(五)
図案を決め、描き、染めて、仕立てる――一枚の友禅染めの着物を仕上げるのに、概ね二十以上の工程を要した。手描き友禅はそれら全てを手作業で行う伝統的な手法で、それぞれに専門の職人がいて、工程ごとに外注することが一般的なのだが、友禅作家本人が全工程を行うことも珍しくない。晩年こそ水元(完成した生地に残る不要物を洗い流す)を職人に任せた乃木冬川だが、それまでは全て自分の手で作業した。どの工程でも微妙な匙加減で出る色が変わる。それを自在に扱えてこそ手描き友禅師…との持論で、その考えは愛弟子である川村利市にも受け継がれていた。
そして鳴沢多喜もまた、全てを一人でこなす友禅師だ。初対面の時、乃木文人の友人だと利市に名乗ったが、もともとは文人に師事した弟子だったらしい。つまり冬川の孫弟子と言えよう。
多喜は引き染めの段階になったら連絡すると言ったが、利市は待ちきれなかった。あの『紫』が姿を表すのは地色を染めてからで、それまでの作業は利市が行うことと特別変わらない。しかし友禅師としての多喜を見てみたかった。利市が絵柄の希望をメールして以来ふた月が過ぎたが、多喜からは何の音沙汰もない。『文箱』に電話をしても昼間は留守で、夜はタイミングが悪く――入浴中であったり、絢人の塾の日だったり――、連絡がつかなかった。それでとうとう承諾を取らずに、利市は嵐山にある塩崎染工を訪ねた。
塩崎染工は蒸し(染料を生地に定着させ色止めする)と水元専門の染工である。山科の工房をたたんだ文人が、敷地の一角を作業場として借りていたところだった。彼の道具の一式が残されたままで、多喜はそこを使って今回の作業を行っている。
応対に出た社長の塩崎が、内線で多喜に利市の訪問を告げた。通してもよいとのことだったので、彼は利市を水洗い場の裏手にある多喜の作業場に案内してくれた。
「やっぱりあの『紫』、乃木さんとこの目に留まりやったんやなぁ。何にしても、多喜ちゃんがまた戻って良かった。見捨てんと良う面倒みて、さんざ苦労して。せっかく一人前になれたのに、辞めてしまうんはもったいない思てたんですわ」
途中、塩崎が言った。多喜はあの紫を、ここで染めたらしい。友禅に携わる者なら冬川紫を知らない者はいないに等しく、最初に仕上がった訪問着を見て、塩崎はかなり驚いたと利市に語った。
「皮肉なもんですなぁ。冬川先生の息子さんがどないにしても染められんかったのに、あの『紫』を憎んどった多喜ちゃんが染めてしまうんやから」
「憎んでた?」
「文人先生が、身、持ち崩したんは、あの色のせいみたいなもんやさかい」
塩崎は言葉を濁した。文人が病没したことは聞いたが、乃木を出てからどのような生活を送っていたのかは知らない。利市が聞かなかったこともあったが、多喜もあえて話さなかった。ただ文人の死を教えてもらった時、多喜の傍にいた絢人の冷ややかな反応が思い出された。
「多喜ちゃん?」
塩崎染工の作業場裏に小さなプレハブ小屋が建っていた。塩崎が声をかけると入り口が開いて、多喜が顔を見せた。
「辛抱の足りんやっちゃ」
彼は利市を見て、ニヤリと笑う。
「すまんな、子供で」
と利市は苦笑した。
塩崎は作業場に戻り、利市は中に入った。
六畳ほどのプレハブは文人亡き後、塩崎染工の物置の一つとして使われていたようで、社名の入ったダンボールが幾つも隅に積み上げられていた。もともとは物置だったのかも知れない。本来の役割に戻ったところを、再び多喜が友禅染めの工房として使うことになり、取り急ぎ空間を作って体裁を整えた様子が、ダンボールの積み具合で察せられた。
多喜の作業は、図案から仮絵羽への下絵(着物の形に仮縫いした白絹に青花液で下描きする)、糸目(下絵の線に沿って防染のため細く糊を置く)までを終え、挿し友禅(絵柄に色を挿す)に入っていた。
「もう少しでキリのええとこになるから、続けさせてもらうけど?」
多喜はそう言うと、頭の手ぬぐいを巻きなおした。
利市は勧められた座布団に座り、彼の挿す様子を見る。
絵柄は白木蓮。金糸・銀糸の波や、枝に止まる鳥や、下を行過ぎる御所車などの華やかな絵は一切ない。ただ白い花と、それを咲かせる枝ぶり、花弁につく雨粒があるだけ。多喜は利市の希望を聞いたが、逆に利市は彼にまかせた。彼らしい絵柄をと言い添えて。多喜が選んで図案化したのは雨上がりの白木蓮だった。華やかさが売りの友禅の振袖にしては、地味に過ぎるかと利市は思っていたが、目の前で描かれる絵柄を見て息を呑んだ。
乳白色の花弁の先端から内に向かって、出来るだけ薄い灰桜の色味を暈す。今まさに滑り落ちようとする雨粒が、真珠のように美しい。その花と雨粒を魅せるために、枝は極力、色を抑えられた。しかし存在感がないわけではなく、それが無ければ絵柄は成立しないほど複雑な色目で挿されている。
地味だなどと思ったことが、友禅師として恥ずかしい。決して豪奢でないが、人の目を惹くきつける仕上がりになることは、その部分からでも想像出来た。
利市は多喜の手元から目を離し、彼を見た。普段はへらへらと笑い、ふざけた印象が先に立つ多喜だが、絹に向かう横顔はその俗っぽさが微塵も感じられない。無表情に黙々と色を挿す。
触れてはいけない、壊してはいけない『時間』がそこに在った。
「ただ見てるだけて、退屈やろ? そやから引き染めになったら連絡する言うたのに」
ひと段落ついて、多喜は筆を置いた。部屋の隅に追いやっている電気ポットの湯で、インスタント・コーヒーを淹れてくれた。紙コップなのはご愛嬌だ。
「いや、面白いよ。他所の仕事見るんは、勉強になる」
「師匠はフミさんやから、やってることは同しはずや」
「文人さんとは山科の工房で?」
「うん。一目ぼれ」
利市は文人が残した着物を思い出していた。冬川の死後、作業場をそのままの状態で遺すことになり、用意のために色々と整理をしていた時、振袖が一枚、出てきた。風情は師のものではなく、落款の名を見た宮前事務長が文人のものだと教えてくれた。古典柄で伝統を守りつつも、独創的な色使いや絵柄の構成で追随を許さなかった師とは違い、文人の作は、技術的には申し分なく、絵柄も優しい彩色で嫌味がないものの、『常識』を脱し得ない大人しい作品だった。凡庸とまでは言わないが、一目ぼれさせるほど目を惹くものとも思えない。
それとも自分の工房を持った山科時代に、作風が変わったのだろうか?
「一目ぼれした作品って、どんな?」
「違う違う。本人に一目ぼれしてん」
「え?」
「俺、女に興味ないから」
多喜が文人の山科の工房を訪れたのは、工芸大の学生の頃だったと言う。学生と言ってもパチンコとマージャンで無為に日々を過ごし、三回生を二回繰り返してからと言うもの、ほとんど授業に出なかったらしい。工房を訪れたのだって、通りかかった時に打ち水をしていた文人がタイプだったからで、この時初めて工芸大学生の肩書きが役に立ったと多喜は笑った。
利市はすぐには意味が把握出来ず、多喜はそんな反応を面白がっているような、悪戯っぽい表情で見ていた。
「心配せんでも、おまえは趣味やない」
「なっ…!」
利市が目を見開くと、多喜は一層、笑った。
「冗談が通じへんな」
「やっぱり冗談なんか」
多喜は笑みの余韻を唇の端に残し、コーヒーを飲み干した。
「でも、あの優しい色が好きやったんはほんま。個性は足らんかも知れんけど、見るもんを暖かい気持ちにさせてくれた。それだけで充分やと思うのに、職人ってやつは…」
最後の方は声が萎み、何を言ったのか利市には聞き取れなかった。




