?」
「なに水臭い事をいってるんだよ。それじゃ行こう」
そうして私たちは滝を目指し山道を車に揺られていた。
道は平坦となり眼下に望む山裾は遠く深くなって峠に近づいたことが分かる。滝沢さんはウインカーを出すと車を道脇に設けられた広いスペースに入れた。一画に白線で駐車エリアが区切られていて、そこに停めると車を降りて大きく伸びをした。私も降りると軽く背中を反らし硬くなった筋を伸ばしながら車の屋根越しに尋ねる。
「ここですか?」
「いや、もう少し先なんだけど、ここもいい眺めだから休憩がてら寄ってみたんだ」
ここは展望台として作られたようで、崖っぷちには手すりが設置されていて、いくつかのベンチも置かれそのどれもが真新しかった。私たちの他には人の姿も車も無く、寒々しい感じがする。滝沢さんは中央の手すりへと向かい、私はその後をついていく。
そこからの景色は素晴らしく、私は息を呑んで眺めた。いくつもの山々が連なり、時折山肌を渡っていく寒風がベルベットの表面を逆撫でるように木々の梢を波立て、ざわざわとした音が山に反響して世界を包んでいた。そのとき私は、ちょうど目線の高さに浮かぶ白い物体に気がついた。初めは鳥かと思ったが、目を凝らして見つめるうちにそれが凧であると分かった。最近の主流であるビニール製の三角形のものではなく、紙と竹ひごで作られた長方形で下部に二本のひらひらとした尻尾をもつ昔ならではの凧だ。凧は真っ白な無地で、青空を背景に、ピン止めされているかのようにぴたりと動かずに空中の一点に留まっていた。さすがにその糸を確認することは出来なかったが、凧の向きから想像して辿っていくとその先は山の中腹の木立の中に繋がっていて、目を凝らしてみると茂った枝々の陰に建物の屋根らしきものが見えた。
「あんな山奥にも家があるんですね」
滝沢さんは私が指し示した先を、手を額にかざしながら眺めた。
「ああ、あれか。あそこは古い集落なんだけど、よく分かったなあ。ずいぶん目が良いんだね」
「集落ですか……へえ」
「あそこには古い言い伝えがあってね。この辺の人ならだれもが知っている話なんだけど」
滝沢さんは手すりに背中をもたれかけ、この地に伝わる物語を教えてくれた。
その山奥の小さな集落は、炭焼きをしたり獣を獲ったりしてひっそりと暮らしていた。たまに代表の者が下りてきては商いをする以外には里との交流もなく、生活も不便であったのだろうが、それでも村人は平穏な暮らしを幸せに過していた。
それは江戸時代が終わろうとしていた頃の出来事だった。村にはたけぞうとミネというふたりの若者がいた。ふたりは幼い頃から姉弟のように育ち、いつも一緒にいた。お互いに好き合っていて、いずれは夫婦になるのが当たり前のようにさえ思い、それは村の誰をもが同じ考えであった。
ある日のことだ、村で一番の年寄りが高熱を出して倒れた。流行り病であった。狭い集落では感染が広がるのはあっという間のことである。体力のない年寄りや幼子からばたばたと倒れていき、村は恐怖に襲われた。そこで、もうひとつの問題が持ち上がる。ミネがたけぞうの子を宿していることが判明したのだ。たけぞうとミネとその両親たちは相談をし、急遽形だけの祝言を上げ、ミネを里に住む遠い親類の下に預けることに決めた。たけぞうも共に付いて行きたいところではあったが、病人の世話をしたり暮らしを維持するための働き手は必要であり村に残る以外の選択肢はなかった。
里に下りたミネは大事な体だというのに食もろくに取らず、床に伏せるばかりでみるみるとやつれていった。故郷の村とそこの人々と、そしてなによりたけぞうの身を案じてのことだと、ミネを預かった親類の年老いた夫婦は分かってはいたものの打つ手は思い浮かばず、悩んだ末に山奥の村に文を送ることにした。流行り病の噂はすでに里にも伝わっていたので便りが無事届くかと案じていたが、すぐに返信が届き、それは獣の皮に炭で『峠まで』とだけ書いてあった。その便りに懐かしい香りを感じたのだろう、ミネはにわかに元気になり峠に行きたいと老夫婦に願った。老夫婦は気乗りはしなかったものの、懸命に頼むミネの様子からこれは止められないと悟り、里の若者数名に付き添いを頼みミネを峠に送り出した。
身重の体ながらミネはしっかりとした足取りで険しい山道を登っていき、ついに峠にたどり着いた。崖っぷちに立つと懐かしい山の風が頬を撫で木の香りが鼻の奥をくすぐった。遠く山の中には故郷の村が微かに見える。耐え切れぬほどの望郷の念に襲われてこのまま飛んで帰りたいと思っていると、村の辺りから小さな白い物がするすると上がりミネの立つ峠と同じくらいの高さまでくるとぴたりと止まった。風に煽られてゆらゆらと浮かぶそれは凧であった。それを目にしたミネは、たけぞうの仕業であることをすぐ理解し、そこに込められた『俺は大丈夫だから安心しろ』という意味を読み取った。たけぞうが拵えた凧をふたりで揚げた幼い頃の記憶がまざまざと蘇り、涙が溢れてきて、その場にしゃがみ込むと両手で顔を覆いわあわあと泣き出してしまった。
その後もミネはひとりで峠に登り続け、それは腹が大きくなり歩くのが困難になるまで続けられた。いつもミネが峠に着くのを待っていたかのように凧は揚がったという。
そうしてミネは無事に元気な男の子を出産した。だが産後の肥立ちも十分ではないというのに再び峠に登り始めたのだ。老夫婦は赤ん坊のこともあるのでさすがに止めさせるつもりではいたのだが、帰ってくると今日も凧が揚がっていたと嬉しそうに話すミネを前にすると言い出せずに言葉を飲み込んでしまっていた。
この話はミネの死で終わりを迎える。その死は、元々体が弱かったところに無理をした為とも、山道で獣に襲われてしまった為とも、あるいは、ある日峠でいつものように揚がってくる凧を待っていたのだが待てども待てども揚がってくることはなく、失意のあまりにそのまま崖から身を投げてしまったとも伝えられていて真相ははっきりとしない。
「悲しい話ですね」
私は、この地に立って崖の向こうに小さく見える故郷を見つめているミネの姿を想像した。
「でも、子どもはその後どうなったんですか?」
「それも伝わっていないらしいんだよな。集落もその一件以来、人の行き来も全く無くなってしまい滅んでしまったというし」
「それじゃ、今はもう誰も住んでいないんですか?」
「住んでいるどころか、だいぶ前に道も閉ざされてしまって車どころか人さえもたどり着けなくなっているんじゃないか」
「え? でも……」
私は凧が浮いていた辺りを見たが、そこにはもう何もなく、ただ青い空が広がっているばかりだった。
「あれ?……さっき確かに凧が揚がってたのに……」
滝沢さんは振り返り私の視線の先を見る。
「たぶん鳥を見たんじゃないかな。俺もよく見かけたし」
「そうかなあ……」
そのとき崖から風が吹き上げて、私はぶるっと身を震わせた。
「風に晒されるとさすがに冷え込むな。そろそろ先を急ごうか」
「そうですね。それにしても、悲しい物語があったとはいえ美しい場所ですね。案内してもらえて良かったです」
「喜んでもらえて俺も嬉しいよ。これから行く所も素晴らしいから楽しみにな」
ふたりは車に乗ると、また新しい山道へと戻った。ふと背後から誰かに見つめられているような気がして、シートの上で体を捻りガラス越しに後ろを見てみたが、そこにはやはり誰も居らず、ただ崖の上の展望台で風が枯葉を巻き上げているのがどんどんと遠ざかり小さくなっていき、ついには見えなくなってしまった。




