旅行会社と団体さま(中)
翌日、シュトルクは部屋から何やら道具を持ってきて、約束通りピアノの調律というものをしてくれていた。シュトルクからは、本当に自分が手をつけて良いのか、と何度か確認された。しかし、もともと使い手はいなかったし、メリスもラルフも調律が何かさえ良く分からないので、全てシュトルクに任せる事にした。
食堂はまだ営業開始前。その様子をラルフと2人で見ていたメリスは、思い出したようにラルフに問い掛けてみる。
「お父さんが音楽関係者だったって話、聞いた事ある?」
「父さん? 無いけど、なんで?」
ラルフは少しだけ考えるように目を細めたが、すぐにそう返事が返ってきた。
「昨日シュトルクさんがね、あのピアノ、趣味で弾くにはずいぶん良いものだ、って」
「そうなのか? どうだろ、演奏も下手とか上手いとかは、あんまり覚えてないからな……」
「そうだよね」
記憶にあるのは、暇な夕食の時にピアノを奏でていた父の姿と、日が差し込む暖かい時間に、膝に乗せられて父の指の動きを追っていた事。母が見守るなか、どっちが父の膝に乗るかで、ラルフと喧嘩をしたこともあった。どれも、両親と宿で過ごした暖かい記憶だ。
「喧嘩しながら膝に乗って聴いたの、懐かしいな」
ラルフが呟いた言葉に、思わず笑う。
「おんなじ事考えてた」
その言葉に、ラルフも吹き出すように笑った。懐かしい記憶を共有できるのは、なんだか嬉しい。
ふと時計に目をやると、そろそろ食堂を開ける時間だ。
掃除用具を片付けていない事を思い出し、食堂を開けた後で急いで片付ける。外にある水場で雑巾とバケツを洗うと、洗濯もののロープを引いている木の枝に、雑巾を干す。その木の向こう側で、何かが動いた気配がして、覗き込んだ。
「ハインツさん?」
「ん? やあ」
今日は広場に行かないのか、私服姿のハインツが居た。そして、なんだか奇妙な動きをしている。例えるなら、何もない空間に、あたかも壁か何かがあるように振る舞っていた。壁にぶつかったような動きをしたあと、手のひらで、その見えない壁を確かめるように触る……ような動き。なんだか、本当に壁があるように見えた。
「無言劇、なんだけど」
思わず喋っちゃったから終わり、と笑った。
「やるならこれか風船かなぁって、演出を色々考えてたんだ。奇術師くんとコンビでジャグリングやるのも楽しそうだけど、息を合わせるには多分時間が足りないな」
それが、観光客が来たときの余興の事だと気付く。
「急な話で、すみませんでした」
そんな風に頭を下げたメリスを見て、ハインツは困ったような顔をして、うーん、と少しだけ悩む仕草を見せる。
「俺、人に見てもらえるのって、楽しいんだ。それで誰かを笑顔にできたら、嬉しいし。演出考えてる時もそれ考えると楽しい」
幸せそうにへらっと笑う顔は、見習いの時から変わらない。思わずつられる、柔らかい笑顔。
「人が自分の演技を見て笑ってるのを見て、嬉しくて、道化を目指したんだ」
「そうなんですか」
「うん。だから急でもなんでも、演技の場を与えてもらえるのは嬉しいよー。迷惑じゃないから」
大丈夫だよ、と笑ったハインツに、ああ、とメリスは理解する。彼に掛けるべき言葉は、すみませんではなかったのだ。
「ありがとうございます、当日楽しみにしてますね!」
本心からの言葉を告げると、今度は困り顔ではなく、笑顔を返してくれた。
ハインツと別れて、宿の入り口へ向かう。すると少しだけ、強い風が吹いた。わ、とメリスは思わず目を瞑った。風が止んで目を開けると、パラパラとトランプが数枚舞っている。
「ごめん、メリス店主。それ、僕のだよ」
屈んでカードを拾っていると、スヴェンが宿から出てきた。どうやら、窓辺の席でカードを広げていて、風に拐われたらしい。
「ありがとう」
「スヴェンさんも、余興の?」
カードを返しながら訊くと、まあね、とスヴェンは笑った。
「室内ステージだとカードが無難かなと思って練習中だよ」
パラパラとトランプを操りながら、そういえば、と尋ねられる。
「メリス店主が見た奇術はどんなものだった?」
「私が見たのは、花束とか、鳩が出てくるやつでした」
「ああ、鳩なら丁度今出せるよ」
ほら、と言うが早いか、スヴェンの手に鳩が抱えられていた。パタタタっと少しだけ暴れて、次の瞬間には元気良くパタパタと空に飛び立っていく。
「わぁっ、え? 飛んでいっちゃいましたよ!」
「うん、大丈夫。鳩だから」
「え、あの、スヴェンさんの鳩とかじゃ?」
「広場の鳩だよ」
でも、夕食時の余興は室内だし、食事中だから衛生上も良くないのかな、と首を捻った。そんなスヴェンと鳩が飛んでいった空を見比べて、きょとんとしているメリスに、どうかした? と笑顔で何事もなかったかのように振る舞うスヴェン。
「なんだか、不思議ですね」
「何でもないことを、そうやって見せるのが奇術なのかな。大変な仕掛けを、何でもないようにやってみせたり」
それを喜んで貰えるなら嬉しいよね、と笑った顔は、どこかハインツと同じに見えた。
「スヴェンさんは、どうして奇術師を目指したんですか?」
その言葉にスヴェンは、うん、と少しだけ真面目な表情を作る。言うべき台詞を迷うような沈黙のあと、優しい表情に戻ったスヴェンは、口を開いた。
「泣いてる人を、笑わせたかったから、かな」
「え?」
「僕は、人が泣いてたり、争ってたりするのが本当に苦手でね。そんなとき、ある奇術師がポンって、花を出してて。それまで泣いてた子が、一瞬驚いて笑ったんだ。それを僕もやりたいって思ったのが始まりだったよ」
言いながら、右手から一輪の花を出現させる。ずっとスヴェンを見ていた筈なのに、どこからどうやったのか全く見えなかった。
「魔法みたいですよね」
差し出された花を受け取ってメリスは呟く。そっと花弁に触れてみると、花は、本物の生花だった。
「ありがとう。そう言ってもらえると、とても嬉しいよ」
スヴェンは、本当に嬉しそうに笑った。
「言い伝えられてる古の魔法と違って、奇術にはどうしたってタネはあるから、インチキ呼ばわりされちゃう事もあるけどね」
「えぇ? 酷いですね、こんなに素敵なものなのに」
「ありがとう。でも、メリス店主みたいに思ってくれる人がいるから、僕は奇術を続けていられる」
そう言ってもう一輪花を出し、どうぞ、とメリスの手に持たせた。
練習を休憩にして、街に出掛けたスヴェンと別れて、メリスは宿のカウンターに花を飾った。花瓶を出したのはいつぶりだろうか、やはり花があると景色が明るくなる。これからは定期的に飾ろうかと考えると、少し気分が明るくなった。
シュトルクは作業が終わったのか、もうピアノの前にはいない。布が外されているピアノと飾られた花を見て、なんだかわくわくしてしまう。メリスもまた、精一杯お客様をおもてなししよう! と心に決めた。
そして、1週間後がやってきた。
約束の時間は食堂のオープンと同じ18時で、それまでは他の街を観光しているとの事だった。昼間に立ち寄る観光地で、食べるべき名産の食事は済ませてくるだろうと予測して、宿での夕食はあえてハイルング昔からの家庭料理をメインに準備している。
余興を引き受けてくれた3人は、各々準備を進めていた。メリスはそんな3人に、少し休憩してください、とお茶を出す。メリスもオープン前の休憩として、4人で席に座った。ラルフはできる仕込みだけ今のうちしておきたいからと、厨房でお茶を飲んでいる。
「まだ約束の時間にならないのか」
言いながら、時計を気にしているのはシュトルクだった。眉間に皺を寄せた彼を、たしなめるように、隣に座ったハインツが笑う。
「まあまあ、待ちきれないのは分かるけど待ち時間も楽しもうか、シュトルク?」
「待ちきれないってなんだよ、それじゃ僕が楽しみにしてるみたいじゃないか」
なだめるように肩に置かれたハインツの手を払うと、心外だとばかりに眉間の皺を濃くする。
「違った?」
あれ? と問いかけてくるハインツから目をそらす。
「僕は、ただ何て言うか、早くピアノが弾きたいだけだ」
「それを楽しみにしてるって言うんじゃない?」
きみは難しいなー、とハインツは肩をすくめてみせた。また何か言葉を繋ごうとするシュトルクを見て、向かいで聞いていたスヴェンが、まあまあ、と話に加わる。
「僕たちの職業は、見て、聴いてくれる人がいてこそだから、こういう機会はありがたいよね」
メリスから聞いたらフォローのように取れたそれにも納得し難いものがあったのか、シュトルクはスヴェンに視線を移す。
「いや、だから僕は人前で弾くのが楽しみなんじゃなくて、あのピアノを弾けるのが楽しみっていうか」
「ほら、やっぱり楽しみなんじゃないか」
よせば良いのに、ハインツがシュトルクの言葉を拾う。メリスとスヴェンは、顔を見合わせて苦笑いを浮かべる。
「だからそういう感情の話じゃなくて、ピアノが弾きたいだけだって」
予想通り、またハインツに言葉を返したシュトルクに、今度はメリスが声をかけた。
「シュトルクさん、そんなにあのピアノ気に入ってくださったんですか?」
「は?」
シュトルクの視線がメリスに向かう。
「じゃあ、良かったらたまに弾いてくださいませんか? あんな感じでずっと使われないのも可哀想ですし。シュトルクさんがお泊まりの間だけでも、良かったら」
う、と少し言葉に詰まったシュトルクは、迷うように視線をピアノに動かす。やがて、少し諦めたように、気に入ったって言う訳じゃないけど、と口を開く。
「まあ……調律までしたし。折角だから弾いたほうが良いだろうし」
囁くようなその言葉を受けて、是非、と頷く。
スヴェンが、さすがメリス店主、と前の2人には聞こえない程度に囁いた。
「じゃあ、ちょっと弾いて、指を慣らしてくる」
そう言って、足早にピアノに向かったシュトルクを見て、ハインツが不思議そうに呟く。
「なんで素直に弾きたいって言わないかなー?」
「良いんですよ、ハインツさん」
「あれが彼の、まあ、良いところでもあるよ」
「私も、スヴェンさんに教わったんですけど」
「俺にはわかんないなー」
ハインツがおどけた調子でお手上げの意を示し、その大袈裟な仕草に笑みをこぼす。
シュトルクの奏でるピアノのメロディが響き、ラルフが用意している料理の美味しそうな香りが漂ってきた。時計を見ると、そろそろ良い時間。
メリスは、食堂を開けるために席を立った。
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