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エアツェールングの宿泊帳  作者: 翡奈月あみ(旧・陽向あみ)
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図書室と研究者


 少し涼しくなってきた朝、メリスは宿の掃除に勤しんでいた。パンを仕入れるようになってから、ラルフに余裕ができ、調理場の手伝いが少しだけ減り、その分を掃除にあてることができている。

 今日は、朝食の前に図書スペースを掃除しようかと思い立つ。春風の導き亭1階には、学校の図書室にも劣らない図書スペースがある。両親が趣味で集めていた本がある部屋を、宿のお客様にも開放しているのだ。


 メリスは、図書スペースの扉に手をかけた。扉を開けて中に入ると、入ってすぐの場所に設けられたソファーに、人影があった。


「あれ、ヴィクトルさん?」


 ヴィクトルは、本を片手にソファーに体を預けていた。朝早くに1階にいるなんて珍しい。いつも夜遅くまで起きている気配のあるヴィクトルは、基本的に昼近くから活動を開始する。側には火の消えたランプがある。ひょっとして、寝ていないのだろうか。

 呼び掛けてからしばらく、ヴィクトルは本から顔を上げる気配がない。覗き込むようにして様子を伺うと、真剣な表情に目が行った。そうやって本を捲っている姿は、いつものハイテンションな様子と違い、少しだけドキリとする。

 余程集中しているのだろう、一向にこちらに気付く気配のないヴィクトル。仕方がないので、ここの掃除はまたにしようと、部屋を出ようとした時だった。


「店主殿?」


 後ろから声を掛けられて、メリスは振り返る。きょとんとした表情のヴィクトルと目があった。


「いつから? というか、朝か?」


 不思議そうに辺りを見回すと、くしゃみをひとつ。


「ヴィクトルさん、もしかして夜からずっと?」


「ああ、そのようだな」


 火が消えて、窓から日が射していたのにも気づかないほど集中していたというのか。メリスは目を瞬いた。


「気を付けないと、風邪引いちゃいますよ!」


「うむ、滅多に引かんから大丈夫だろう」


 思い切り気持ち良さそうに欠伸をして、そんな根拠のない一言。眼鏡を取って、少し潤んだ目を擦る。


「眠れなくてな。少し字を追うつもりが、読み耽ってしまった」


 ヴィクトルは眼鏡をかけ直し、本棚を見上げる。


「素晴らしい本の数だな。様々な分野の物が、必要なだけ揃っていて、無駄がない」


「両親が趣味で集めていたものなんです」


「これだけの本を個人で集めたのか。ご両親は、さぞかし博学だったのだろうな」


 細められた瞳が、優しげに笑った。いつもの自信に満ち溢れた様子のヴィクトルからは、想像がつかない笑顔だった。本質が読めないというか、不思議な人だなぁと、観察してしまう。視線に気付いたヴィクトルが、ん? と不思議そうな表情を返してきた。

 そうしていると、なんだか最初の印象より若く見えて、メリスは質問してみる事にした。


「ヴィクトルさんて、おいくつなんですか?」


「歳か。25を過ぎた辺りで数えるのを止めたな」


「止めちゃいましたか」


「ああ」


 少しの悩む間もなく返ってきたそんな答えに、メリスはどうしてですか? と尋ねる。それには、答えるのを悩むような仕草を見せて、ヴィクトルは口を開く。


「年齢に意味を感じないからだな」


「え?」


「人間は、年齢を知ると大抵言うだろう。何歳なのに、何歳にもなって、と」


「まあ、場合にもよりますけど……」


「それが、理解できん。年齢に何の制約がある? 人間、何歳だろうといつか命は尽きる。ならば、やりたいときに、やりたいことをやらねば人生など一瞬だ。それなのに、年齢という制約をつけられる。それなら、私は年齢不詳で構わないんだ」


 ふふん、と何故か誇らしげに語る。言わんとする事は、分かる。だが、それを実行に移すところが、流石というかなんというか。

 と言うことは、とメリスが口を開いた。


「ヴィクトルさんが、そんなふうに言われた事が?」


 その言葉に、ヴィクトルはうむ、と頷く。


「何度もあるさ。だからこそ、嫌になったんだ。年齢というものが」


「なんとなく、分かります」


 年齢を理由に認められないのは、幼くてもそうだ。まだ何歳、それに歯痒い思いをした事は、メリスにもある。

 真面目な顔で頷いたメリスを見て、ん? とヴィクトルは目を瞬いた。そのあと、ふと優しい笑顔を見せた。


「店主殿は、素直で優しい女性なのだな」


「え?」


「今まで、私のこの持論をすんなり受け入れてくれた人はいない。言い訳だと言われる事もあるしな。自身、分かってもらえずとも、それで良いと思っていた」


 だが、と少し目線を伏せて迷うような沈黙のあと、メリスを見た。


「認めてもらうというのは、存外嬉しいものだな」


 ポンと、頭に手が置かれた。ぎこちなくポンポンと撫でられた頭に、懐かしい気持ちになった。ずっと昔、父親がそうしてくれた事があるように思う。離れていく手を追っていくと、ふあ、と欠伸をするヴィクトル。


「流石に少し眠いな。コーヒーを貰っても良いだろうか?」


「構いませんけど、寝ないつもりですか?」


「うむ。今日は、騎士隊で仕事があるからな」


 目を擦りながら、そう答える。


「それなら尚更、少しでも寝たほうが良いんじゃないですか?」


「寝たら起きない自信がある」


 はっはっは、と笑いながらきっぱりと言い切る。


「身体に悪いですよ?」


「これくらいで応える身体ではないからな」


「じゃあ、コーヒーを淹れますから、食堂に行きましょう」


「ああ。ぬるめの濃いめで頼む!」


「分かりました」


 背を向けて歩き始めたメリスに、そうだ、とヴィクトルが後ろから語りかける。


「素直なのは美点だが、素直すぎるのは時に危ういぞ。人は、平気で嘘を吐く生き物だからな」


「え?」


「優しさも美点だが、その優しさが毒になる人間もいる。毒を受けた人間は、店主殿を攻撃するだろう。ただ、だからと言って、店主殿が悪いわけでも、相手が悪いわけでもない。気にしない事だ」


 なんだか、大切な事を言われているような気はするのだが、いまいちピンとこない。メリスは、戸惑うように問い返す。 


「毒というのは? ヴィクトルさんにとって、そうなんですか?」


「私は違う。店主殿達の優しさは、心地よく受け取っているぞ。だからこそ、それが曇ることのないようにと願うんだ。優しすぎるせいで壊れてしまう人も、私は見てきた」


 少し真面目な顔でそう言ったヴィクトルは、まあ、ただのお節介だと思えば良い、と続けた。


「お節介、ですか」


「今は分からなくても何かあった時、思い出してくれたら良いさ。店主殿は聡い。きっと、理解する。杞憂であれば1番良いのだがな」


 さあ、コーヒーを頼むぞ、といつもの調子に戻ったヴィクトルは、食堂へ歩みを進める。

 不思議な人だなぁと、改めてメリスは思う。いつも突拍子のない行動で人を驚かせているヴィクトル。花火を作るために知識を追い求め続ける彼の本質は、深いところにあるような気がする。彼は、実は誰よりも思慮深く、物事を見ているのではないのだろうか。


「おお! 店主殿、見てくれ、この私が朝の食堂に1番乗りだぞ!」


 その声に図書スペースを出ると、食堂のど真ん中を嬉しそうに占領しているヴィクトルの姿。真面目な話をしたと思えば、次の瞬間にははしゃいでいる。

 その無邪気な姿に、自分の考えすぎなのだろうか、と首を傾げた。ヴィクトルという人物の本質は、どこにあるのだろうか。


「朝から騒々しいですよ。メリス様達にご迷惑が掛かります」


「おはよー。珍しいねー、ヴィクトルさん」 


 階段を、呆れ顔のジークヴァルトと楽しそうな笑顔のハインツが降りてくる。


「むう、束の間の玉座であったな」


 席についた2人を見て、不満そうに頬杖をついた。


「あれ、皆早いね」


 遅れて降りてきたのは、スヴェン。賑やかな食堂を見て、驚いたように目を見開いた。


「おはようございます、皆さん。ヴィクトルさんにコーヒーを淹れるんですけど、皆さんもコーヒーで良いですか?」


「うん、お願いしようかな」


 そう言うスヴェンに、俺もー、とハインツが挙手する。


「すみません、頂きます」


 申し訳なさそうに言ったのは、ジークヴァルト。


「分かりました。スヴェンさんはミルクだけで、ハインツさんは砂糖とミルクたっぷり、ジークヴァルトさんはいつもブラックでしたよね?」


「あ、はい」


 少し驚いたように頷いたのがジークヴァルト。


「うん、ありがとう」


 にっこりと微笑んでスヴェン。


「流石っ!」


 拍手しながら笑ったのがハインツ。

 3人が頷いたのを確認して、ヴィクトルに視線を移す。 


「ヴィクトルさんは、ブラック濃いめのぬるめですよね?」


「猫舌だからな!」


 腰に手を当てるポーズで、何故か威張るようないつもの調子。


「じゃあ、少し待ってください。朝食もすぐ出しますから」


 背を向けて調理場に向かうと、コーヒーの香ばしい匂いが漂う。流石、とラルフの手際の良さに感心して微笑む。


 コーヒーの好みを覚えるくらいの付き合い。その人の細かい本質までは分からなくても、それだけで十分ではないかと、メリスは各々の好みのコーヒーを作りながら、思い直した。


 食堂に戻れば、ハインツとふざけあっているヴィクトル。スヴェンは微笑みながら、ジークヴァルトは呆れながらそれを見守る。

 2階からは様々な泊まり客が降りてきて、各々の日常を始める。自分は、その人たちの生活のちょっとした場面に、そっと寄り添う。


 本当のその人が、どんな人物であろうと、そのちょっとした場面で自分に見せてくれる分が、自分にとってその人の全てなのだ。以上でも、以下でもなく。


 人の本質は、探るものではなく、見せてくれるのを待つものだ。だから自分は、お客様に対して、嘘のないように生きて、接していこう。


「お待たせしました!」


 その言葉に、笑顔を返してくれる人たち。今はそれが、メリスにとっての全てなのだ。

 両親が残してくれたこの宿で、こうした思い出を紡いでいけることが、今は何よりも嬉しい。


 コーヒーを配るメリスを、ヴィクトルは優しげに細められた目で見ていた。


『図書室と研究者』end




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