うららの神様
あたしの手のひらのなかにすっぽりとおさまる、あたたかくてわずかに湿り気をおびた、ちいさな手。弟の、カズキの手。
桜吹雪舞う川沿いの小道を歩く、うららかな昼下がり。カズキはあとひと月で四歳になる。あたしとは十一も年がはなれている。
「わあ。おねえちゃん、きれいだね」
カズキのはしゃいだ声。きらきらと輝きながら、うす青い空を、桜の木々を、世界のすべてを映しこんでいる小さなひとみ。
川沿いに植えられた桜は、どれも盛りをすこしすぎてしまったようで、風が吹くたびにはらはらとうす桃色の花びらを惜しげもなく散らした。カズキのやわらかい髪の毛の上にもいちまい、花びらがくっついている。蝶みたい、あたしは思った。
「着いたよ、カズキ」
手をはなすと、カズキはいちもくさんに芝生の中心にある大きな遊具めがけて駆けていった。すべり台やターザンロープや、名前は知らないけどロープでできたネットみたいな遊具が合体した、大きなアスレチック遊具。それを取り囲むようにしてあるドーナツ型の砂場。うじゃうじゃと、ちいさな子どもが蟻みたいに群れている。すこし離れたところで、おしゃべりに夢中になっている若いママたち。時おり、自分の子どもにむかってワントーン高い声を投げる。まあくん、それ、おともだちにもかしてあげなさい。
ここは、家から十分ほど歩いたところにある、大きな運動公園。グラウンドや、ひろい芝生や、ジョギングコースや、今あたしがいるような、こどもの遊ぶ広場がある。みずいろの空、きみどりの芝生、花壇のきいろいパンジー。遊具のある広場のむこうにはテニスコートがあって、ラケットがボールを打つ音が遠くでひびいている。すこーん、すこーん。あくびが出るほどのどかな時間。
あたしはおととい中学を卒業した。もはや中学生でもないし、かといってまだ高校生でもない。あたしはあたし。さっさと卒業したいって思ってたくせに、いざ放り出されてみると、いやに宙ぶらりんでこころもとない。どこにも属さない、丸腰のあたし。
ベンチに腰掛けて、リュックから携帯を取り出す。だれか友達にメールしようかとアドレス画面をスクロールしてみる。結衣はたぶん彼氏とデート中。さつきは家族で旅行に行くって言ってた。みんな忙しい。弟のお守りくらいしかやることのない、ヒマなあたしとはちがうのだ。
あたまがぼーっとする。春の、かすんだ空気のせい? それとも、受験勉強から開放されて、脳みそのどこかがゆるんでそこから何かが流れ出しているのかもしれない。じわじわ、ゆるゆる、と。
「おねえちゃん、見て見て」
カズキがほっぺたを真っ赤にして、自分の築いた砂山を誇らしげに見せびらかしている。あたしは携帯を仕舞った。ため息。砂山に、うちから持ってきた洗剤の計量スプーンで、さらさらの乾いた砂をふりかけているカズキ。
「しろごな、しろごな」
何かの呪文みたい、って思う。「しろごな」は白い粉って意味。砂場の砂を少し掘ったら出てくる、湿った黒っぽい砂はくろごな。表面にある、乾いた白っぽい砂はしろごな。そういえば、あたしもちっちゃい頃、そんな風に言ってた。たとえば泥だんごをつくるとき、仕上げに「しろごな」をまぶすようにかけると、表面がコーティングされたようになって、砂つぶがきらきらひかって上等なおだんごになる。チョコレート・トリュフに粉砂糖をまぶすのとおんなじ。トリュフ。
胸の奥がわずかにちくっと痛む。ため息、ふたつめ。
カズキは砂山の下のほうにトンネルを掘りはじめた。カズキの反対側にも誰かいる。3、4歳くらいの女の子。うちの近所では見たことのない子。しゃがんで、もくもくとトンネルを掘りつづけている。
「おねえちゃん、それ、とってよ」
カズキが、砂場のはしっこの方に転がっているプリンの空き容器を指さした。あかいビニールテープがふちにぐるっと貼ってある。ママがつくったおもちゃ。洗剤の計量スプーン、プリンの空き容器、ペットボトルをはんぶんに切って、切り口をテープで巻いてあぶなくないようにしたやつ。ふたつきのちいさな赤いバケツにつめて持って来た。カズキの砂遊びセット。そっとひろって、カズキにわたす。
「ありがと」
砂まみれの手。ちいさな、やわらかな手。あたしは思わず自分の手を見つめてしまう。長くて、関節のところがぼこっと飛び出した、あんまりきれいとは言えない手。男の子みたいな手。あたしとカズキはほんとうにおんなじ生き物なんだろうか? あたしにも、ほんとうに、カズキみたいなちいさい頃があったのだろうか? 砂のことを「しろごな」を呼んでいたことはおぼえているけど、あんなちいさなふにゃふにゃのからだで、広い世界を駆けずりまわっていたなんて。信じられない。
「やったあ」カズキと女の子がうれしそうな声をあげた。ほんとにうれしそうな声。「トンネル、かいつうだ」
トンネルの中で女の子と手をにぎり合っている。黒くてながいさらさらの髪の、目のぱっちりした可愛い女の子。ちいさい子ども同士って、あっという間になかよくなる。女の子はあたしと目が合うと、首をかしげて、はにかんだようにほほえんだ。カズキとはぜんぜんちがう、いかにも女の子ってかんじのしぐさ。
「こんにちは」
「……こんにちは」
「カズキとおんなじほいくえん?」
女の子はゆっくりと首を横にふった。可愛い。
「おなまえは?」
「うららちゃんだよ」カズキがこたえた。宝の地図を手に入れた海賊みたいに、得意気な顔。「あおばようちえんだって!」
「へーえ」
可愛いなまえ。春うらら、の「うらら」かな。きっと春に生まれた子なんだろう。だとしたら、カズキとおなじだ。あたしはカズキのひたいを、ひとさし指でちょんとこづいた。
「まったく、ちかごろの若いコって、手がはやいんだから」
「手がはやい?」
じっと自分の手のひらを見つめるカズキ。しまった、あたしは思った。でも、もう遅い。
「ねえ、手がはやい、って、どういうこと?」
「……えーっと、ねえ」
「ねえ、手がはやいってなに? 足がはやい、おそいっていうのはあるけどさあ、手にもはやいとかおそいとかあるの? でも手できょうそうはしないよ。ねえ、おねえちゃん」
「あー、はいはい。ごめんごめん、おねえちゃんの言いまちがい。手にははやいもおそいもありません」
カズキはぶすっとむくれて、なんだか納得いかないといった顔をしている。
「ほら、うららちゃんが呼んでるよ」
ぱっとカズキのひとみがかがやいた。ふたたび、うららちゃんと砂山で遊びはじめる。あぶない、あぶない。最近のカズキの「なぜ、なに?」攻撃は、半端なくしつこいのだ。それにこんな小さな子に「手がはやい」なんて言っちゃって、反省。
……カズキ。「手がはやい」っていうのはね、あんたのパパみたいなひとのことを言うの。
もう、ずいぶん前。あたしの背がいまより十センチも低くて、カズキがまだここではないどこかにいたころ。あたしのお父さんとお母さんは離婚した。
それから三ヵ月くらいあと、ひどく寒いバレンタインの夜。お父さんは白い息をはずませて帰ってきた。ひどく機嫌がよくて、すこしアルコールのにおいがした。
「おとうさん、今日、なんの日でしょ?」
あたしがまとわりついて聞くと、お父さんはネクタイをゆるめながらとぼけた。
「何だったかなあ。里奈の誕生日は五月だし、お父さんの誕生日は、来月だもんなあ」
ごはんのあと、お父さんはあたしのためにミルクを温め、自分のためにコーヒーを淹れた。渡すなら今かな、と思った。あたしはピンク色の包みを背中にかくしてどきどきしていた。お父さんにはじめてチョコをつくったのだ。つくったと言っても、板チョコを溶かして固めて、白いチョコペンで文字を書いただけだったけど。お父さんを元気づけたかった。お母さんが出て行って、落ち込んでいると思っていたから。
あたしがチョコを渡す一瞬前、お父さんのほうが白い包みをテーブルの上に置いた。
「どしたの? これ」
「もらったんだ。娘さんといっしょに食べてください、って。ま、義理チョコだよ」
どう見てもそれは義理チョコではなかった。かたちの揃っていない、いびつな球形のトリュフ。手作りだ。お父さんはすこしきまり悪そうにしていたけど、口の端はゆるんで、わずかに上がっていた。ああ、これをくれたひとのこと、すきなんだな、って気づいた。そしてほぼ同時に思った。あたし、どうしてお母さんのほうについていかなかったんだろう、って。
離婚の話をあたしにしたときの両親のすがたを思い出す。ふたりとも済まなそうな顔をしていたけど、なんて言うか、お父さんのほうがうちのめされているような感じで、ひと回り背中が小さくなったようにみえた。西日のさすいつもの茶の間に、きちんと正座してあたしの目をみていたふたり。お母さんだって同じくらいつらかったはずだし、あたしだって泣きたいくらい悲しかったんだけど、その時は、なぜかお父さんがいちばん可哀相にみえた。お母さんよりお父さんのまとっている影のほうが、なんだか濃くみえた。それであたしはお父さんをほうって置けなくなってしまった。馬鹿だった。こんなにはやくあたらしいひとを見つけるなんて、思ってもみなかった。全然大丈夫なんじゃない、あたしがいなくても。
お父さんとあたらしいママが再婚したのは、それから一年後。カズキがうまれたのは、そのまた一年後のことだ。
すこし風が出てきた。あたしはパーカのジップを上げた。天気が良くて日が射しているところはあたたかいのに、風はひんやりとつめたい。
あたらしいママは、お母さんより十も年下だった。だから、あたしにしてみると、ママというより、もうほとんどそのひとは「お姉ちゃん」というかんじだった。不器用だけど一生懸命なひと。あたしのママになろうと、必死でがんばってた。ママは、いいひとだ。いいひとなんだけど。
はじめてママのことを「ママ」と呼んだときのことを、あたしは覚えている。カズキは二歳くらいで、いたずら盛りだった。ちょっと目をはなしたすきに、ごみ箱をひっくり返したり、雑誌や新聞をびりびりに引き裂いたり。まるで台風の目。その日もどこからか、白い靴下をひっぱりだしてきて、リビングにほうり投げてた。パパ(そのころから、ママにつられて「パパ」と呼ぶようになっていた)は「しょうがないなあ」とぼやきながらそれを拾って、あたしに聞いた。
「なんだよ、これ。誰のだ?」
「しらない。ママのじゃない?」
言ったあと、あっ、と思った。パパは気づかなかったのか、気づいていないふりをしたのか、なんにも言わなかった。
日常の積み重ねは、わすれたくない大事ななにかを、いつのまにか奪っていく。
風はだんだん強くなり、いよいよ肌寒くなってきた。花冷え、って言うのかな。空の色が白っぽくなって、木々に降り注いで葉っぱの先できらめく光がわずかにオレンジがかってきた。日が落ちる前に帰らなきゃ。カズキたちが風邪をひいたら大変だ。「パパ」とママの、大事なカズキ。広場のはじっこにある時計台を見やると、もうすぐ五時だった。
「カズキ。もうすぐ帰るよ」
「えー。いやだー。もうすぐって、いつ?」
「五時になったら」
首をかしげるカズキ。あたしは時計台を指さす。
「ながいはりが、十二のとこに来たら」
「……」
「わかった?」
返事はない。あたらしくできた可愛らしいガール・フレンドを見つめている。あたしは彼女の前にしゃがんで、黒いひとみを見つめた。
「ごめんね」
首を振るうららちゃん。
「うららちゃん。おかあさんは?」
「……」
「おとうさんと来たの? おばあちゃん?」
なんにも言わない。ただ、首を横にふるだけ。あたしはため息をついた。これでみっつめ。
それにしても、見れば見るほどきれいな子だ。まゆの上でぱつんと切りそろえた前髪、吸い込まれそうに大きなひとみ。濡れたように長くて濃いまつ毛。陶器のようになめらかな白い肌が、熟れはじめの桃のようにほんのり色づいている。うらら、っていう可愛らしいなまえが、ちっとも浮いていない。
そのとき、五時のチャイムが鳴り始めた。時計台の上のスピーカーから流れる鐘の音。「ななつのこ」のメロディ。
「あっ」
カズキが空を見上げる。
「五時だよ、カズキ」
「ねえ、おねえちゃん。これ、だれが鳴らしてるの」カズキの目がきらきらしている。「ねえ、かみさまが、鳴らしてるの」
あたしは苦笑した。カワイイな、って思った。
「そうかもね。かみさまが、教えてくれてるのかもね。もう五時ですよ、って」
実際には公園の管理事務所が流してるんだろうけど。そう心のなかでひとりごちる。
「ねえ、かみさまって、どこにいるの。おそらのうえ?」
カズキは直立不動で、天をまっずぐに指さした。小さいころ絵本で見た、「おしゃかさま」みたいなポーズ。
「おそらじゃないよ」
突然、うららちゃんが口をひらいた。清い水のなかを鈴が転がっていくような、澄んだ声。
「あそこにいる」
うららちゃんは、今いる場所と反対方向にあるベンチの奥の、つつじの茂みをゆっくりと指さした。つつじの、赤むらさきとピンクをまぜたような鮮やかな花が、ちらほらと咲いている。冷えた風が吹いて、茂みがざわざわと揺れた。うららの真っ黒い髪がなびいて、白い肌にはりついた。
何言ってるの、この子。
すっ、と、あたりから音が消えた。時がとまったような気がした。カズキはまばたきもせず、つつじの茂みを見つめている。まったく、ちいさな子って、唐突にへんなことを言い出すんだから。あたしはそう思いつつも、うららちゃんの指さすほうから目をそらせない。
こんなにきれいな子が、一点のしみもない、うつくしい肌とひとみを持った子が、何か揺らぎのない確信にみちた目で「かみさまがあそこにいる」と言っている。それはなぜかふしぎな説得力をもって、ぐんぐんとあたしにせまってきた。うららちゃんのうつくしさが、清らかさが、まるでこの世のものではないようにさえ見えてくる。どうかしている。こんな、ちっちゃい子の言うことを真に受けるなんて。ばかげている。「何か」を期待してしまうなんて。あたまのすみっこでそう思いながら、でも、コップにそそいだ水の表面に誰かが息をふきかけたみたいに、あたしの中の何かが、ゆらゆらと揺らいでいく。
あたまの芯がじん、としびれた。遊んでいるこどもたちや笑いさざめく若いママたち、遊具のむこうの芝生でバトミントンをしている男の子たち。すべて動きをとめてしまって、まるで静止画のようだ。唯一、つつじの茂みだけが、いのちを持った生き物のように輪郭がきわだってみえる。一瞬、自分が自分のからだからふわっとはなれていくような、気を失ってしまいそうな感覚が襲ってきた。
知ってる。おぼえがある、この感じ。前にもあった、こういうこと。
子どものころ。今だって子どもだけど、ちがう、もっともっとほんものの子どもだったころ。あたしは毎日、かみさまにお祈りしていた。べつに、なにか信仰があったわけじゃない。自分勝手なひそやかなお願い事を、自分だけのかみさまに祈ってたんだ。
給食にこまつ菜が出ませんように。リレーのバトンを落としませんように。来年の担任はすぎやま先生じゃありませんように。つき指がはやく治りますように……。
お父さんとお母さんが、離婚しませんように。
それが、さいごの願い事。
でも、かなわなかった。あたしのほんとうの家族は、はなればなれになった。お母さんはあたしたちのもとを去り、自分のふるさとのある遠い町へひっこしていった。そこで仕事を見つけると言っていた。
両親が離婚して、はじめてお母さんの家、つまりおじいちゃんとおばあちゃんの家に泊まりに行った時。それまでは、泊まるときはいつもお父さんも一緒だったのに、あたしはひとりで電車とバスをのりつぎして行った。だれにも内緒で家を出てきたからだった。お母さんとは月に一度だけ会える約束だったのに、それを無視したんだ。
そのとき、すでに、お父さんのこころの中にはあたらしいママが住みついていた。
夏だった。蝉が鳴いていた。ここだって都会とはいえないけど、お母さんの町はそれ以上。筋金入りの田舎で、電車がすすむほどに、窓の外を流れる景色から派手な看板やお店やパチンコ屋なんかが消えて、かわりに畑や木々のみどりが増えてった。ながい間電車にゆられて、やっと着いたと思ったのに、バスは本数がすくなくて待っても待っても来なかった。一時間以上待った挙句、ようやくバスがきて、あたしはどきどきしながら運転手さんに行き先を確認した。乗るバスを間違えたら、あたしはもう二度とどこへも帰れないんじゃないかと思ったのだ。こころぼそかった。バスははしる。あたりにはあおあおと茂る田んぼばかり。遠い山と空のさかい目はいやにくっきりとしていて、バス停からお母さんの家までつづく長い坂道をのぼりながら、家がみえた時には、あたしは倒れそうにくらくらしていた。
「里奈!」庭のひまわりやタチアオイにホースで水をあげていたお母さんが、あたしに気づいて目を大きく見開いた。「どうしたの」
「おかあさん」
あたしはお母さんの腕のなかに飛び込んだ。涙と鼻水と汗でぐしゃぐしゃになった顔を、お母さんの胸の中にうずめた。やわらかい花のような、お母さんがいつも使っていた洗剤のにおいがした。
お座敷で麦茶を飲んで、それからお母さんは焼き飯をつくってくれた。よく、土曜日のお昼につくってくれていた、お母さんの焼き飯。ずっと台所でお母さんにまとわりついて見ていたのに、あたしはどうしてもおんなじようにつくれなかった。お母さんがしていたように、隠し味にバターをいれても、ハムじゃなくて魚肉ソーセージをつかっても、だめ。お母さんの味になんない。あたしはときどき胸がつまりそうになるのをこらえながら焼き飯を食べ、それから、まくしたてるようにしゃべった。学校の話や、お母さんと仲がよかった、近所のスーパーのレジのおばちゃんの話なんかを。お母さんは目をほそめて、うん、うんとうなずいた。じっと、しずかな目で、あたしを包み込むように見つめていた。全部見透かされているような気持ちになった。あたしがほんとうに言いたかったことを、全部。
「……お母さんと、一緒に、暮らす?」
ふいに、お母さんがそう言ったとき。なぜだろう、あたしは何も言えなかった。うん、とうなずくことができなかった。麦茶の入ったグラスに貼りついた水滴が、やけにきらきらと光っていたのをおぼえている。
つぎの日の夜。あたしはお母さんと一緒に電車にのって、自分の暮らす街に帰った。ひとりで帰れるよ、と言ったのに、お母さんは、ちょうど友達のところへ行く用事があるから、見送りはついでよ、とわらった。ほんとのところはどうだったのかわからない。いつの間に連絡をとったのか、駅にはお父さんが迎えに来てくれることになっていた。電車がすすんで、駅で止まるごとに、乗ってくるひとの数がふえた。街に近づいているのだ。お母さんはなにも言わず、ただ、ずっとあたしの手を握っていた。あたしは窓の外を流れる、藍色のまったりとした闇と、そこに溶け込むお店や家々のはなつひかりを見つめていた。
車掌さんが、あたしの降りる駅の名を告げる。お母さんが降りるのは、もっと先の駅だ。
「また、いつでも会いに来なさい」
お母さんはあたしの目を見つめていた。ぎゅっ、とお母さんの手をにぎる。一緒に、来てほしい。駅で待ってるお父さんのところに、あたしたちのところに、もどってきてほしい。言えなかった、本当の願い。お母さんはきっと気づいていたけど、そうしなかった。
降り口のドアがひらく。お母さんはあたしの手をはなす。
スーツ姿の男の人たちにもまれるようにして、あたしは電車から降りた。すぐにドアは閉まる。お母さんがドアの窓からあたしを見ているのがわかる。泣いているのかもしれない。
ゆっくりと電車が動き出す。ホームの白線ぎりぎりのところで、あたしはそれを見ていた。青い電車の、いくつも並んだ四角い窓。ぼうっと、白いひかりをはなつ、窓、窓、窓。ろうそくの炎のように揺らめいてみえる。あたまの芯が、じんわりとしびれていく。加速しているはずの電車が、あたしの目にはスローモーションでうつる。次第に、世界から音が消えていく。
運ばれていく。だれかが、運んでいく。
電車が、細長い長方形の箱が、目の前を通り過ぎる。お母さんののった電車。知らないたくさんの人たちがのった電車。それぞれが、みんな、あたしのいる場所とはちがうどこかへ運ばれていく。あたしはそれを止められない。みんな、みんな、みんな。行ってしまう。流されていってしまう。
あたしはかみさまのことを思った。ちいさいころから知ってる、あたしだけのかみさま。あたしの願いを聞いてくれなかった、かみさまのことを思った。
電車は行ってしまった。やがて、ゆっくりと世界が戻ってきた。景色がふたたび動きはじめた。
ホームの小さな売店で立ち読みをしているおじさん。携帯でだれかとしゃべっている茶色い髪の女のひと。改札できっぷをきっている駅員さんの紺色の制服。流れるように過ぎ去る人びと。汗と香水とほこりの混じったようなにおい。
改札をぬけると、お父さんが待っていた。心配そうな顔をした、のちにあたしのママとなるひとと、一緒に。
「おねえちゃん」
カズキがあたしの服のすそを引っ張っている。あたしははっとわれに返った。不安げなカズキのひとみ。うららちゃんはつつじの茂みを指差したまま、微動だにしない。黒髪がなびいて、巫女のように神々しく見える。あたしはカズキをぎゅっ、と、抱きしめた。とくとくと、小鳥のようにせわしなくうごく、カズキの心臓の音。
「だいじょうぶ」ゆっくりと、つぶやく。「だいじょうぶだよ、カズキ」
つつじの茂みががさごそと音をたてて揺れた。カズキがあたしにしがみついた。うららちゃんの頬はうす紅色に染まっている。目がらんとかがやいている。
何か、いる。
ごくりとつばを飲む。まさか、ね。でも、子どもって、何か特別なものがみえるっていうし。ほら、トトロとか、座敷わらしとか、妖精とか。
がさがさ。がさり。ざざっ。
つつじの葉が大きくふるえるように揺れて、その後ろから、何か茶色いかたまりのようなものが飛び出してきた。ひゅんと、風が吹いたようにすばやく。
「……猫」
そう、それは猫だった。茂みの影からあらわれた、茶色いしま模様のうす汚れたのら猫は、ぶるぶるとそのからだをふるわせ、前足をそろえてのびをした。それから、のそりのそりと辺りを闊歩し出した。
「ネコだあっ!」
カズキはあたしの腕の中からつるりと抜け出し、その、どこにでもいる、ありふれた茶色い生きものをつかまえようと追いかけはじめた。猫は無駄のない、かつしなやかな身のこなしでカズキをかわし、あっという間に走り去っていってしまった。
あたしはぽかんと口を開けたまま、目をしぱしぱまばたいた。
あ、そ。猫、ね。
「ぶ、ぶ、ぶ」じわりじわりと、なんとも言いようのない可笑しさが、腰のあたりから背すじを伝って這い上がってくる。「あは、あは、はははは」
「おねえちゃん?」
からだを「く」の字に折り曲げて笑い転げるあたしを、カズキが不思議な生き物を見るような目で見つめている。
「……どうしたの?」
「あはははは、やあだ、あたしったら、おかしいね。猫。猫、ね。あたり前じゃんね、おかしい。いるわけないじゃんね。あんなどこにでもある植え込みの影に、かみさまなんて」
あんなところになんて。いや、空の上にだって。宇宙の果てにだって。いるわけないよ。
「おねえちゃん」
カズキが心配そうにあたしの顔をのぞきこむ。
「……なんで、泣いてるの?」
「泣いてないよ」あたしは目じりから伝い落ちてくるなみだを、手の甲でぬぐいながら言った。「笑いすぎてなみだが出ただけ」
あたしはカズキの手をとった。
「カズキ、帰るよ」
「……うん。でも、もちょっと待って。うららちゃんに、ばいばいしてくる」
カズキは砂場のほうを振り返った。あたしも、さっきまでうららちゃんが立っていたあたりに目をやった。
「あれ」カズキは目をぱちくりさせた。「……だれもいない」
あたしもきょろきょろとあたりを見回す。
「どこに行ったのかな?」
砂場には、さっきまでカズキたちが使っていた、あかいバケツやらプリンの空き容器やらが散乱していた。ふたりのつくった砂山も、だれにも崩されずにそこにある。カズキの掘った穴とうららちゃんの掘った穴が、しっかりとつながって一本のトンネルになっていた。五時をすぎてもまだ明るいせいか、相変わらずたくさんの子どもたちが遊具に群がって遊んでいる。ところどころで、ママたちの、もうかえるよ、おいてくよ、という声が飛び交っている。
ただ、うららちゃんだけがいなかった。
「きっと、もう、帰っちゃったんだよ」
「ぼくに、なんにも言わずに?」しゅんとうつむくカズキ。「ばいばいも、言わずに?」
あたしはカズキの小さな頭のうえにそっと手をおいた。やわらかな髪の毛の感触。きゅうに、この幼い弟がいとおしくてたまらなくなった。くしゃくしゃと、かき混ぜるようにあたまを撫でる。
「また、会えるよ」
「いつ?」
泣きそうな顔であたしを見上げるカズキ。
「いつか」
カズキのきらきらした目を見つめて、あたしは言った。そう、いつか、ね。
そっか、と、カズキはわらった。春の空にうかぶ雲のように、ふんわりと、わらった。