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(四)

 利市は遠くで声がするのを聞いていた。

「また友禅、するん?」

「さあ、どないしょうかな。アヤはどうしたらええと思う?」

「そんなん、タキちゃんのことやろ」

「冷たいなぁ、相談してるんやで」

「ぼくは、タキちゃんは友禅作ってる時が最高、かっこええと思ってるけど?」

 目を開けると天井が見えた。そのまま視線だけで見回す。二階へ上がる階段と、小さな仏壇、暖簾のかかった店への入り口、摩りガラスの入った格子の引き戸が片方に寄せられ、台所が見えた。こちらに背を向けて立つ二人は大人と子供で、まず子供が味噌汁碗を乗せた盆を持って振り返った。

「あ、起きたみたい」

 絢人だ。利市と目が合って、多喜に声をかけた。

「目、覚めたんか? 今から朝飯やけど、食える?」  

 利市は喉の奥が乾いていた。喋ろうとするとヒューヒュー音がする。それで昨夜、喘息の発作を起こしたことを思い出した。『ふぁにー・ふぇいす』で急に息苦しくなり、ポケットを探って吸入器を取り出そうとしたのだが、ひどくなる予感が焦りを呼んで、上手く手が触れなかった。誰かが救急車を呼ぼうとするのを辛うじて制し、バック・ルームで休ませてもらった。見つけた吸入器で少しマシになった後のことを、利市は覚えていない。『文箱』にいるのだとしたら、多喜が連れ帰ったのだろう。

 のろのろと起き上がると、身体中が痛かった。

「面倒かけたみたいやな」

「ほんまや。喘息持ちが、あんな空気の悪い店におったらあかんやろ」

 利市の分の味噌汁と茶碗を絢人に渡しながら、多喜が答えた。慣れた手つきで絢人が人数分のご飯を盛り、テーブルの上に並べた。それから利市が座ると思しき位置を指差す。

「ありがとう」

「もう大丈夫なん?」

「うん。君にも迷惑かけたな」

 心配してくれたのかと礼を言うと、「ほな、後片付け担当な」と絢人は自分の位置に座った。台所から多喜が「今日は土曜日やぞ」と絢人を嗜める。どうやら学校が休みの日の食事の後片付けは、絢人の担当らしかった。

「働かざるもの、食うべからずやないの?」

「この人は日頃、働いてるからええねん。それに病み上がりやし、少しは大目に見たり」

 多喜も自分の位置に座った。昔ながらの典型的な朝の食卓。食欲がなかった利市だが、味噌汁で嗅覚が刺激され箸を取る気になった。

 多喜は土曜日を絢人に合わせて、『文箱』以外の仕事を休みにしていた。『文箱』を休みにしないのは「本業だから」とのことだが、今ひとつ真実味に欠ける。午後二時から絢人が剣道の稽古に出るので、その暇つぶしに店を開けると言う方が正しく思えた。利市の心の声は「暇つぶしやん」と絢人が代弁した。利市が噴出し、それが二人にも伝染して、和やかな笑い声が食卓に響いた。

 利市の職場・乃木工房は土曜日でも開いている。土日は手描き友禅の教室を開いていて、工房に所属する染師は週交代で講師を務めることになっていた。その日は運悪く利市が担当だったが、久しぶりに起こした喘息の発作が日頃の疲れも引き出し、とても出る気にはなれない。朝食を終えて絢人がその後片付けを始め、多喜が掃除や洗濯に取り掛かると、休む旨を工房に連絡した。帰り支度を始める利市の様子を見て、

「もう少し休んで行ったら?」

と多喜が言った。意外な言葉に利市が「え?」と聞き返す。

「まだちょっと顔色悪いし。帰りの電車でおかしなったら困るやろ? 洗濯済んだら車で送る」

「これ以上、迷惑はかけられへん」

「別に迷惑やなんて思てへんよ。まあ、どっちでもええけど」

 これはもしかしたらチャンスかも知れない。覚醒する直前に聞いた会話が現実のものだったとしたら、多喜の気持ちが少し、利市の話を聞く方に傾いているのではないか。実際、利市への当たりも柔らかくなっている。帰るまでの間に話が出来るかと期待して、彼の言葉に甘えることにした。しかし多喜は何だかんだと用事を作り、腰を落ち着かせることはなかった。土曜日はいつもそうなのか、それとも態とか――あの会話は利市の願望が見せた夢だったのか。

「もう『ふぁにー・ふぇいす』には来るな」

 帰りの車に乗り込んだ時、多喜が言った。

「行くさ」

「また昨日みたいに苦しなるぞ」

「心配してくれるんか?」

「昨日みたいなことになったら、迷惑なだけや」

「悪かったと思てる。子供の時に比べたら、ほとんど出んようになってたんで油断した。今度からちゃんと予防していくから」

 乗り込んだものの、エンジンはかからない。ハンドルに手を置いたまま、多喜はしばらく黙っていた。

 利市は急がなかった。自分から話を繋ぐこともせず、多喜の言葉を待った。

「金と時間使こうて、しんどい思いしてまで、何であの色に拘るんか、ようわからん」

 多喜に表情はなく、利市を見ようともしない。どこを見ているのか、何を思い出しているのか、利市に話しかけているのか、誰に問いかけているのか。

「色は他にもようさんある。その一色が出せんから言うて、着物が作れんわけやなし」

「自分に出せない色やからこそ、焦がれるんやと思う」

 利市の答えに多喜が振り向いた。何かを言いたげに薄く唇が開いたが、すぐに引き結ばれた。それから目線を落として浅く息を吐く。唇の端が少し上がった。

「職人やなぁ、おまえも…」

 多喜は独り言のように呟くと、エンジンをかけて車を出した。そしてそれきり、黙りこくってしまった。

 時々、利市は運転する多喜の横顔を窺い見た。視線を感じているだろうに、彼の顔の筋肉は動くことはなく、無言で話しかけられることを拒んでいる。結局、利市のマンションに着くまで、言葉を交わすことはなかった。

「送ってくれて、ありがとう」

 マンション前に車は止まった。礼を言ってドアに手をかけた利市を、多喜が呼び止める。

「もう『ふぁにー・ふぇいす』に来んでいい」

 ドアから手を離し、利市は多喜を振り返った。さっきと同じく「行くさ」と、彼をまっすぐ見て答える。百夜通いはまだ半分も残っていた。言い換えれば後半分だ。ここで引いては何もかも振り出しに戻ってしまう。

 利市のそんな視線を多喜は無視して、ダッシュボードを開け、ボールペンと紙切れを取り出した。それに何やらを綴ると、利市に差し出す。見ると『塩崎染工』と言う名と住所と電話番号が記されていた。

「知り合いの水元や。場所を貸してくれる」

「何のために?」

「振袖一枚、拵える。そやからもう、百夜通いはせんでいい。行ってもおらんから」

「え?!」

 多分、利市は間の抜けた、信じられないと言った表情をしているのだろう、彼の顔に笑みが浮かんだ。それから、さっきの紙切れを利市の手から取り、一行書き加えた。メール・アドレスだった。

「パソコン、持ってるやろ? 絵柄は何がいいかメールしろ。せっかくやから、おまえの好きなモチーフにしたる。出来れば花がありがたいんやけど。花なら、たいてい描けると思うし」

「そしたら?!」

 全てが飲み込めて、利市は目を大きく見開いた。

「引き染め(地色を染める作業)になったら、連絡する。長期の仕事やからな、生活の保障はしてもらわなあかんけど?」

 決定的な多喜の言葉を聞いて、利市は自分の頬を抓った。痛い――これは願望が見せた幻影でも、幻聴でもない。多喜は承諾したのだ。あの色を染めて見せることを。利市は念のために、もう片方の頬も抓る。同じ痛みをちゃんと感じた。

 利市のその様子を見た多喜は、声をたてて笑った。

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