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エアツェールングの宿泊帳  作者: 翡奈月あみ(旧・陽向あみ)
17/33

異国のパン屋さん


 春風の導き亭、夏の終わり間近。段々と日差しが弱くなってきたように感じる。


 ランチタイムのお客さんの波も引き、メリスはのんびりと仕事を楽しんでいた。


「こんにちは、ですよー」


「あ、リーケちゃん。いらっしゃいませ」


 郵便屋のリーケがやってきた。郵便屋の制服を着ているが、配達は午前のうちに済んでいるため、恐らくお昼休憩だろう。案の定、リーケは日替わりランチを頼むと、空いている席につく。


「段々暑さが和らいでますねー、リーケはなんだか寂しいのですよー」


 そう言えば、差し込む光に変化が出てきた。夏から秋への移り変わりは、どことなく儚い印象を持つ。明るく元気なリーケには、確かに夏が良く似合う。


「配達が暑くなくなるのは、助かるんですけどねー」


 てへ、と笑った姿に笑い返す。強い日差しの中、外を歩いて回るのは、確かに辛そうだ。

 この宿は、外壁に囲まれているとはいえ、街中よりは風通しが良い。外に生えている大樹の陰になると、少し涼しくさえ感じる。

 ただ、調理場はそうはいかない。衛生上窓を開けるわけにもいかず、火を使っているとそれなりに暑い。もう慣れたとはラルフ談だが、それでもやはり涼しくなるのは待ち遠しいようだ。


「あれ? ラルフ、ランチの分のパンってもうないの?」


 リーケのランチをトレイにセットしていると、ランチ用のパンを置いてあるカゴが空だった。


「あー、うん。ちょっと前のセットで終わった。代わりにパスタ付けてる」


 やっぱり最近足りなくなるな、とラルフは困ったように呟く。

 両親の頃はパン屋さんから仕入れていたようだが、メリスとラルフの代では、両親が提携していたパン屋さんが廃業していて安く仕入れられず、なら自分達で焼こうとなったのだ。しかし、もともとパンを沢山焼く用の大きい窯では無かったので、1度に作れる分には限りがある。今まではそれで充分で、朝にランチ用、昼休憩にディナー用を用意していた。だが最近はありがたい事にランチが盛況で、朝に焼いた分のパンでは足りなくなってきたのだ。


「これ以上数増やせないし、どうするかな……」


 他の料理の仕込みもあるので、パンにだけ窯を使うわけにも、時間をかける訳にもいかない。

 どうしたものかと考えつつ、ひとまずリーケにその旨を伝え、料理を提供した。リーケは、パスタ大好きですよーと喜んでくれて、救われた気分になる。


 ランチタイムが終わり、メリスとラルフは帳簿を睨んでいた。やがて、駄目だぁ、と机に頭を預けてしまう。


「どう頑張って計算しても、窯を増やす余裕はない……」


「だよなぁ。それにもし窯がなんとかなっても、俺の手が回るかわかんないし」


 最近、ラルフがいつもより早く起きて支度しているのを知っているメリスとしては、これ以上無理をさせたくはない。


「かと言って、その後人を雇うにしても、お給料出す余裕がないし」


 頬杖をついたメリスは、手にしたペンで帳簿のページをちょん、と突いた。


「だよなぁ。安く譲ってくれるとこがあれば一番良いんだけど」


「パン屋さんかぁ……」


 呟いた後でメリスは、あ、と短く声を漏らす。ラルフが、ん? と視線だけで続きを促す。


「この間ね、シュトルクさんの演奏を聴きに、新しくできたパン屋の2人が来てたの」


「新しく? 郵便局側じゃなくて?」


 今までは、パン屋と言えば郵便局の近くにある『街のかまど』という一軒だけで、そこはラインヒルデの雑貨屋にパンを納品していた。値段も勿論、そんな理由もあるし、何より宿から遠いので、毎日の仕入れを諦めたのだ。


「うん。食堂の通りからちょっと外れたところ。出来た時に行ってみたの」


 新しくお洒落な内装で、良いなぁと思いながら買い物をした。勿論、パンもとても美味しかった。試しに一番シンプルなパンを買ったのだが、ふわっとした食感が印象に残った。


「お休みの日はランチ食べに来てくれたりするんだ」


「へぇ、そうなんだ」


「もしかしたら、頼めないかなぁ? あ、でも、あのパン屋さんも2人で営業してるみたいなんだよね」


 だとすれば、もしかするとそんなに余裕はないのかもしれない。


「とりあえず聞いてみたら? ここで悩んでても解決しないだろ」


 そうだね、とメリスは頷いた。


 善は急げとは言うものの、日々の予定もあり、パン屋に顔を出せたのはその日から2日後だった。

 ランチタイムの営業を終えた午後3時過ぎ、ラルフの手が空いたのを見計らって、メリスは、パン屋へと向かう。

 『小麦工房 ムーシュン』と書かれた真新しい木目の看板が掲げられている。ムーシュンとは、どういう意味なのだろうか。メリスには聞き慣れない言葉だった。

 真新しい木の香りがする押し扉を開けて、中に入る。すると、新しい木の香りと、なんとも言えないパンの香りに包まれる。


「こんにちは」


「いらっしゃいませ。あら、宿屋さん」


 挨拶したメリスを、にっこりと微笑んで出迎えてくれたのは、優しい色の赤髪を緩くひとつの三つ編みにした女性。カウンターで、帳簿を確認していたようだ。その手を止めた彼女に、メリスは微笑み返して名乗る。


「メリスさんですね。私はユミルと申します」


 ユミルさん、と繰り返した後で、珍しい響きだなぁと気にとめる。

 お買い物ですか? と尋ねられ、メリスは口を開く。


「あの、実は、今日はお話ししたい事があって来たんです」


「まあ、なんでしょう?」


 メリスが話を続けようとすると、ユミル、と呼び掛ける声がした。

 会計カウンター付近にいたユミルに気を取られていたメリスは、声が聞こえた方へ視線を移す。いつの間にか、男性が立っていた。黒く長い髪を下の方でひとつに結って、左肩から前に流している。メリスがペコリとお辞儀をすると、男性は軽く頭を下げる。


「すまない、来客中だったか」


 低い声が無愛想に告げた。彼の後ろには、緑色のカーテンが下がっていて、奥の部屋への入り口になっているようだ。戻ろうとする男性に、ユミルが声を掛ける。


「セイラン、お茶を用意して頂けますか? こちら、宿屋のメリスさん。少しお話があるようなので」


「了解した」


「あ、お構い無くっ」


 メリスは慌ててそう言うが、セイランと呼ばれた男性は、スッとカーテンをくぐって奥の部屋へと消える。男性もまた、珍しい響きの名前だ。2人とも、この辺りの出身ではないのかもしれない。


「メリスさん、どうぞ、そちらにお掛けください」


 ユミルは店内に設けられたイートインスペースを指す。礼を言って席に付くと、セイランがお茶を持って出てくる。メリスとユミルの分だけを淹れると、自分はその近くの壁に背を預けて立つ。空いた席とセイランを見比べたメリスに、ユミルが微笑みかける。


「彼はセイランといいます。その方が落ち着くんですって」


 その言葉に、セイランは軽く頷くような仕草を見せた。

 それで、お話というのは? と続けるユミルに、メリスが頷く。


「単刀直入になりますけど、うちの食堂にパンを売って頂けないかと」


 まあ、とユミルが目を見開く。


「うちのパンをですか? でも、宿屋さんで出されていたパンもとても美味しかったですけど」


 実は、とメリスは事情を簡単に説明する。


「なので、もともとそんなに量が作れなくて。厚かましいお願いなのは承知しているので、もし良ければ、なんですけど」


「仕入れて頂けるのは、こちらとしても助かります。まだこの街に来て日も浅いですし、宿屋さんで出して頂けるなら、宣伝にもなりますから」


 ね? とセイランに視線を移す。セイランは静かに頷いた。


「引き受けて下さるんですか?」


「より沢山の方にうちのパンを食べて頂けるなら、こちらとしても嬉しいですから」


「ありがとうございますっ」


 顔を輝かせたメリスに、ただ、とユミルが言葉を続ける。


「ひとつ、条件をお出ししても?」


 小首を傾げて人差し指を立てる仕草。


「なんでしょう?」


「宿屋さんで扱っているパンは、うちのパンだという貼り紙や、チラシを置くのをお許し頂けますか?」


「それは勿論です!」


 どんな条件があるのかと緊張した面持ちだったメリスは、ユミルの言葉に大きく頷いた。


「ああ、良かった。では、これからよろしくお願いいたしますね」


「宿屋までは俺が届けよう」


 黙って話を聞いていたセイランが、こちらを見て告げる。お願いしますね、と答えるユミル。メリスは、それはあまりにも申し訳ないと遠慮したのだが、セイランが口を開く。


「タイミングが悪ければそちらに待ち時間が出来る。出来上がってこちらから届けるのが効率的だろう。金銭のやりとりがある以上、こちらとしてもそれなりの対応はする」


 そうですよ、とユミルに笑顔を向けられ、メリスは少し間を置いて頷く。


「ありがとうございます。それじゃあ、お願いします」


「それじゃあ、良かったらこれ、弟さんと食べてください」


 そう言って、ユミルはパンを何個か見繕い、お店の名前が書かれた紙袋に入れ、メリスに手渡した。受けとると、パンの良い香りが鼻先に漂う。


「わあ、ありがとうございます。お代は……」


「結構ですよ。これからお世話になるんですし」


 その言葉に、再び礼を言って、今度食堂で何かサービスをしよう、と頭に置いた。

 その紙袋を見て、そうだ、とメリスが疑問を口にする。


「そう言えば、お店の名前ですけど、ムーシュンってどちらの言葉なんですか?」


 ああ、とユミルが口許に寄せていたティーカップを置く。


「私とセイランは、ここよりずっと東の国出身なんです。ムーシュンは国の言葉で、夢の香りという意味です」


 少し発音しやすくしてますけど、と続けた。

 なるほど、とメリスは納得する。パン屋、夢の香り。とても美味しそうに聞こえる、良い名前だ。

 そうなると、2人の名前の響きも、聞き慣れないのは当前だろう。ハイルング辺境のエアツェールングの街には、東の国からの観光客はまず滅多にこない。


「訳しても良かったんですけど、国の言葉を残すと、こんな風に、お客様との会話のきっかけにもなるんですよ」


 ふふ、と嬉しそうに笑うユミル。なるほど、と再びメリスは感心する。


「数年前に、パンの勉強をしにセイランとフェアシュプルッフェン地方に来て、そのままこちらでパン屋を開く事にしたんです」


「そうすると、お2人はずっとお付き合いを?」


 お茶を頂きながらそんな質問をすれば、ユミルはきょとんとしてセイランと顔を見合わせた。


「あれ? 違いましたか? てっきりご夫婦かと……」


 いや、と言葉を発したのはセイラン。


「俺は、ユミルの親に雇われている付き人兼用心棒だ」


「セイランを供に付けるのが、私がフェアシュプルッフェンに渡る親からの条件だったんです」


 はぁ、とメリスは頷いた。美男美女でお似合いの夫婦だと思っていただけに、なんだか拍子抜けしてしまう。


「幼い頃から兄のように良くしてもらっていますから、私としても心強かったですし」


 付き人とは、ユミルはそれなりに身分が高いのだろうか、と余計な事が気になってしまう。言われてみれば、どことなく気品に溢れているようにも思えた。

 そんなメリスの視線を受けて、ユミルは言葉を続ける。


「両親が過保護なだけなんです。今の私達は、ただのパン屋さんですから」


 ただのパン屋さん、その言葉にそれ以上追及してはいけない雰囲気を感じて、そうなんですか、と微笑んだ。


「じゃああとは、必要な個数やムーシュンさんがお休みの日をどうするか、弟に確認してご連絡しますね」


「わかりました」


「これから、よろしくお願いします」


 改めてお礼を述べて、メリスはパン屋を後にする。


 帰ってラルフに報告し、ムーシュンのパンを食べてもらう。するとホッとしたように、ひと安心だな、と一言溢す。やはり現時点でもそれなりに無理はあったようだ。これ以上無理をさせる前になんとかする事ができて良かったと、メリスは改めて巡り合わせに感謝する。

 ともあれ、これで心強い味方が出来た。なかなかミステリアスな印象の異国のパン屋さんだが、美味しいパンとユミルの優しい人柄は信頼できると直感した。これから協力していけるとなれば、本当に心強い。


 そしていつかは、ユミルやセイランがいろんな事を話してくれたら嬉しいな、とメリスは思う。


 数日後から、春風の導き亭に夢の香り漂う美味しいパンが配達され始めた。



『異国のパン屋さん』end



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