(三)
「よく続くわね。このままやと百日、大丈夫なんやない?」
グラスに口をつける度に次を注ごうとする手を、利市はやんわりと断った。もともと酒は嗜む程度で、大して強い方ではない。ほぼ毎晩の飲酒は、さすがに体にきつかった。
利市がここ『ふぁにー・ふぇいす』に通い始めて四ヶ月が経っていた。『ふぁにー・ふぇいす』は嵐山の歓楽街にあるゲイバーで、多喜の夜の仕事場である。
鳴沢多喜は早朝にスーパーの品だしのパートをし、絢人を学校に送り出してからの午前中はコンビニでバイト、午後から夕方までは自分の店『文箱』を開けて、夜は『ふぁにー・ふぇいす』で働くと言う生活を送っていた。
利市が三枚の着物の出処を辿り『文箱』を訪れた最初の日、病欠者が出て人手が足りないので、早めに出勤して欲しいと『ふぁにー・ふぇいす』から連絡が入った。多喜は絢人の塾がある日は遅番と決めていて、一旦は断ろうとしていたが、たまたま居合わせた初対面のはずの利市に、
「アヤの迎え、頼まれてくれへんかな」
と半ば有無を言わせない勢いで頼み、仕事に出て行った。利市が引き受けたのは、少しぐらい恩を売って、話の続きをしようとの腹積もりからだ。言われた通りに塾が終わる時間に絢人を迎えに行き――迎えが利市だったので、彼はひどく驚いていた――、多喜が用意した夕食を一緒に食べ、その他の生活行動を見届けた後、渡された名刺の店に向かった。名刺は何かあった時のためのもので、「来い」とは言われていなかったが、昼間の話の続きをしようと出向いたのである。
行ってみて、少なからず利市は驚いた。名刺から水商売とは知れたが、そこでバーテンか、もしくは皿洗いなどでもしているのかと思っていたら、本人がホステスとして働いていたからだ。ワンピースにウィッグ、多喜はそれなりの装いだった。
「何や、わざわざ来んでも良かったのに。明日、仕事なんと違うんか?」
「な、成り行きで」
店構えに怯んだ利市は、挨拶だけして帰ろうと方針を変えたのだが、陽気な他のホステス達に引きずり込まれ、無理矢理席に座らされた。
「それに話も途中やったし」
利市がそう言うと、多喜は苦笑した。
結局その日は、他のホステスに邪魔をされて、話の続きなど出来る状況ではかった。利市は日を改めることにして、それから二日後の『文箱』が開店している時間を狙って訪ねたのだが、居留守を使われて会えない。次の休みにも足を運んだが、やはり会うことは出来なかった。朝早くから夜遅くまで働いている多喜にとって、『文箱』の営業時間はイコール休息時間であるらしく、その生活サイクルを知ってしまうと、居留守を咎める気にはなれなかった。
そこで利市は確実に会える『ふぁにー・ふぇいす』に、客として赴くことにした。指名客である以上、多喜は利市を無碍に扱えないと考えたのだ。仕事が終わった夜なら、休みの日を待たなくてもいい。利市の職場の乃木工房からだと、一時間半もあれば通える。店に来られては多喜は逃げも隠れも出来ず、利市が居る時間中丸々は無理でも、必ず席につかせることには成功した。時間にして数分のことだが、確実だ。利市は三日と空けずに通った。
「タキちゃんに、えらいご執心やねぇ」
多喜が席にいない間は、別のホステスが利市の相手をする。規模の大きくない店に一ヶ月も通えば、すっかり顔馴染みになった。
「こんなええ男がって、みんな羨ましがっといやすえ。今度、うちもご指名しとくれやす。あんじょうサービスしますさかい」
「ほな、私も。あないに冷とうて薹が立ったタキちゃんなんて、もう見切って、ね?」
芸者風からちいママ風、一頃流行ったボディコンの女子大生に、巷で話題のミニスカートのメイドと、さながら仮装パーティーのような店内は、いつも賑やかだった。多喜はここでもやる気があるのかないのかわからない様子であったが、そこそこ人気はあるらしく、あちこちのテーブルで声がかかる。知り合いと言うこともあって、利市はいつも後回しにされた。
「ほんま、しつこいな。そろそろ辛どうなってんのと違うんか?」
「大丈夫や。ここでしか話、出来へんからな」
実は本題になかなか入れずにいた。他愛もない会話は厭わない多喜であったが、友禅の話になると途端に口が堅くなった。ふざけた笑顔を見せるだけで、のらりくらりと話題を変える。利市にそれをさせないためか、彼一人では絶対に席につかず、他のホステスが必ず同席した。
そんな二人の奇妙な様子は、いつしか従業員の間でも知れることとなり、好き勝手な物語がネタにされる。ロマンティックなものから、ドロドロとした愛憎劇さながらのものまで、良い酒の肴だ。根負けしたのは多喜だった。だからと言って素直に話を聞くことになったかと言うとそうではない。
「そうやなぁ、ほな百回、休まずここに通ったら話の続きは聞いてやる。ただし、それまであの話はせんこと」
「何で百回?」
「百回指名されたらボーナス出んねん。それに深草の少将みたいでロマンティックやろ?」
『深草の少将』とは、小野小町の愛を得るために百夜通いを決行した昔話の主人公である。九十九日目の大雪の夜、道行の途中で凍死してしまい、恋は成就しなかったと言う縁起の悪いオチがついていた。
「自分が小町ほど美人や思てんのん?」
他のホステスが茶化して笑ったが、多喜は気にしない。それまでの日数は毎日じゃないからリセットすると言われた。
百夜通いなど、方便に違いない。昼間仕事を持つ身が、片道一時間以上の道のりと、決して安くない酒代で百日通い続けるのは、容易なことではなかったからだ。途中で利市が根を上げると踏んでのことだろう。しかし十五才の頃から乃木工房に修業に入った利市は、我慢強さには自信があった。その条件を即答で呑み、週四日の多喜の出勤日に通う日が始まったのだ。
友禅の話題を出さない限り、多喜は利市をちゃんと客として遇してくれた。案外に話し上手で、人気があるのもうなずける。最初はその女装に違和感もあったが、見慣れると『ふぁにー・ふぇいす』のホステスの中でも、キレイどころに入るだろう。店内の照明が薄暗く、ほんのり赤いライティングの効果もあると言えたが、顔の造作が基本的に整っているのだ。
絢人が自慢らしく、彼の話になると相好が崩れた。頭もいいし、習っている剣道の筋も良いと親馬鹿丸出しで話す。
多喜のそんな様子を見ると、利市は本来の目的を忘れ、いつの間にかの客の一人となっていた。
「毎晩、嵐山の辺まで出歩いてるみたいやけど、変な虫がついたんやないやろな?」
乃木工房の事務方を取仕切る宮前が、将来、工房を背負って立つ利市を慮って言った。飲み歩く場所は出町柳にもたくさんある。一時間以上かけて、それも毎晩飲みに行くとなると、理由は女性絡みとしか考えられないのだろう。利市は独身で、乞えばいくらでも好条件の、工房にとっても有益な縁談が入る。宮前が心配するのも無理からぬことだった。
「そんなんやないんです。どうしても教えてもらいたい人がいて、その接待みたいなもんやから」
「そやったらええけど。あんまり酒、強い方やないんやし、毎晩、遅遅やったら仕事にも差し支えるさかい、ほどほどにしときや」
酒は自分が気をつければ大丈夫だったが、店内の空気の悪さには辟易した。店は古いビルの地下にあって、空調と排煙設備はあるものの、それも古くなっているのか完全に煙草の煙は排されず、何となく店の中は霞んで見えた。ホステスが使う香水の匂いと、アルコール、煙草の匂いなど、さまざまなものが少しずつ混ざり合って、空気に微妙な匂いをつけている。利市は子供の頃に喘息を患った。成人してからほとんど出なくなったが、疲れが溜まって免疫力が低下すると、軽く咳き込むこともある。
(やばいな…)
百夜通いを始めるにあたって、利市は久々に吸入器を携帯するようになっていた。持っているだけで安心する御守りのつもりだったが、通い始めて五十日を越えた辺りから、店でしばしば咳が出るようになり、ついにある夜、発作が起きた。




