旅行会社と団体さま(上)
春風の導き亭、夏も終盤の昼下がり。ランチタイムを終えて一息吐いている時間、メリスは宿のカウンターで1人の男性と向かい合っていた。
「旅行会社、ですか」
メリスは、貰った名刺を手に、少しだけ目を瞬かせた。
目の前の男、名前をカスパルという中年男性。格好は小綺麗で、笑顔に好感が持てる。彼は、小さな旅行会社の従業員だという。
メリスの言葉に、カスパルはえぇ、とにこやかに続けた。
「私の会社が主催する旅行で、ハイルングの名所を回ります。しかし、名所の宿は既に予約が取れなくなっておりまして。是非、こちらの宿にお願いできないかと」
成る程、とメリスは頷いた。何故、こんな無名の小さな宿に旅行会社の人がやってきたのかという疑問は解けた。今の時期のハイルングは、確かに観光シーズンを迎える。宿の予約が取りづらくなる時期だ。もっと早くから動くのが基本だったろう。
「完全にこちらの不手際で、お恥ずかしい限りです」
カスパルは、メリスの考えを読んだかのように続けた。メリスはいえいえ、と首を振った。
「しかし、こちらに宿があるとの噂を聞きましてね、どうでしょう」
「お役に立ちたい気持ちはあります。ただ、見ての通り個人向けの小さな宿ですので、あまり良いお部屋や、おもてなしができませんが……」
その言葉に、交渉の余地ありと判断したのか、カスパルは大きく頷いて笑顔を作る。
「全く構いません」
そう言った後で、ただ……と言葉を続ける。
「夕食の際にですね、何か余興をして頂ける方などお心当たりありませんか?」
「余興、ですか?」
どのような? と、メリスが首を傾げる。
「ええ、例えば、音楽家による演奏ですとか、奇術や大道芸など。さすがに全ては無理でも、夕食を食べながら、何かを楽しむのが最近はお客様に喜ばれるので」
「演奏に奇術に大道芸、ですか」
心当たりがないどころかありすぎる。現在、宿の3階には音楽家、奇術師、道化師が泊まっている。しかし、お客様として宿を利用してもらっている以上、そんな事を頼んで良いのだろうか。
メリスの沈黙を、良い方に受け取ったのか、カスパルは口を開いた。
「もちろん、余興をして下さった方への報酬はこちらからお出しできますので!」
「報酬があるんですか」
仕事としてならば頼めるかもしれない。そう考えて、お約束はできませんけど、と念を押した上で引き受けた。
カスパルもそれで了承し、予定表を差し出してくる。
「宿泊の予定は1週間後の休日です。人数は8名と、そう多くはありませんので」
とは言っても、団体の宿泊向けに造られていないため、春風の導き亭の2階は16部屋 。今までの経験上、1日2日にそんなにお客さんが集中する事はないだろう。しかし、観光シーズンゆえに、観光地を避けて泊まりに来る旅人も増える時期だ。だが、その為に目の前の男を拒否するのもまた気が引ける。万が一2階が満室にでもなれば、3階に通しても良いかと考える。まあ、杞憂かもしれないが。
「それで、受けたんだ?」
食堂のディナータイムが始まる少し前、仕込みを終えた、休憩のタイミングでメリスはラルフに事情を説明していた。
「うん。困ってそうだったし」
「そうか? 観光地の良い宿が見つからなくて、仕方ないからうちにするって事だろ?」
困ってるにしても失礼だと思うけど、と付け足すラルフに、そうかなぁとメリスは首を傾げる。
「でも、カスパルさんのお客さんも困っちゃうしね。私達ができる事は引き受けようよ」
「それは良いけど、せめて余興はそっちで探すとかできなかったのかよ」
「あ、余興を頼むのは良いかなって思って。他のお客さんも喜ぶと思うし、お仕事になるなら頼みやすいと思うの」
まだ少し不満そうなラルフだったが、結果として反対したい訳ではないらしく、メリスの言葉を受けて、まあメリスが良いなら良いけど、とだけ呟いて、それ以上言葉を続けるのを止めた。
コーヒーを口に運び、一息吐くと、それで? とまた口を開いた。
「その余興は? 声かけたの、3人に」
「まだ。部屋に居ないみたいだったから、ディナーの時に頼もうかと思って」
3人は、基本的には毎日宿の食堂で夕食を済ませていた。恐らく今日もそうだろうとメリスは考えていた。
考え通り、今日も3人は同じタイミングで夕食に現れた。スヴェンとハインツは職業柄話が合うのか、良く一緒に食事をしたり、話をしているのを見かける。今日も2人は同じ席につく。シュトルクは、そこから少し離れた場所に座る。
タイミング良く店内が空いてきた。ラルフに声を掛けて表に出てもらい、3人の元へと向かう。
「お食事中にすみません、続けながらで大丈夫なので、ちょっと良いですか?」
メリスは、まずスヴェンとハインツに話しかけた。2人で話していた彼らは、うん? とメリスの方を向いた。
食事の手を止めた2人に礼を言って、事情を手短に説明する。
「と、言うわけで、余興を頼まれちゃったんです。報酬も出るそうなので、良かったら、と思いまして」
もちろん、断ってもらっても構いません、と付け足す。
「断るも何も、俺としては本業だし、大歓迎だ。室内だからあまり派手な事はできないけど」
宿でくつろぐハインツは、道化師メイクを落とし、シャツにサスペンダー付きのズボンというスタイル。そんな彼は、メリスの言葉に笑顔で応じてくれた。
「僕も構わないよ。ここに来てからのんびりしてたけど、広場や学校、酒場で仕事を貰っていたし、腕は鈍っていないと思うから」
スヴェンもまた、にっこりと笑った。
そんな2人を見て、ホッと胸を撫で下ろす。
「ありがとうございます、ハインツさん、スヴェンさん」
「いやいや」
「いつも頑張ってるメリス店主の役に立てるなら光栄だよ」
これで、当日はなんとかなりそうだ。快く引き受けてくれた2人に再度お礼を言って、よし! と気合いを入れ直し、今度はシュトルクの元へと向かう。
「シュトルクさん」
「食事中に何」
確かにその通りだが、こちらも見ずに放たれた一言に、入れ直した気合いが萎む。しかし、まだ見ぬお客様のためにメリスは口を開いた。
「あの、続けながらで構いませんので、大丈夫ですか?」
無理なら出直します、と付け足すと、シュトルクがこちらを向く。
「まあ、良いけど」
スープを掬っていたスプーンを置いた。
「ありがとうございます」
実は、と大体の事情を話す。その間シュトルクは表情を変えずに話を聞いていた。
「ずっと、気になってたんだけど」
大体の話を聞き終えたシュトルクが口を開いた。はい? とメリスが反応すると、食堂の隅を指す。
「あのピアノ、弾けるのか?」
シュトルクの指を追うと、そこには布が掛けられたピアノがある。メリスとラルフの父が弾いていたものだ。2人には音楽の才も興味もなかったため、今は使われていない。
「ああ、あれですか。お父さんが昔弾いてただけで、今は掃除だけはしてますけど、弾いたことないです。あれって手入れしないと弾けなくなるんですか?」
不思議そうに尋ねるメリスに、呆れたようなため息が返ってくる。
「そう言う訳じゃないけど……。じゃあ、調律とか勿論してないよな」
「調律って何です?」
再び不思議そうに首を傾げるメリスに、表情を不機嫌そうないつものそれにする。そして短く、だよな、と言う呟き。
「ちょっと触っても問題ないか?」
「あ、はいっ」
ピアノへと向かうシュトルクの後についていく。父親が居なくなってからは、誰も弾いていないピアノの鍵盤に、シュトルクの指が触れた。ポーン、と音が響く。メリスには何が何やら分からないが、シュトルクは次々と音を鳴らし、少しだけ眉を寄せた。
「まあ、大きく狂ってはいないみたいだけど……弾いて良い?」
「良いですよ」
メリスがそう答えると、シュトルクは椅子に座り直す。一呼吸したあと、指が滑るように鍵盤を踊った。その指の動きと姿、そこから奏でられた軽やかだがしっかりしたメロディに、その場の空気が変わる。ぞわ、と鳥肌がたった気がした。
音楽に詳しくないメリスには、曲名も何も分からなかったのだが、それでも引き込まれていた。まるで別世界に来たかのようなふわふわとした錯覚を起こし、ふと食堂を振り返る。振り返ったそこはもちろんいつもの食堂で、その演奏に、食堂の人達の視線も集まっている。
それはほんの短い時間の事。しかしその短い演奏の後には、何とも言い難い感動があった。
「凄い、凄いですね、シュトルクさん!」
メリスは思わず拍手をする。それに感動したのはメリスだけではない。ラルフも、食堂に来ていた人達も、各々に拍手をしたり、口笛を鳴らしたりといった反応が見られた。
「凄いじゃないか! きみ、演奏家だったのか?」
「ヴァイオリンだけじゃなかったんだね。本当に素晴らしいよ」
ハインツとスヴェンも声を掛ける。シュトルクは食堂の面々に向かい一礼を返すと、メリスに言う。
「これで良ければ引き受けるけど」
「え?」
「さっきの話」
ああ! と頷く。思いがけないピアノ演奏ですっかり忘れていたが、メリスはそもそもシュトルクに、観光客の夕食時に演奏を頼んでいたのだった。
「本当ですかっ。この様子だと、観光客の皆さんもきっと喜びますね! ありがとうございますっ」
凄いですね、とはしゃいだ様子のメリスに、シュトルクは少しだけ目を見開いたあと、まあ、当然だけど、と顔を反らす。その先にあったピアノを見て、再び音を鳴らす。
「それにしてもこのピアノ、趣味で弾くにはかなり良いものだが、父親、音楽関係者だったのか?」
「さあ……聞いた事ないです。たまに弾いてるのを聴かせてもらったくらいで。ピアノも、物心ついた時にはありましたし」
歯切れの悪いメリスの返事に、そうか、とだけ返すと、それ以上は何も聞かなかった。
「とりあえず、それまで調律しとく」
「きみ、調律までできるのかいっ?」
いつのまにか近くに来ていたハインツが、後ろからシュトルクの両肩に自分の両手をポンと置く。シュトルクは嫌そうに顔をしかめたが、ハインツに気にする様子はなかった。肩越しに覗かせた顔は不思議そうに、ん? と返事を待っている。
「まあ……音楽に関係することは、一通り」
諦めたように答えるシュトルクは、ピアノを見ていた。
「天才っているんだねー。あ、俺ハインツ」
名乗った後でシュトルクの前側にひょいと移動し、右手を差し出した。シュトルクはその手を一瞥したが、食事に戻るから、とかわす。席に着いたシュトルクと差し出した自分の手を見た後、ハインツはきょとんとした表情を作り、肩をすくめた。
「嫌われちゃったかな?」
「多分、違うと思いますよ」
いつもあんな感じです、とメリスが微笑む。なら良いけどと笑ったハインツは、じゃあ、と席に戻る。そのままスヴェンと談笑を始めたハインツの後ろのテーブルを、ラルフが片付けていた。メリスは慌ててラルフの元へと向かう。
「ラルフごめんね、ありがとう。仕事に戻るよ」
「ああ。良かったな、ひとまず」
皆引き受けてくれたんだろ? と言うラルフに、うん、と笑いかける。食器を下げながら厨房作業に戻るラルフを手伝おうとすると、お客さんから会計を、と呼ばれる。慌てて返事をして、会計のために宿のカウンターに向かう。待っていたのは男女2人で来ていたお客さんだった。確か、最近街に来たばかりのパン屋の2人。
「お待たせ致しました、ありがとうございます」
「夕食は初めて来たんですけど、あの演奏家さんは、いつもやっているんですか?」
穏やかな笑みを浮かべた女性が、そう尋ねる。
「いえ、今日はたまたまです」
男性の支払いに対応しながら、メリスは女性に答えた。
「そうなんですか。残念ですね、いえ、幸運だったんでしょうか。素晴らしい演奏でした」
ごちそうさま、と帰りかけた2人を見て、そうだ、とメリスは思い出す。
「あ、1週間後の夕食でまた演奏してもらう予定です。団体さんが入るので、お席はどうなってるか分からないですけど」
あら、と女性が笑った。
「じゃあ、その時、また来てみます」
是非、とメリスがお辞儀をすると、女性は会釈して帰っていく。名前だけでも聞けば良かったかな、と少しだけ後悔したが、まあまた会うだろうと思い直す。
何にしても、当日が楽しみだな、とメリスは笑って仕事に戻った。
そのあと片付けの時間になってラルフにそう言うと、俺らは客じゃないんだから、とたしなめられた。しかし、まったく……と呆れたように言う顔が、少しだけ緩んでいたのをメリスは見逃さなかった。
1週間後が、楽しみだ。
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