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まぼろしの産業カウンセラー

作者: 古井和菓子

「今日はご来店ありがとうございます」

 内装の新しい美容室。

 客はわたししかいない。できたばかりの店がこれでだいじょうぶなのだろうか。

 この美容室は、上司のおすすめの店らしい。髪でも切ってさっぱりしてこい、と言ってポケットマネーを出してくれた。

「できたばかりのお店なんですか」

「いえ、このビルにずっとありましたよ」

 わたしがこの会社に勤め始めてから三年。おなじビルのテナントにあるレストランやビアガーデン、カフェ、ドラッグストア、写真屋、デンタルクリニック、整体、足湯には、ビル全体のメンバーズカードを使って何度か通ったが、美容室は見かけなかった。

 もちろんパンフレットをチェックしながらすべてを回ったわけではないので、見知らぬ店があっても驚いたりはしない。ピンポイントで知らない店をすすめてくる上司を、むしろわたしは見直したぐらいだった。

「それにしても、失礼ですが、お客さんいませんね」

「たしかにそうですね。まあ、オフィスビルのテナントなので、こんなものですよ」

 美容師は、わたしから受け取った荷物をしまい、振り返りながら答えた。

「それより、とてもお疲れのご様子ですね」

 ふつうの接客マニュアルに近い言いかたで、だけど美容師のことばはわたしのなにかを見抜いたかように鋭く響いた。

「ええ、まあ。仕事自体は好きなんですけれど、人間関係もある仕事なので……四年目で責任も出てきて、ちょっと疲れ気味かもしれません」

「それはそれは、いつもご活躍なさっているんですね」

 鏡の前に連れていかれることなく、そのままシャンプーチェアに案内された。

 顔にガーゼかティッシュのような布をかけてくれた。

かゆいところはございませんか」

 わたしにむかって痒いところがあるかどうかを現在進行形で尋ねてくれる場所、それが美容室というものである。聞かれ慣れていないことを咄嗟に――自信満々で――答えるのはむずかしい。わたしは小声にならざるをえない。

「たぶん、だいじょうぶです」

 聞き慣れているひとと、聞かれ慣れていないひと。

 美容師は、そのように力関係を強いてくる。じぶんたちのホームに持ち込もうとして、わたしたちをアウェイに追いやる。

「流し足りないところございませんか」

 うまく聞き取れない。たとえば聞き取れたとしても、すんなりと理解するには経験が足りない。ここまでのシャンプーは、もともと料金内で、わたしは〈プロフェッショナル〉を自称するひとに任せていたのに、どうしていきなりガーゼかティッシュのような布切れで盲目状態に陥れられているわたしに過不足がわかると判断したのだろうか。

「だいじょうぶです」

 仕事で疲れきっているわたしは、事の運びを滞らせないよう特に不満は口にしないよう我慢した。

 あなたがプロフェッショナルでしょう、という気持ちを込めて小声で答える。顔にかかっているガーゼかティッシュのような無頼な目隠しは、わたしの羞恥心さえも煽ってくる。

「お客様、このあたり一帯、どう見ても流しきれてませんが、ほんとうに流し足りないところはないんですよね」

 そうか、すまない。わたしは、わたしの流し足りないところさえわからない人間なんだ。真面目な顔してクズなのだ。

 こうやってわたしと美容師の力関係は一気に過保護な母子レベルまで達してゆく。

 というかこのひと、洗うの下手じゃない……?

 ――疲れた。

 どうせわたしは任せるのだから、いちいちわたしの言質げんちを取って、仕事している風にしないでもらいたい。美容師の過剰な確認は、もはや業務上の私語である。業務という虎の威を借りたおしゃべりである。

 わたしは髪の洗浄に関するすべてを委ねた。美容師はようやくシャワーで流し終わり、最後のキュッという音が鳴ったあとも、なにかいろいろと準備をしている。

 ガーゼかティッシュのような紙切れはまだ外してもらえないようだった。

「お客様、むず痒いところはございませんか」

 ガーゼです、とは言えない。言ったらどうなってしまうのか、予想できないところが怖かった。常識人なら『ごめんなさいねえ、おほほ』となるが、もし美容業界というものがべつの理屈で動いているとしたら『はあ? こっちは善意でガーゼかティッシュのようなペーパーをかけてやってんだろう』と思われるかもしれない。あるいは邪悪な歯科医のような、こちらが痛くて左手を挙げたにもかかわらず、『はいだいじょうぶですからねえ』と既読スルーし始めるかもしれない。

 もしもこの力関係から抜け出すことさえできれば、わたしの顔面に乗せてあるこれを早くどけろ、と要求することもできたかもしれないが、現実は甘くない。私は、こうして今日も現実というものを現実的に学んでゆくのだ。

 そもそも待てよ、痒いとむず痒いはなにがちがうのだろう。すくなくとも彼女にとってその区分に意味があるからこそ尋ねてくるわけで、まるで知識や教養を押し付けられているような気がしなくもない。低学歴家系のわたしにとっては、痒いもむず痒いもまるっきりおなじで、むしろなにがちがうのかわからないことがむず痒い。

「特にありません」

「ありがとうございます。では、大理石の上と、芝生の上、どちらを裸足で走りたいですか」

 質問というのは旧情報を文脈のなかで新情報として扱うものだが、ここでは新旧もなにもあったものではない。フルオーケストラが揃ったと思ったら、みんなラッパーだったみたいなひどい欠損感がある。

 ただそれでも順応なのか被支配なのかわからないが、ついつい想像してしまうじぶんがいた。

 大理石を裸足で走れる、その想像だけで人間はこんなにしあわせになれるのかとわたしは気づいた。わたしはじぶんの身体が気持ちよくなれることを、あまりしてやれていない。

 草原もまた良質な走り心地だろう。その想像はたやすい。すでに足がうずうずしており、なぜ美容室の簡易的なソファーに寝そべって、ガーゼかティッシュのような得体のしれないもので目を覆われているのかわからなくなる。

 大理石か草原か、身動きの取れないむず痒い人間にとって、それは地獄のような質問でもあった。

「大理石です」

「あ、私も大理石がいいかなって思ってました」

 どうでもいいから早く大理石を走れるよう、わたしの顔にかかっている白い物体をどけてほしい。

「それでは、いまあなたはイケメンで高身長の年上男子と、甘いフェイスでなつっこくいい香りのする年下男子に同時に愛を告げられました。どちらを選びますか」

 わたしのニーズを置いてけぼりにして、究極の二択クイズが始まった。

 しっかりと目をつむり想像する。いまばかりはガーゼがアイマスク代わりになってくれていた。

 イケメンで高身長は絶対に正義。ちょっと自信家で、グイグイ言い寄ってくるけれど、たまにちょっと冷たい。そこにわたしはやきもきするんだけれど、イケメン君は肝心なところで鈍感。参ったなあ、わたし。それでも心は通じ合っていて、最後は向こうから、わたしは壁を背にして、見下されるように、吐息のかかる近さで。

 でも年下も捨てがたい。甘いフェイスでなつっこくていい香りがするって、なにそれずるい。たぶんわたしの大人っぽいところに尊敬しちゃって、いつもつきまとってくる。わたしはそれがすこしだるくなってきてちょっと冷たい態度をとると、しょんぼりする年下君がどんな小動物よりもかわいく見えて、わたしが折れてリードしてあげるとまた嬉しそうにするはず。たまに放ってくる冗談はどれもわたしへの敬意を含んでいて、でもたまにまじめな顔でわたしのことを気にしてくれる。

 そんなふたりがわたしに愛の告白――もっといい女なんてたくさんいるよ、って言っても譲ろうとしない。そんな状況があまりにしあわせすぎて、つい鼻から勢いよく息を出してしまった。ガーゼが二センチほどずれ、美容師さんが丁寧にかけ直してくれる。

「ありがとうございます」

 むしろ早くどかしてもらいたいのに、わたしは反射的に感謝した。これではわたしがガーゼ•オン•マイ•フェイスを望んでいるように思われてしまうだろう。

「イケメンでお願いします」

 注文したからといってなにがあるというわけではないが、わたしのなかで、美容師さんの質問に答えることは注文することとイコールになっている。

「満漢全席とフレンチフルコースだったらどっちですか」

「満漢全席でお願いしたいです」

 わたしは今日初めて自信をもって答えることができた。すこし下品になってもたらふく食べたい。食べた感がないとわたしはしあわせになれない。

 でもイケメン君は、たらふく食べるわたしを嫌いになるかも……?

 まあそれだとしたらそこまでの関係、それまでの男。わたしには年下君もいるからだいじょうぶ。年下君なら一緒に満漢全席しても楽しめそう。

 わたしはあまりの余裕に、今度は口から余計な風を出してしまい、ガーゼが小さく宙で波打った。また直されるかと思ったが、ガーゼは元の位置に戻り、美容師による位置修正をまぬがれた。

「じゃあ、大好きな彼とプラトニックな同居生活と、できるビジネスマン既婚者とのディープな大人の恋愛」

「それは揺れますねえ」

 美容師さんは、わたしの揺れるポイントを熟知しているのではないかというほど良いところを突いてくる。

 人目を忍んで会ったり、彼がベッドのなかで洩らした家庭の愚痴の生々しさにわたしは打ちひしがれたり、それでも強がったり、奥さんよりもじぶんのほうが支えているんだと自尊心を山火事のように燃やしたり、そういったディープな恋愛もいいけれど、だけどわたしは大好きなひとと鏡の前で狭苦しく並んで歯磨きをしたい。

「でも、純愛のほうで。わたしは彼と歯磨きをしたいんです」

 わたしはそのあとも質問に答え続けた。

 温泉かバンガローなら温泉。

 旅館かホテルなら旅館。

 手つなぎかキスのどちらかだけなら、やっぱりキスがしたい。

「これすごくたのしいですね。中学生のときに戻ったみたいで」

「たのしいですよね。なんで中学生のときにやるんだとおもいますか」

 美容師は、わたしにやさしく問いかける。おそらく笑顔で。

 わたしはチェアに寝たまま、わからないと答えた。

「十代前半、ふつうなら身体は順調に育ってゆきます。それはある意味、老いでもありますね。老後だけが老いではなく、人間は何度も老い続ける生き物なんです。その最初の、はっきりとした、衝撃的な老いに、こころが間に合わない。老いて自立心が芽生えても、学校に縛られ、家庭に縛られ、世間に縛られ、友だちに縛られ、じぶんの気持ちに縛られ、なにもかもがうまくいかなく感じます。老いてゆくのに、それに見合わない状況が定常的に続くんです」

 美容師は、だれに語りかけるでもなく、宙に向かって、まるでセリフの練習でもしているかのように、ことばを置き去りにしてゆく。

「たしかに……それは、つらいですよね」

「思春期の自殺は、不安定なじぶんとの決別でもあるんです。老いに間に合わないこころを断ち切ると言ってもいい。死なないためには、不安定でも生きていくためには、なにかを享受して楽しむことが大事なんですね。どうせ卒業したら会わなくなる校友と運動したからってなにが楽しいのかわからないし、卒業して輩出したあとはどうせ知らん顔する教師に褒められたからってなにが楽しいのかわからないでしょう。それでもそれを楽しむことができる。教室のチープなネタで馬鹿し合っているだけで、心理テストしてるだけで、究極の二択クイズをしているだけで、なんとか生きていける気がしてくる。そのうち老いのバランスも整ってくるものなんです」

 思春期の、あの独特に危うい雰囲気というのは、アンバランスな心内環境にあったという。死にたくなったら、老いに間に合うこころを待つしかない。

「私が言いたいのは、あなたもいまおなじような状況だということです」

「え、わたし、ですか」

「ええ、そうです。二十代前半は、ようやく経済的に自立して、じぶんを縛っていたものからすくなからず解放されます。でもこれは二十代のときに願った自立ではなく、すでに十代のときに形成していたものです。十年も経ってようやく追いつく」

 むずかしい話を聞きながら、わたしは必死に十代になったばかりのじぶんを思い出していた。曽祖母の死を受けて、ひどく混乱して、内心でひどく騒いで、騒ぎ立てたあとに、なにも得ることのなかった、あの空っぽだった時代を。

「二十代前半、我慢を覚えます。手元になにもなくても、忙しくすれば虚無感をごまかせる。そういう意味では、忙しくする方法と、その大義名分をじぶんで仕入れることができるようになるということです」

「大義名分、というのは……?」

「生きるためにはお金が必要だから働かなくてはいけない、とか、私がいなくなったらこの部署は回らない、とか、私は夢を追いかけているからさぼっちゃいけない、とか、そうやってもっともらしい理由をいくつも並べて過剰に働くことです。ほかにもダメな男を捕まえて、わざわざ世話して、忙しそうにするひととかですかね」

他人事ひとごとには聞こえないです」

「経済的自立、自己管理、人間関係、仕事に恋愛、どれも中途半端になっているのは、そもそもあたりまえのことで、悪いことじゃない。不安定な時期で、もがきながら、やりすごしながら、その不安定さを自覚して、ひとの話を聞いて、期待を知って、目指しているものを見据えて、理想を参照して、もうひとりのじぶんの審問を経て。あなたの感じたところに着地すればいいんです」

 美容師のことばは、まるで注射のように、わたしの内部に入り込んできた。ちくっとするけれど、わたしが欠いてきたことを与えられた気がした。

 わたしはなにかことばを返そうとしたけれど、麻酔のように、全身から力が抜けて、意識が遠のいていった。

 どこか深い深い溝に落ちてしまったようだ。

 暗く長い時間。

 わたしは感覚麻痺のうちに孤立していた。

 突然鳴り響く電話。

 オフィスで聞き慣れたコール音。

 目を覚ます。

 目が覚める。

 電話はすぐに切れた。

「起きたか、おはよう」

 おはようございます、と遅れて挨拶をする。

 わたしは美容室に行く夢を見ていた……?

「言っておくが、いまのは夢じゃない。俺もそうだった」

 わたしの声にならない声を聞いてくれたかのように、先取りして答えた。

「十年前、俺もリーダーになって、人間関係と過労で死にそうだった。そんなとき、あの美容室が見えて、たまたま入った」

 やさしく、静かな語り口で上司はことばを継いだ。

「そうだったんですね」

「そのあとは一度も見かけていないが、お前には見えたみたいだな」

 わたしはちいさくうなずいた。

「先輩は――」

「なんだ?」

「先輩は、出世と臨時収入ならどっちがいいですか」

 わたしのくだらない質問に、上司はひどく笑い込み、ふざけたこと聞きやがる、と笑顔のまま言い放った。

「どっちもいらねえよ、そんなもの。俺は部下が安心して楽しく働いてくれれば、この仕事を続けていてよかったと思える。出世よりも、ボーナスよりも、会社の利益よりも。それが俺のしあわせだ」

 言わせんな、恥ずかしい、と付け足した。

 会社の利益は追求してくださいよ、とべつの部下に叱られた上司の顔は、今日もきらきらと輝いていた。

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