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(六)

友禅制作過程はフィクションであることをご了承ください。

 絵柄を挿し終えると、蒸しの作業に入る。染料を生地に定着させるため、百℃前後に温度が設定された蒸し器の中で、数十分蒸し上げるのだ。

 絵柄にせよ地色にせよ、蒸し加減で発色が変わる。色の出来映えが友禅師の思い描いた通りになるかは、蒸しにかかっていた。経験と熟練の勘が物を言う。蒸しは塩崎染工の専門で、今回の多喜の作品には全面協力をしているのだが、専門分野であっても、あくまでもアシスタントとしてで、温度も時間も多喜が細密に管理し、蒸し器に付きっきりであった。

 挿し友禅で彼の実力を目の当たりにした利市は、あの日、帰ってすぐに休暇願いを出した。『紫』を見るだけなら、引き染めの作業からで充分であったが、色を「見るだけ」では収まらなくなっていた。色は、一枚が仕上がる工程の中から生まれている。一枚の振袖が仕上がる全ての工程が、あの色を生み出すために存在している――そう思えてならない。

「無期限て、いったい何をしとるんや? 沢口様の訪問着、待ってくれるように頼んでまで」

 多喜が振袖を作ることを承諾してから、利市は新しい仕事を抑えていた。その上に休暇願いでは、宮前事務長も簡単には承服しかねるだろう。利市の有名はすでに乃木工房の看板となりつつあった。才能もさることながら若さと見映えも手伝って、メディアからの問い合わせも少なくない。よほど説得力のある理由でなければ、「うん」と言わないのは当然だった。

 しかし利市は沈黙を守った。多喜が今回の仕事を受ける時に、冬川紫の名は出すなと条件を出していたからだ。「俺が染めるんは、ただの紫やから」と言って。

 なだめてもすかしても理由を言わない利市に宮前事務長が折れて、とりあえずひと月、休むことは許可された。兄弟子の中には、冬川の後継者だと言う驕りを口にする者もいたが、利市は反論することもなくそれを甘受した。

 挿し友禅の蒸しの作業が終わり、引き染めで地色を染める際に挿した絵柄が染まってしまわないよう、その部分に糊を置いて被せ準備する伏せ糊の段階に進んだ。この頃、冬休みに入った絢人が塩崎染工に来るようになった。塾と剣道の稽古と、友達と遊ぶ約束をしている時以外は、基本的に一日、塩崎染工にいた。

「やっぱしタキちゃんは、友禅作ってる時が最高、かっこええ」

 多喜の休憩を見計らって、絢人が作業場にしている離れのプレハブに顔を見せる。

「おおきに。アヤの顔見ると、疲れが吹っ飛ぶわ。一日、こない狭いとこに缶詰にされてると潤いがないしな。早よ仕上げて、もとの生活に戻らんと干からびる」

「でも楽しそうやで?」

 他意はない絢人の素直な言葉に、多喜は「そないに見えるか?」と苦笑して聞き返した。

「うん。そんなタキちゃん、ずっと見てたいくらいや。川村さんもそうなん?」

 急に話を振られて、利市は面食らう。

「したかて、仕事休んで、ずっとここに来てるんやろ?」

「これも仕事なんや。多喜さんが友禅作ってるとこ見せてもろて、勉強してるんやから」

「でもタキちゃんばっかし見よるよ?」

 これもまた他意はないのだろうが、言われた利市はびっくりした。多喜の手元を見ているつもりだった。途端に頬が熱くなるのを感じた。

「もしかして、このかっこ良さに惚れた?」

「な、何言うてる!」

 多喜が冗談めかして突っ込んだ。利市は過剰に反応し、頬の熱は色となって表面化した。それをまた絢人が指摘し、普段は張り詰めた空気のその部屋に笑いが満ちる。

 利市に見せる多喜の表情は、始めの頃に比べるとずいぶんと変わった。友禅の製作で静かな緊張を帯びる横顔と、絢人に見せるくったくない笑み、時折ぼんやりと空に目をやったかと思うと、息抜き代わりに利市をからかう茶目っ気を見せた。冷めた印象は生地に向かう日々で、生きたものに変わる。彼もまた職人なのだと、利市は思った。

 引き染めの色はいつものプレハブではなく、北側に建つ別のプレハブ小屋で合わせられた。色を合わせるのは難しい。光の加減に因って見える色が違ってくるからだ。蛍光灯などの人工の光ではなく、窓から入る自然光――それも北側からの直射でない柔らかな光が望ましい。塩崎染工を借りていた文人はそれをよく心得ていて、北側の遮るもののない場所に、色合わせのための空間を確保した。冬川紫を得るために。

 多喜はしばらく何も入っていない桶を見つめた。手にした最初の柄杓はなかなか動かない。白んで見える頬に表情はなく、堅く結んだ唇に何かしらの感情が垣間見える。

 どれくらいの時間が経ったのか、水で溶いた染料をそれぞれの柄杓で掬い、多喜は色を合わせ始めた。少しずつ、少しずつ。一杯掬っては確認する。

 出来上がった色は四色。系統としては白に桃、藍、紫と言ったところか。時間をかけて合わせた色は、見た目、単純な色合いに見えた。多喜が色を合わす間中、利市は紙と脳裏に細かく書きとめた。

「真面目なことやな?」

 合わせ終えた多喜がメモを覗き込む。

「悪いか」

「悪うないよ。フミさんに似てるな、そんなとこも」

 引き染めは生地を張った状態で行う。塩崎染工の母屋から水洗い作業場へ向かう長い渡り廊下が、引き染めの作業に使われた。

 薄い色目から順に染めて行く。弛みなくピンと張られた白い生地に、多喜は刷毛に含ませた染料を躊躇いなく塗りつけた。右から左に力を均等に入れながら、まずは白系の染料を。それから淡い石竹(桜草の色)の色を重ねた。白は真珠の光沢を石竹の内側で発色させた。桶の中の単純な色目は、段々と複雑な顔を生地の上で見せる。

 利市は鼓動が早くなるのを感じた。時間をかけて、それでいて決して溜まりで色斑が出来ないように、多喜は色を重ねて行く。色が濃くなるにつれ、利市の鼓動は更に早くなった。予感がする、あの色が、確かに現れる予感が。

 引き染めを終えた生地は、しかしまだあの『紫』ではなかった。濃い群青、青黛色とでも言うのか、とにかく青黒く、満月から遠い北の空の色に似ている。

「時間は?」

 蒸しにかける時間を塩崎が多喜に尋ねた。多喜は染め上げた生地を手に取り、「一時間」と答える。通常よりも長めだ。

 一時間は長く、利市は多喜と並んで蒸し器を見つめていた。今度、出てくる時には、色はどのように変化しているのだろうか。あの『紫』を目にすることが出来るだろうか?

 隣に立つ多喜は、心なしか疲れて見えた。無理もない。一日中、工房に詰めっきりなのだから。彼の集中力は並ではなかった。切りがいいところまでは、どれだけでも生地に向かっている。飲み食いもせず、時にはすぐに立ち上がれないくらい根を詰めた。

 ぐらりと多喜の身体が、利市とは反対の方に傾いだ。慌てて腕を掴んで引き寄せる。

「ああ、すまん。居眠りこいたわ」

「座ろか? 椅子、借りて来るから」

「いらん。地べたに座る」

 多喜はその場に座った。利市も隣に座る。それから多喜の頭に手をかけて、自分の肩に押し付けた。

「何やねん?」

「まだ時間かかるやろ? 少し寝ろよ。枕かわりに肩、貸してやる」

「ふうん、気、きくようになったんやな?」

「ええから」

「ほな、遠慮のう」

 そう言うと多喜は目を閉じた。すぐに肩にかかる重みが増し、彼が眠りに落ちたのがわかった。その重みは温かい。利市は多喜の頭にかけた手を肩に回した。




 利市は肩を揺すられて目を開けた。隣に座っていたはずの多喜の顔が向かいにある。利市もあのまま眠ってしまったようだ。そして多喜が起きたことにまったく気がつかなかった。

「上がったぞ」

 多喜は利市の肩を二、三度軽くたたいて立ち上がった。利市は慌てて後に続く。眠気は吹き飛んだ。

 塩崎が蒸し器をあけ、中から生地を取り出した。

「あ」

 青黒かった生地が、変化している。夜になる直前の空の色、群青とも紫とも言えない複雑な『紫』。求めて已まなかった乃木冬川の色だ。乾燥させ、改めて水洗いにかけるのだが、そうなると一層、鮮やかに発色するだろう。それを思うと、利市は興奮を抑えられなかった。

 感動で声が出ない。まだ完成とは言えない代物でも、息が詰まるほどに美しい。

「すごい…」

 言葉が零れる。色むらを確認する多喜は、利市とは正反対に淡々としていた。

「こっからは仕上げだけや。色に関する技術的なことは何もないし、振袖が仕立てあがったら連絡するから、おまえはもう帰れ」

 蒸し上がった生地をハンガーに吊るしながら、多喜が未だに呆けている利市に言った。その物言いはなぜか冷めている。利市が最後まで付き合うと言っても聞く耳を持たない様子で、

「いつまで仕事休んだら、気、すむんや。友禅師やろ? 友禅師が染めんでどうする」

と続けた。「でも」と出かけた言葉を利市は飲み込む。振り返った多喜が、人差し指で利市の唇を押さえたからだ。

「俺はおまえの言うことを聞いた。今度はおまえが聞く番や。もし辛抱出来んで、うちに来たら、この振袖は燃すから」

「な…っ」

「おやっさん、タクシー呼んだって。俺、少し休ましてもらうし」

 頭の手ぬぐいを外して、多喜は蒸しの作業場から出て行った。

 利市はその後姿を呆然と見送る。取り付く島もなかった。

「タクシーは呼ぶけど、まだ日も高いし、お茶でもどうです?」

 塩崎が声をかけるまで、利市は多喜が出て行ったドアから目が離せなかった。


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