第五話 るり子の肩もみ
「んっ、あっ、そう、そこです、ツグルお兄さん」
「ああ、えーっと、このぐらい、かな?」
俺はその小さなしこりを徐々に圧迫するように指先に力を込める。
「あっ……っ! くっ、いっ、痛っ、痛い、です、も、ちょっとやさしく……」
るり子ちゃんの抗議の声に、慌てて力を抜く。
「あっ、ごめん、痛かった?」
「もう、すっごく痛かったです。デリケートなところなんですから、もっと優しく揉んでください」
「うん、気をつけるよ」
再び、るり子ちゃんの肌に手を伸ばす。すべすべの少女のきめ細やかな肌は、まるで良くできた陶磁のように美しい。
指先で細いしこりを掴み、今度は慎重に、慎重に力を込めていき……。
「きゃぅっ! もう! わざとやってませんか? ツグルお兄さん! るり子がいつもいじめるから、いじわるしてるんでしょう?」
ちなみに、誤解がないように言っておくけど、肩もみである。
未だ女性らしい丸みを帯びていない肩は見るからに華奢で、少し力を入れただけでも壊れてしまいそうだった。
俺としては細心の注意を払ってやってるつもりなんだけど、なかなか力加減が難しい。
「っていうかさ、どうでもいいんだけど、なんで俺、肩もみやらされてるの?」
るり子ちゃんの白いつむじを見ていると、ついつい、虚無感に襲われる。
十一歳の女の子に肩もみさせられてるって、どんだけ弱いんだ、俺……。
「あっは、るり子がなんで、こんなに疲れてるか、お話しませんでしたっけ?」
るり子ちゃんは、俺を見上げて、妖しげな笑みを浮かべた。
う……、この顔は、怒ってる?
「えっと、あれでしょ? この前のエルフのお祭りを学校でやるって話……」
「それもあります。けど、その二週間後に魔族で、次の月にドワーフのところでそれぞれ大きなお祭りがあるって、どういうことなんでしょうね……。あっは、るり子、お兄さんのフォローで寝る暇もなかったんですよ?」
「誤算だったよなぁ……」
まさか、エルフのお祭りに族長さん自らがやってくるなんて。
しかも、その後、エルフだけお祭りをするのはズルい、という意見がドワーフ、魔族双方から出たおかげで、一月半の間に、学園祭もどきを三つもやることになってしまったのだ。
しかも、各お祭りにその種族の代表者が訪れる、なんていう頭の悪い展開になってしまったりもして。
ちょっと考えてもらえばわかるんだが、エルフ族の族長というのは一つの世界の最高権力者ということである。
それは地球で言えば、大国の大統領や国連のトップが訪れるというのとほぼ同じ意味である。
「あんな老人たちと一緒にしないでくださいね。実際にはもっと繊細な対応が……、あんっ! ツグルお兄さん、やっぱり、わざとやってませんか?」
薄っすら涙の浮いた目で俺を見上げてくるるり子ちゃん。その拍子に、襟首から細く繊細な鎖骨がちらりと覗く。
「いやいや、まさか……」
などと言いつつ、俺は自らの内に湧き上がる不思議な感覚に戸惑っていた。
なんか、涙目のるり子ちゃんを見るのが微妙に楽しい……、というか、むしろ気持ちいい? あれ? これ、もしかして、俺は危険なナニカに目覚めかけている?
……まっ、まぁ、さ、普段、いいようにからかわれてるんだし、小さいころいじめられてたから、こういうところで、ちょっとでも復讐しないといけないって思うんだ。うん、他意はないよ?
「そうですか、ツグルお兄さんは、十二歳の女の子に痛い思いさせて、泣かせるのが趣味のあぶない方だったんで……、きゃうっ! あぅんっ!」
ふっふっふ、このポジション、るり子ちゃんの口を封じるにはなかなかいいかもしれない。
脅されそうになったら、ちょっと力を入れてやればいいわけだ。
ああ、いい……。まさか、こうして主導権をとるのがこんなにも気持ちがいいものだなんて夢にも思わなかっ……。
「あっは……」
瞬間、確かに俺は感じた。
背筋に冷たい氷を入れられたような……。否、違う、そんなものではない、むしろこれは、背中の神経に氷の杭を打ち込まれたような強烈な寒気。
「ねーぇ、ツグルおにーいさん、るり子、ぜひ聞いてみたいことがあるんですけど……」
「なっ、なな、なんだい? るり子ちゃん」
その声は甘くとろけるようでいて、聞いているものを心底から震え上がらせる何かがあった。
いうなれば、そう、濃密な殺気のような物が……。
「トラの尾っぽを踏むのって、楽しいですよね?」
「へ?」
「あんなにおっきくって、強くって、こわーい生き物に、足に軽く体重をかけるだけで、痛みを与えることができるのですから。楽しくないはずがないですよ。それってすごい優越感……ですよね」
幼げな唇にアンバランスな艶やかな笑みを浮かべて……、るり子ちゃんは俺の方を見上げた。
上目遣いの瞳は、まるで夜を映しこんだように美しく、そして底なしに暗い。
次の瞬間、表情を消して、るり子ちゃんは言った。
「でも、トラの尾を踏んでた人って、その後どうなるか、わかります?」
「ひぃっ!」
思わず、るり子ちゃんの肩から手を放し、後ろに後じさる。
「あっは、嫌だなぁ。どうしたんですか? ツ・グ・ル、お兄さん。るり子の痛がるところ、もっと見てたかったんでしょ?」
静かに、襟元の乱れを直すと、るり子ちゃんはすぅうっと立ちあがった。
「ところで、お兄さん、るり子って虎だと思いますか?」
ぶんぶんぶん! 俺は無言で首を振る。
るり子ちゃんが虎? 冗談じゃない!
どちらかって言うと、ドラゴンとか、リヴァイアサンとか、その辺の類だ。
断じて、猫科にカテゴライズされるような、生易しい存在じゃあないっ!
「ねぇ、お兄さん、るり子、とっても痛かったんですよ? 痛いって言いましたよね?」
「あっ、ごめん、聞こえてなか……」
「あっは、聞こえなかったなんて言ったら、本当に聞こえなくしちゃいますけど?」
「ひぃいっ!」
俺は後悔した。
一瞬でも、るり子ちゃんを屈服させられるかも、なんて考えたのが馬鹿だったんだ。
絶対強者たる彼女に俺なんかが立ち向かえるはずがなかったんだ。
「あっは……、じゃあ、もう一回聞きますね? お兄さんは、るり子のこと痛がらせて、ちょっと喜んでたんですよね?」
「はっ、はい、い、いや、ほんの出来心でですね?」
「るり子のこと、泣かせて、屈服させて、ちょっとだけ気持ちいいな~、なんて、思っちゃったんですよね?」
「あ、あはは、まぁ、その、ねぇ……」
「まぁ、出来心って言うんだったら、特別に許してあげてもいいんですよ?」
と、そこで、るり子ちゃんがまるで天使のような笑みを浮かべた。
「るっ、るり子ちゃん……」
「あっは、るり子、心が広いですから。お兄さんをいつまでもいじめるのって、あんまり楽しくないんですよ」
その言葉に、じんわり目頭が熱くなる。うう、さすがるり子ちゃんだ。
「あっ、ありがとう……、るり子ちゃん。ごめんね、いやさ、あんまりるり子ちゃんの涙目が可愛かったから、ついね……」
「……ってことなんだけど、聞いてくれた、陽菜子ちゃん」
「ちょっ、おおおおおおぉっぉおおおいっ!」
いつの間にやら、ケータイ電話を耳に当てていたるり子ちゃん。俺は慌てて彼女から電話機を奪い取り、
「ちっ、違うんだよ? 陽菜子、お兄ちゃんな……」
『お兄ちゃん………………、サイテー』
「うぉおおおおおおおおおいっ! そっ、そそ、そんなっ! 陽菜子、陽菜子っ!」
ぶつ、っと音を立てて切れてしまう通話。陽菜子、相当に怒ってるっ!
「あっは、ねぇ、ツグルお兄さん、もしお兄さんが心の底から誠意を見せるのであれば、るり子、陽菜子ちゃんとの仲を取り持って上げてもいいですよ?」
ちら、っと上目遣いに俺を見つめるるり子ちゃん。
「でも、やっぱり、通さなきゃならない筋ってあると思うんですよ……。わかりますよね?」
「はっ、はい……」
「やっぱり、あれだけ痛いことされたからにはるり子、言葉だけじゃ、ちょっと納得できないと思うんですけど、どうですか?」
「あー、えー、真に、その、その通りかと……」
「じゃあ、どうしましょうか? どうすればいいと思います? お兄さん」
るり子ちゃんは、イスに腰掛けて、足を組む。幼い太ももは肉付きが薄く、そのやや直線的なラインは、けれど、見惚れるほどに完璧なシルエットを描いていた。
そのすべすべの肌は繊細で、技術の粋をこらして磨き上げた宝石でさえ、匹敵できるとは思えなかった。
……いや、そうではなくって。
「えーっと……、土下座?」
「あっは、定番! でも、るり子、そう言うの、あんまり好きじゃないんですよ。相手の屈辱感をあおるだけで、不毛じゃないですか?」
そういえば、ああいうの、るり子ちゃんは嫌いなんだっけ。じゃあ、えーっと、どうすれば?
「……甘いものごちそうする、とか?」
「あっは、いい線いってますよ。でも、るり子を満足させるとなると、普通のスィーツじゃだめですよ? 選りすぐりを探してこないとね」
「……鋭意努力いたします」
「あっは、じゃあ、ツグルお兄さんの誠意が感じられたら、その席で陽菜子ちゃんとの間をとりなしてあげますね」
……ああ、すごいな、やっぱり。
そこで、俺はようやく気が付いた。
るり子ちゃんが提示した、俺の謝罪の方法。痛むのは俺の財布だけだ。
しかも、我が家は安全保障費だか何だかで、今のところ少しばかり甘い物を食べに行ったからと言ってなんということもない。
さらに、陽菜子も誘ったことで、謝罪の場が楽しいスィーツタイムに早変わりだ。
誰も損しない。お金を払う俺ですら、なんかいいかな、って気になってしまっている。
敵を作らず、相手に損をした気にさせず、自分はわずかばかりの利益を得る。
やっぱり、俺はこの子に勝てそうもない。
「ところで、ツグルお兄さん、少し小耳にはさんだんですけど、先日、エルフの代表者に故郷の良さを説いたようですね?」
「ああ、そうそう。そう言えばそんなこともあったなぁ」
あれからアスセナは、そこまでこちらの世界で暮らすことにこだわらなくなっていた。
まぁ、まだまだこっちの文化とかには興味津々な様子ではあるけど。
「やっぱりお兄さんはお人よしですね。そんな余計なことして……」
「でも、無意味な確執は解いておく方がいいだろう? 俺がちょっと行動するだけで、万事うまく行くなら、それにこしたことはないよ」
人がたくさんいれば、それだけいさかいは生まれる。中には避け得ない争いごとだってある。けど、誤解ってのは基本的に解決が容易なことのはずなんだ。丁寧に説明して誤解を解けばいいだけなんだから、そんなことのために、関係がぎくしゃくするってのはバカバカしい話だ。
俺がちょっとお節介するだけで上手く回るんだったら、そっちの方がいいに違いない。
「そういうところ、るり子嫌いじゃないですけど。でも、もう少しこの学校のことも考えてもらえると嬉しいですね」
「えっ? どういう意味だい?」
「例えば、これでホームシックになったエルフの代表者が大森林にひきこもってしまったらどうするんです?」
なるほど……、それは確かに好ましくない事態だろう。あの時、アスセナに大森林の空気の良さを説いたりしたけど、もしあのせいで、彼女が学園に来なくなってしまったら大変だ。
「あっ、でも、るり子ちゃん、何かその辺りも手を打ってるんでしょ?」
「もちろんです、るり子がなにもせずにいるとお思いですか? ちゃんと、最善の一手を打ってますよ」
だよなぁ。さすがはるり子ちゃ……。
「そう、お兄さんを生徒会長の座につけるという」
「……えっ? それだけ? いや、他には?」
「最善の人材を最善の地位につける。これ以上の手がございますか?」
「いやいやいや、そんな不確実なのじゃなくってさ!」
もっと絶対的な策があるんじゃないのか?
「実際のところ、現状はそれだけ微妙だということですよ。学院の立場も、各世界間の関係も。正直、るり子にもこの後、どんなことが起きるのか、ちょっとわからない部分もあるんです」
「そう、なのか?」
てっきり、るり子ちゃんのことだから、今後十年ぐらいの世界情勢を手の平の上で転がしてるんじゃないかと思ってたんだけど。
「人心掌握の時間もありませんでしたからね。異世界の首脳陣にしても、内心では今回の裁定に不満を抱いておられる方もいるでしょうし。だから、あまり突かれそうな材料は与えない方がいいんです」
「そっか。気をつけるよ」
「そうです。るり子にも学園にもきちんと気を使ってください」
るり子ちゃんはしたり顔で、そんなことを言うのだった。
面白い会話って難しいですよね。
確か、これを書いてた時は会話で盛り上げることを課題に執筆していたような記憶がありますね。
センスが必要だなぁと思いつつ、楽しんでもらえれば嬉しいのですが。