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最終話

 多喜から連絡が来たのは、三ヶ月以上経った四月の初旬のことだった。振袖の仕立てに時間がかかったらしい。こればかりは多喜には出来ないため、外注に出していたからだ。

 この三ヶ月、利市は出来上がる冬川紫のことよりも、多喜のことを考えていた。塩崎が語った辛い彼らの過去が、頭から消せない。利市には、あの色に対する執着と、『冬』の字を受け継ぐにあたっての拘りしか念頭になかった。そんな自分勝手な想いで、あれほど染めることを拒んでいた彼に、冬川紫を染めさせてしまった。そのことが、ずっと利市を苛んでいる。どんな顔をして、多喜に会えばいいのか。

 そんなことを考えながら、『文箱』への行き慣れた道を歩く。重い足取りであるのに、ちゃんといつもの所要時間で着いてしまうことが恨めしかった。

「いらっしゃい」

 出迎えた多喜は利市を二階に案内した。二階に通されるのは初めてだった。二部屋あって一つは絢人の部屋で、平日の昼間なので学校に行って居ない。もう一室は二階にしては珍しく床の間がある和室だったが、広く使うために床の間の部分に箪笥類が押し込まれていた。

 部屋の中央に据えられた衣文掛けに、大振袖が掛けられている。陽に茶色く焼けた畳の古びた和室には不似合いな大振袖は、白木蓮の絵柄、地の色は――紫。今まで乃木冬川その人しか染められなかった幻の色だ。

 利市の喉仏が上下した。利市が求め、文人が焦がれ続けたその色が、鮮やかな大振袖として現れた。

 利市は多喜を振り返る。入り口の引き戸に背を凭せて立つ彼は笑った。その笑みを見ると利市は切なくなった。この素晴らしい一枚を、どんな思いで染めたのだろうかと。

「どない?」

「今まで見たどんな着物よりも、きれいや」

 多喜は振袖の方に歩み寄り、

「冬川紫の、その美しさに感動する。そやから、その美しさを絶対に許さへん」

 長い袖を手に取った。

「これは結局、冬川紫やない。あの色は乃木冬川が作る紫やから、そう呼べるんや。冬川かて、毎回同し色を染められたわけやないやろう。知っての通り、いつも同し条件で染めることは不可能やからな。『今日の色』は『明日の色』やない。そやから、乃木冬川以外の人間が染める紫は、どうしたって紛いもん。冬川が亡うなった今、もう誰にも染めることは出来へん」

「…でもこの色は」

「この色を冬川紫やと言うんは勝手やけど、そないに思うんはあの色を知ってる人間だけや。知らんやつなら、ただの紫か紺色にしか見えへん。知ってるもんだけが、あの色にこだわる。特別なもんやと、どんどん錯覚するから、どんなに染めても納得出来へん。だから取り憑かれたように深みにはまる」

 憧れ焦がれて求め続けた人間は、誰一人として出せなかった紫色。しかし多喜にとってはそうではなかった。最初の三枚の原動力は、文人を失い、その原因となったものに対する怒りであり、この一枚は、見たいと願う利市の情熱に絆されての末だった。

「目、瞑れ」

 多喜は向き直り、利市の視界を手で塞いだ。

「冬川紫は乃木冬川だけの色や。フミさんにはフミさんの色があったはずやのに、見向きもせんと亡うなってしもた。おまえにも、おまえにしか出せん色がある。いつまでもこないな紛いもんの『紫』を追わんと、川村利市らしいもん、探せよ。乃木冬川かて、自分のコピーは要らんと思てるはずや。目の前にあるこの振袖の色を、俺の色やと思て見てみ。染めの作業を思い出して。きっと色味が変わる」

 多喜の色。利市は目を瞑りながら、塩崎染工での日々を思い出した。一心に生地に向かう多喜の姿を。花の絵柄は彼が選んだ。師が描いたことのない白木蓮の花だ。地色の色合わせをする際の多喜の表情。引き染めの一番色は白で、これもまた冬川とは違う。

 地色を蒸しにかけている間、利市の肩にかかった多喜の重みが蘇る。この色を染めたのは多喜なのだと、無言で訴える。

 利市は目を開けた。それを合図に、多喜の手が外れる。開けた視界に振袖が入ってきた。

 印象が変わる。似て非なる紫に。

「変わった?」

「変わった」

「そうか」

 利市の隣に多喜が立ち、並んで大振袖を見る。微かに腕が触れ合って、袖越しに体温を感じた。その温もりはじんわりと広がる。

 一年前、利市は迷いの中にあった。師の七回忌を迎え、数年後に没後十年の大々的な作品展を催す話が持ち上がり、周囲は利市に『冬』の字を名乗るようにと無言で促す。また冬川紫を期待した。紫を染められない自分に、紫が代名詞の冬川の一字を名乗れる資格はあるのか…。そんな折に現れたのが、あの振袖だった。

 オークションに出た冬川紫風の着物三枚から、『文箱』に辿り着いた。そこで乃木文人の消息を知り、『紫』を染めたのが鳴沢多喜だと知る。

 そして多喜が利市のために染めた振袖は、冬川紫と言う名の多喜の『紫』だった。

 師は冬川紫のみならず、紫を染められない一番年若い自分になぜ、『冬』の字を与えたのだろうかと、ずっと考えていた。その疑問に、多喜が代わりに答えを出してみせた。

「自分の『紫』を染めて、『冬』の字を名乗るよ」

 片腕に多喜の存在を感じながら、利市は言った。

「そうか」

 と、多喜は静かに答えた。




「友禅はもう、せえへんのか?」

「生活出来へんからな。これからアヤに金かかるし」

 着物の需要は年々少なくなる一方だった。手描き友禅ともなると高価で、更にその傾向が顕著だ。乃木工房ですら拵え一本では成り立たず、工房での友禅教室はもちろん、カルチャー・スクールでの体験教室や、和風雑貨、インテリア等に手を広げている。

 独立して自分の工房を持つのは難しい。利市は多喜を乃木工房に誘ったが、やんわりと断られた。

 振袖をたたみ終え、たとう紙(着物を包む紙)で包むと、多喜は利市に差し出す。

「そんな、もらわれへんよ」

 利市は慌てて押し戻した。

「誰がタダでやる言うた? ちゃんと諸経費はもらう。それに作業してた間の生活費も補填してもらう約束やけど?」

 多喜はあきれ顔で言った。「あ」と利市は彼の言う約束を思い出す。考えてみればこの振袖を作る間、多喜はスーパーの早朝パート以外の仕事を休んでいた。午前中のコンビニのアルバイトは辞めねばならず、『ふぁにー・ふぇいす』は長期休暇扱いになっているようだが、当然、その間の給料はない。

(生活費って、どれくらいなんやろう)

 考えると冷たい汗が背中の中心を流れる。そんな利市の心の中を見透かして多喜が笑った。

「冗談や。諸経費と、おまえが着物一枚、拵える時の値段でええよ。分割オッケイやから」

 一階に下りると、ちょうど絢人が学校から戻ったところだった。例によって営業札を出したまま店を不在にしていたので、多喜の顔を見るなり小言が飛ぶ。しばらく会わないうちに絢人は変声期に入ったらしく、心持、声が掠れていた。「ごめんごめん」と多喜は謝るが、一向に真剣みがない。絢人はすかさず突っ込もうとしたが、利市の姿を見てやめた。

「川村さんを車で送ってくけど、アヤも一緒に行く?」

「留守番してる」

「ほな、車回すから、表に出とって」

 多喜はそう言うと車の鍵を持って、裏口から出て行った。

 利市は絢人に今までのことで礼を言い、言われた通り店から外に出ようとすると、絢人が呼び止めた。

「川村さん、時々遊びに来てな。そんで、タキちゃんにまた、着物、作らせて」

「絢人くん?」

「ぼく、タキちゃんが友禅挿してるの見るの、好きやねん。かっこええと思わへん?」

「うん、思う」

 挿し友禅の時の多喜の横顔を、利市は思い出していた。「かっこいい」と言う俗な言葉は似合わない、清廉な美しさがあった。あの姿をこれからも見たいと思う利市であったが、彼がどのような気持ちで友禅に対峙するかを考えると、無理強いは出来ない。

「でももう、したないって言うてるけど」

 絢人は首を振る。

「本当はしたいと思う。だって、楽しそうやったもん。それに着物、出来上がって来て広げた時、嬉しそうに何時間も見てたし」

 車が止まる音がした。利市の視線をそちらに向ける。それからまた絢人に戻すと、彼の頭をくしゃくしゃと撫でた。子供にはわからない事情が大人にはある。そう単純には何事も運ばない。

「来たみたいや。ほな、行くな」

 利市は店のは入り口に二、三歩進む。後ろから絢人の声が聞こえた。

「タキちゃん、一生懸命な人、好きやねん。お父さんはダメ人間やったけど、友禅染めるの一生懸命やったから好きやったんやと思う。そやから次も川村さんが言えばするよ」

 利市が振り返るのと、クラクションが鳴ったのは同時だった。「え?」と聞きなおそうとする利市に向けて、再度、促すようにクラクションが鳴る。

「約束な、川村さん」

 用は済んだとばかりに手を振ると、絢人は居間の奥へ引っ込んだ。利市は揺れる暖簾に向かって手を振り返す。彼の言葉を反芻しながら表に出た。運転席から多喜が、店札をひっくり返してくれと利市に頼んだ。


『本当はしたいと思う。だって、楽しそうやったもん。それに着物、出来上がって来て広げた時、嬉しそうに何時間も見てたし』


 利市は多喜を見つめた。「何や?」と彼がサイド・ミラーを覗いて言く。顔に何か付いているのかとでも思ったのだろう。

「なんでもない」

 引き戸を閉め、札を裏返した。それから店構えを見る。

 利市はまたここを訪れることになるだろうと、予感した。



(了)


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