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(七)

「多分ねぇ、多喜ちゃん、心配なんと違うかなぁ。川村さんと文人先生と、どことのう似てますさかい」

「文人さんと?」

 塩崎はコーヒーを淹れてくれた。さっきまでうたた寝していたのを見ていたからだろう。勧められた砂糖を断り、利市はカップに口をつける。いつもより苦く感じた。

「蒸し上がった生地見た時のあんたの目、文人先生と同しやった。あの『紫』に取り憑かれてる。そう感じたんと違うかな。いつか川村さんもあの色に焦がれて焦がれて、先生みたいになってしまうんやないかって」

「先生みたいって、文人さん、何かあったんですか?」

 塩崎は浅く息を吐く。言ってしまったからには、話すしかないと思っているようだった。それでも多喜が語らないことを話すのには抵抗があるのか、しばらく間が開く。

「最期はまあ、どっちかわからん状態でなぁ」

 山科の工房をたたんで嵐山に越してきた時には、すでに文人は精神的に不安定な状態だったと言う。何日も何日も塩崎のところのプレハブ工房に篭り、同じ色を染め続けた。どれも紫ばかり。作品としては決して悪いものではなく、製品にすればそこそこの値段がつくだろうに、蒸し器から出して色を確認すると、問答無用で鋏で切り裂いた。

 まったく工房に来なくなる時期があって、そう言う時は酒びたりの日々。悪い酒で、酔っては他の客に絡んで暴れ、出入り禁止の店がどんどん増えて行った。とうとう家で飲むしかなくなり、今度は嗜める多喜に暴力をふるうようになった。一度、多喜の防御で文人が脳震盪を起こしたことがあり、以来、多喜は極力抵抗しなくなった。散々に殴り、蹴りして、酔いが醒めて我に返ると、文人は多喜に泣いて許しを乞うた。

 それの繰り返し。文人の過去の実績を知る問屋から、時折仕事も来ていたが、全うしたことがなかった。途中で投げ出して、また『紫』に戻って行く。当然、生活は苦しく、多喜が『ふぁにー・ふぇいす』に勤め始めたのは、この頃からだと塩崎は語った。

「文人先生と冬川先生とでは、性質もセンスも違う。冬川先生は文人先生に自分の跡を継がせるんやなく、そのええところを精進して、文人先生なりの友禅を作り上げて欲しかったと思うんやけど、文人先生はどうしても、あの冬川紫をあきらめきれんかったみたいで。先生の元気な頃の作を見させてもろたことあるけど、やさしい色使いで、ええ作品でしたよ」

 絢人は五才の時に二人のもとにやって来たのだが、文人の本当の子供かどうかはわからないとのことだった。絢人を連れてきた女性はどこかのスナックの店員で、関係を持ったのは事実のようだが、いつ頃か文人ははっきり覚えていなかった。嵐山に来てからの間柄だとすると年齢が合わない。女性は半ば押し付けるようにして、絢人を置いて行った。以来、どこで何をしているのかは知れないのだと言う。勿論、多喜は絢人の出生について話すはずもなく、あくまで自分の推察だと塩崎は言いおいた。とにかく絢人は文人の実子として、今も育てられている。

 文人の状態は悪くなるばかりで、泥酔して昏倒し病院に入院することもしばしばであった。薬に頼らないと不眠を訴えるようになり、指示以上に服用するので、その隠し場所に多喜は苦慮した。そんな状態だから、とうてい仕事が出来るはずもなく、文人は友禅から離れて行く。反対に、文人に師事しているとは言え、それほど熱心でなかった多喜が友禅に目覚めていった。着物を染める仕事はなかなか得られなかったが、和風小物を作るようになり、塩崎の伝で雑貨店への卸も細々ながら始めた矢先、文人が亡くなった。薬の誤飲だった。手には手描き友禅の振袖の写真が握られていて、彼の父の作品、色は冬川紫だった。

「あの『紫』は魔性の色なんかも知れへんなぁ。冬川先生のほんまもんを見たことありますけど、そらすごい迫力やった。吸い込まれる言うんか。見たもんを虜にする力がある。わしなんか蒸しと水元やからそこまで執着せんけど、手描き友禅やってるもんやったら、一度は染めてみたいと思う色やろかと。川村さんもそうなん違いますか? そやから多喜ちゃんが染めた着物を辿って、ここまで来やったんやろうし」

「多喜さんは?」

「多喜ちゃん? どないなんかなぁ。初七日済ましたその日に、突然、来やって、長いこと文人先生の工房に篭ってたわ。遺品の整理かなんかしよるんか思たら、冬川紫を染めるから協力してくれ言うて。そっからの多喜ちゃんは、そら凄まじかった。とても憧れて挑戦するようには見えんかったし」


『友禅、嫌いなんや』


 最初に会った日の多喜の言葉だ。そして引き染めの日、まだ何も入っていない桶を黙って見つめていた彼の表情が忘れられない。

「あの『紫』のために親しい人を失いたないんやと思う。わしはもう多喜ちゃんに、あないな辛い思いはさせとうない。ちゃんと仕事して、冬川先生に負けんくらいの名匠になったってください」

 塩崎は頭頂部がすっかり禿げた頭を下げた。利市は何も返せなかった。

 話は終わり、塩崎はタクシー会社に電話をした。タクシーが来るまでの間、多喜に会って帰りたいと利市は思ったが、車はすぐに来てしまい、それは叶わなかった。



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