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(二)

 乃木文人は三年前に病没していた。通された居間に小さな仏壇があり、運転免許証の写真だと思われる無表情な遺影が飾られていた。享年四十四とのことだが、もっと老けて見える。

 男は鳴沢(なるさわ)多喜(たき)と名乗った。文人とは十年来の友人で、今は彼の息子・絢人(あやと)の保護者であり、この店を経営しているらしい。およそ儲かっているとも思えない店だが、暮らし向きは窮しているようには見えなかった。

「それで、フミさんに何か用やったんか?」

 利市は落胆の色を隠せない。糸口が途切れてしまった。もしもあの冬川紫風の着物が文人の手によるものだったなら、彼が亡くなった今となっては、新たに見ることは難しいだろう。

 それでも確かめずにはいられず、利市は三枚の写真をテーブルの上に並べた。

「この着物なんですが、見覚え、ありませんか?」

 多喜は手に取るでもなく、写真を見る。利市は着物の経緯を話した。オークションや古着市で出ていたもので、乃木冬川の銘がついているが偽物であること、その足跡を辿ると、この店に行き着いたこと、そして製作者が文人ではないかと思っていることなどなど。

 多喜は利市の話を、時折、皮肉っぽい笑顔を見せながら聞いていた。その様子から三枚の着物に関して、まんざら知らないでもないように利市には思えた。

「ほんで、これを作ったんがフミさんやったら、どうなんや? 今まであの人を探してたように思えんかったけど?」

「…この色は、誰もが出したくても出せんかった色なんです。もしこれが文人さんの手によるものやったら、どうしたらこの色が出せたんか聞いてみたくて」

 くつくつと多喜は笑い、「どいつもこいつも」と呟いた。

「思い出した。あんた、川村さんって言いやったな? 下の名前、リイチやろ? 確か唯一、冬川の『冬』の字を使こうていい弟子らしいやないか」

「はい」

「絵柄も染色も師匠に引けを取らんって言われてるのに、未だに『冬』を名乗ってへんのやて? それは何で?」

「それは…」

 利市が未だに『利市』のままなのは、本当の意味で後継足り得ないと彼自身が思っているからだった。冬川紫を再現するのは無理かも知れない。しかし自分なりに納得する紫色をさえ、利市は表現出来ずにいた。周りは冬川紫を期待している。それがゆえの『冬』だと、兄弟子達の目が見ている。紫を染められないままでは、『冬』を名乗れない。

「たかが紫やないか」

 すぐには答えられずにいる利市に、多喜が言った。心の中を見透かされた気分だった。

 机上の写真に落ちていた視線を、利市は彼に向ける。

「たかが紫?!」

 自然、声が大きくなった。

「紫やから紫て言うてる。紫以外の何色に見えるっちゅうんや」

「ただの紫やない! 誰も染められへん、冬川紫なんや」

「ほな、これは何や? その冬川紫やないんか? 誰も染められへんかったはずの紫がここにある。その紫を使こうた着物が出たから、あんたはわざわざ探してここまで来たんやろう?」

「それは…!」

「長いこと放ったらかしやったフミさんの居所探して、ここまで来たんは、この色を冬川紫やて認めたから違うんか?」

「そうや、冬川先生の血を引く文人さんやったら、出せてもおかしないと思て」

 二階から軽い足音が下りてくる。大人二人が――利市一人が熱くなっている居間に、肩からカバンをたすき掛けにした絢人が入ってきた。それから並べられた写真を一瞥すると、

「でもそれ作ったん、タキちゃんやで」

指差して言った。

 今しも「友禅師ではない人間に何がわかる」と出かかった利市の言葉は、出口を失い飲み込まれた。

「塾、行くんか? 携帯、持ってき」

「もう入れた。話、長なるんやったら、店札、ひっくり返しとくけど?」

「頼むわ」

 絢人は利市に向かってぺこりと頭を下げ、店の方から表に出て行った。

 彼の出現が、利市の頭を冷やす。と言うよりも思考を停止させてしまった。

 写真に目をやり、多喜を見た。

「ほら、たかが紫やろ? 俺でも染められるんやさかい」

 片肘をついた彼はにやりと笑った。

 「友禅師なのか」と言う利市の問いに、多喜は「前はね」と答えた。件の三枚は二年前に作ったもので、それを最後に友禅からは足を洗ったのだと付け加えた。

 文人の作ではなく、まったく乃木とは関係のない人間が作ったものだったことは、利市をひどく驚かせる。

 利市は小学校の社会見学で、乃木工房を訪れて手描き友禅に興味を持ち、工房が開いている友禅教室に通った。中学を卒業してから正式に乃木冬川に弟子入りし、師が亡くなるまでと合わせて十五年余り、その作品を間近で見て学んだ。

 もっと長く工房で働いている人間もいるが、その誰よりも師の作風を理解していると、利市は自負している。しかし多喜は、冬川の友禅を見続けてきた利市よりも正確に、冬川の作品を再現してみせたことになる。色はともかく図案も、虫くいの葉か、枯れの花弁かの違いで、素人目にはわからないほどだ。たとえ贋作目的で似せて作ったのだとしても、技量が伴わなければ成しえない仕業だった。

「したら、今は?」

「ここの店主とフリーター」

 あれほどの腕を持ちながら、使わずにいると言うことが、友禅の世界で生きている利市には信じられない。

 「たかが紫」発言で熱くなった利市の心は、毒気を抜かれて平静を取り戻す。かわりに別の熱が満ちてくるのがわかった。三枚の作者が本当に多喜であるなら、再びあの色を見ることが出来る。

「鳴沢さん、お願いがあります」

「嫌や」

 話の内容を最後まで聞かず、多喜は答えた。利市は面食らい、その表情を見て彼は面白げに笑った。

「まだ何も言うてないけど」

「言わんでもわかるわ。フミさんに頼みたかったことを、俺に頼みたいんやろ? お断りや」

「なんで?」

「そんなんに時間かけるほど生活に余裕ないから。食うて行けんくなる」

「それなりのお礼はします。何やったら、うちの工房に入ってくれても構わない。話はつけるから」

 多喜は相変わらずへらへらとした笑みを浮かべてはいるが、少し目の印象が変わったように利市は感じた。どこを見ているのか、微妙に視線も外れている。

「友禅、嫌いやねん。二度とする気ない。悪いな」

 そう言った時、一瞬、彼から笑みが消えた。「おや?」と利市が彼を見つめると、また先ほどの笑みが浮かぶ。

 会話が途切れた時、電話が鳴り、多喜は受話器を取った。

 あきらめきれない――利市は机上にまだある写真を見た。師が亡くなって六年。あの仕事はもう見られなくなった。白い反物が命を吹き込まれ、着物のために鮮やかに変容していく様子は、どんなに焦がれても二度と見ることは出来ないのだ。思い出は年月と共にやがては不鮮明に失せていく。せめてあの色だけは、失いたくない。

「アヤの塾がある日は、定時出勤出来へんの知ってるでしょ? あいつが帰ってきたらすぐ出るから、それまで何とか頑張れんの?」

 多喜の電話の声で、利市の意識は現実に戻った。顔を上げた利市と彼の目が合う。彼の表情が閃いたと言った風なものに変わり、受話器の口を押さえた。

「すぐ帰らなあかん?」

 また毒気を抜かれた…と、利市は思った。


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