雨
「もうここへは来るな」
雨粒が激しく地面を叩く中、私は低い声で言い放つ。
それは、仕方のないことだろう。
『時』を分かってしまったから。
『別れ』が見えてきてしまったから。
『独り』になることが怖いから。
「蛍…?どうしたの、急に」
蒼太は見開いた目で、私を見つめる。
私は蒼太の視線から逃れるように俯き、笑った。
「お前も、もう大人だ。いつまでも遊んでいるわけにもいかないだろう?」
「大人って…僕はまだ十七だよ?」
「もう遊んでいていい歳じゃない」
私は拒絶の意を示すように、社の戸を閉めた。
「蛍…?」
外から、社に近づく足音が聞こえる。
「来るな!」
私は座り込み、膝を抱えた。
「…蛍。僕のことは心配しなくていいよ」
蒼太の声色から、私を心配してくれていることが伝わってくる。
不安げなこの声も、優しい性格も、器用な指先も、名前や存在すらも…
全てが、愛しかった。
でも、その気持ちが大きい分、離れるべきだ。
早く離れないと、この気持ちがどんどん膨れ上がってしまう。
恐い…、私は恐いんだ。
蒼太を失うことが、ただ恐い。
だから今、これ以上傷が深くならない内に、離れなければいけない。
「もう…もう二度と、ここに来るな」
「蛍…」
「やめろ!私の名を呼ぶな!」
離れられなくなったら終わりだ。
今、この戸を開けてしまったら、きっと近い未来で私は深く傷つくことになる。
「誤算だった…」
こんなに、大切になってしまうなんて。
「誤算?」
聞き返す声に、まだ居たのか、と私はハッと息を呑んだ。
心を落ち着けて、嘘を吐く。
「…そうだ。お前は退屈しのぎになると思ったが…まったく面白くなかった!」
雨音に消されないように、大きな声で。
「全然楽しくなかったし、面白くなかった!一人で…」
血が出るほど強く腕を抱きしめる指。震える声。歪む視界。
痛い。でも…駄目だ、ここで突き放さないと。
言いたくない嘘を、無理やり喉から押し出して叫んだ。
「独りで居たほうが、マシだ!」
その言葉を最後に、雨の音以外、何も聞こえなくなった。
空気が重く、静まり返っている。
「…本当に、そう思ってる?」
沈黙を破った蒼太の声は普段より低く、唸るような声だった。
否定して謝るなら今しかない。でも、私は、私には…
「…あぁ…そうだ…」
そう答えるしか、出来なかった。
これで、深く傷つかなくて済む。あぁ、良かった…。
良かったはずなのに…どうして、涙は流れるんだ。
「…分かった」
蒼太の足音が遠ざかっていく。
私は口元を強く押さえた。
ここで、嗚咽を漏らしてはいけない。
泣いていることを、気づかれてはいけない。
涙の雨よ、やめ。心の慟哭よ、静まれ。
私は体調を崩した。
泣き続けた結果かもしれないし、自分を守るために蒼太を傷つけた罰かもしれない。
あの日から、蒼太は来ない。
私は冷たい板に横たわったまま、動けなくなった。
もうこのまま消えてもいい。いや、消えてしまいたい。
今日も、あの日と同じように雨が降っている。
梅雨の時期は憂鬱で、あまり好きじゃなかった。
でも、蒼太と居ると、どんな天気でも楽しかった。
蒼太…。
自分から突き放しておいて身勝手なのは分かっている。だが、私は寂しかった。
蒼太に会いたい…。
ただ、傍に居て欲しい…。
不意に足音が聞こえた。
「――、―――」
よく聞こえないが、微かに人の声がする。
また、誰かが迷い込んできたのだろうか。
蒼太のことを思い出し、涙が溢れる。
まだ、涙は枯れていないらしい。
体を動かすことも出来ない私は、その足音と声に耳を傾ける。
人の気配なんて、何日ぶりだろう。
何十年を短く感じる私が、たった数日を長く感じるなんて、おかしな話だ。
「――る、ほたる」
その声は、聞き間違いようもない愛しいものだ。
私は、無理やり体を起こした。
閉め切った戸の向こうから、足音が近づいてくる。
駄目だ、会っては駄目なんだ…!
私は立ち上がると、ふらふらと頼りない足取りで、裏の出口から逃げた。
―――会っては駄目だ。話しては駄目だ。
顔を合わせると、声を聞いてしまうと、きっと私は蒼太から離れられなくなるだろう。
歩き疲れ、近くにあった大きな木の幹に体を預ける。
息が上がり、その場に座り込んだ。
雨に打たれているはずなのに、その感覚はない。冷たさすら感じない。
頭が痛い。吐き気がする。体の感覚がない。もはや手足も他人のもののようだ。
このまま、消えるんだろうか。
それでもいい。いっそ、それがいい気がした。
「…蛍…どこに…!」
遠くから蒼太の声がする。
あぁ、蒼太。すまない…巻き込んでしまって。
私の下らない遊びに巻き込んでしまって…本当にすまなかった。
蒼太は人間として、私のことなんか忘れて生きて欲しい…。
私は、目を閉じた。
「やっと…見つけた」
両腕が掴まれたと思ったら、いきなり引き上げられた。
驚く間もなく、温かい腕に包まれる。
「そう…た…」
声を絞り出すと、その声の弱々しさに自分で情けなくなった。
抱きしめられている、と気付いたのは、その数秒後。
―――温かい…。
何も感じなかったはずなのに、蒼太の温かみだけは感じられる。
蒼太は、強く私を抱きしめていた。
強く、強く、痛いくらいに。
「蛍」
蒼太は少し笑った。
「かくれんぼなんて、懐かしいね」
「かくれんぼ…?」
「いつか蛍を見つけられるようになるって、約束したよね」
蒼太の腕に力がこもる。
「果たせて良かった…」
懐かしい、楽しい日々が頭をよぎる。
飛ぶように過ぎてしまった、あの日々。
私も笑おうと試みたが、駄目だった。
笑えない。
「何で…来たんだ…」
明らかに蒼太を拒絶する言葉を投げつけたはずだ。
どうして…どうして戻ってきてしまうんだ。
「約束だから」
蒼太はためらうことなく答えた。
「独りにしないって、約束したから」
『これからは、君が傍に居てくれないか?少年』
『絶対…!約束するよ…っ!』
つい昨日のことのように思い出す、少年との約束。
「嫌なんだ…」
つい、本音が漏れた。
「蒼太と私は、生きる『時』が違うんだよ…。きっと、蒼太は私を置いていく…」
蒼太の肩に、顔を押し付ける。
涙を流すところを見られたくなかった。
「置いていかれたくない…蒼太が居なくなって独りになるのが…どうしても恐いんだ…」
蒼太は、どう答えるだろう。
出会った時のように泣くだろうか。それとも、面倒だと突き放すだろうか。
「…何だ、そんなことか」
蒼太は笑った。
驚いて顔を上げる。
「な、何で笑う…っ!」
蒼太は、だって、と続けた。
「嫌われたかと思って不安だったから…」
さらに強く抱きしめられて、どれほど私のことを思ってくれていたか伝わってくる。
でも、駄目なんだ。この温かさは、心地よさは、いつか消えてしまう…。
分かっているのに、温もりに触れている今は、それを離すことが出来ない。
「僕、思うんだけど」
蒼太の声に、少し顔を上げる。
「いつか別れることが恐いからって早めに離れちゃったら、もったいないよ」
「もったいない…?」
「だってさ、蛍にとっては少しだけかもしれないけど、これからも一緒に居られる時間は残っているんだよ?だからさ…」
蒼太は、声色を真剣なものにして、言ってくれた。
「あと少しでも…最期の時まで、一緒に居よう」
私は蒼太の肩に顔をうずめた。
私の目からは、涙が零れていた。
「…ありがとう、蒼太」
放そうとしていたものを、私はしっかりと掴みなおした。
もう、二度と放さないように。
いつか失ってしまう、その時まで。
私は、それを放さない。
雨はいつしか止んでいた。
「蒼太…。出来る限りでいい…傍に居てくれ」
私の言葉に、蒼太は深く頷いた。
初めて会った、あの時のように。
―――――蒼太。
―――――何?
―――――どこに居る?
―――――ここに居るよ。蛍のすぐ近く。
―――――蒼太。
―――――ん?
―――――どこにも、行かないでくれ。
―――――大丈夫。傍に居るよ。
―――――蒼太…
―――――ずっと、蛍の傍に居るよ。
「無理して雨の中を歩いたりするからだよ」
蒼太は水に浸したタオルを絞り、私の額に乗せる。
「仕方ないだろう…。あぁ、喉が痛い…」
「風邪が悪化したんだよ。水、飲む?」
小さく頷くと、濡れタオルを取って起き上がった。
「はい」
手渡されて、水を飲む。
軽く咳き込むと、蒼太は背をさすってくれた。
再び横になると、私は溜め息を吐く。
「退屈だな」
「絶対安静だよ」
「…分かってる」
私は風邪を引いていたらしい。
風邪とは人間のなる病で、私には関係ないと思っていた。
まさか、こんなに苦しいとは。
今は蒼太の看病のおかげで大分楽になった。
「今まで風邪を引いたことがないなんて…そんな人もいるんだね」
「私は人じゃないからな。多分」
「多分か」
蒼太が笑って、私も笑った。
…こんな日々は、いつまで続いてくれるんだろう。
蒼太の笑顔は、いつまで私の傍に在るんだろう。
「あ、そうだ。蛍、花を植えてもいい?」
思い出したように言う蒼太に、私は首を傾げる。
「花なんて、そこら中に咲いてるじゃないか。何でわざわざ…」
「植えたくて。そこだけでいいから」
社のすぐ目の前を指差す蒼太。
「私は構わないが、急に花なんてどうしたんだ?」
蒼太は笑顔のまま何も答えない。
「…まぁ、言いたくないならいい」
「言いたくないわけじゃないんだけど…忘れちゃって」
嘘が下手だな。
私が苦笑すると、蒼太は種を植えに行った。
戻ってきた蒼太に、私は訊ねる。
「水やりとか、私がやっておいたほうがいいか?」
「いや、自然の力に任せていいんじゃない?」
「適当だな…。そんなので本当に咲くのか?何て花を植えたんだ?」
蒼太は、またごまかすように笑った。
「ごめん。忘れちゃった」
「…じゃあ、いつか聞かせてくれ」
不審には思いながら、私は蒼太の嘘を許す。
蒼太もそれは分かっているようで、困ったように笑って言った。
「うん、いつか…思い出した時にね」




