陽気な道化師
賑やかだった出会いにも、別れの時は訪れる。今日は、ここ数日宿屋を賑わせてくれた、ゲオルクが出発する日だった。朝食を取り、部屋で荷物をまとめてきたゲオルクは、来たときと同じように軽装の鎧とマントを着用している。宿のカウンターで鍵を受け取ると、見送りのために外に出た。
「じゃあ、お気をつけて」
「ありがとメリス嬢、楽しかったよ」
「寂しくなりますね」
本心からそう思って言うと、本当に? と明るく笑う。
「嬉しい事言ってくれるねー。まあ、近いうちにまた来るよ。この街、気に入ったし」
「そう言って貰えると私も嬉しいです」
何もない街だが、住んでいるメリス達にとっては、穏やかで優しい良い街なのだ。その街を余所から来た人に気に入って貰えるのは嬉しい。
「勿論、メリス嬢にもまた会いたいしね?」
「あはは、お待ちしてますね」
数日ですっかり慣れた軽口に、笑みを返す。じゃあ、と旅立っていくゲオルクを見送り、宿に戻る。
ラルフにも、出発を見送らないのかと聞いてみたが、良いよ別に、と返されてしまう。仲が良く見えただけに、拍子抜けだった。ジークヴァルトにも声を掛けたが、大丈夫です、と返される。ゲオルクにその旨を告げると、まあそうだろうね、と笑っていた。朝食の時に挨拶は交わしていたみたいだけれど、男同士はなんだか良くわからないな、とメリスは思う。
「メリスちゃんおはよぉー、朝ごはんの時間終わっちゃったぁ?」
洗濯の準備を始めようとすると、2階に泊まっているイゾルデが、欠伸をしながら階段を降りてくる。
「イゾルデさん、おはようございます。まだ大丈夫ですよ」
「良かったぁ、ラルフくんのごはん、美味しいわよねー」
あの為になら起きれるー、と言いながら、まだ眠そうに目を擦るイゾルデに笑い掛けると、準備してあった朝食をテーブルに乗せる。いただきます、と手を合わせたイゾルデにごゆっくりどうぞ、と声を掛ける。時計を確認すると、7時50分になっている。シュトルクとヴィクトルは今日も起きてきそうになかった。
早めに3階の2人に食事を運び、今日はまだ回収できていなかった洗濯ものを回収していく。イゾルデが食堂にいる事と、外で洗濯を始める事をラルフに伝えると、照りつける太陽の下、ザブザブと洗濯を始めた。
冷たい水が気持ち良い季節は、洗濯が楽しい。3階の泊まり客の物は宿の洗濯とは勿論別に洗う。スヴェンやジークヴァルトは遠慮しているのかあまり出さず、自分で洗って干していたりもする。逆にヴィクトルは火薬まみれの衣服を遠慮なくまとめて出してきたりもするので、洗いがいがある。ただ、まとめて出しすぎて着るものがなくなり、干したばかりのものを平気で取っていくこともあり、困る。シュトルクは神経質なのか、毎日決まった量を出し、触れられたくないものに関しては自分で洗っているようだ。
「よし、と!」
洗いあげたものをかごにまとめ、干していく。今日は天気が良いから、お昼過ぎには乾くだろう。太陽を見上げて、目を細める。
そんな時だった。
「やあ! お嬢さん、お久しぶり!」
「え?」
洗濯物を干すためのロープを引いている大きな木の陰から、ひょっこりと姿を現した人がいた。全身赤い衣服を着用し、顔には、目を覆い隠す仮面。身軽にその場でくるくると回り、ピタリと止まると、右手を胸のほうに折り曲げ、左手を後ろに引き、優雅にお辞儀して見せる。ピンク色のネコっ毛と、ひょろりと長身なその姿に見覚えがあった。この人は……。
メリスが目を瞬いていると、仮面の下で微笑む気配。
「さすがに、仮面を着けたままじゃ難しかったかい?」
お辞儀をやめて仮面を外し、ウィンクした顔には道化師メイク。メリスは、顔を輝かせて出かかっていた名前を呼ぶ。
「ハインツさん!」
「良かった良かった。調子乗っちゃったのに、忘れられていたらどうしようかと思った!」
仮面を仕舞って、あははー、と笑うハインツ。
「覚えてます覚えてます! すみません、固まっちゃって」
道化師のハインツ。彼との出会いは、1年前の夏に遡る。
◇ ◇ ◇
それは、まだまだ宿屋を始めたばかりで、毎日お客さんをただただ待つ日々だった頃。食堂を開けても利用者はまちまちで、1人でも余裕で回ってしまう。そんな訳で、ラルフにお店と宿を任せ、メリスは公園や広場の掃除の仕事をしていた。管理人さんに言っておけば先着にはなるが、日雇いで使ってくれる。お給料は良くもないが悪くもない。
「よいしょ、と」
広場のゴミ捨てを終えて、今日の分の掃除を終えて、管理人さんに報告しようとしていた所だった。
「おーいっ!」
「ん?」
「ボール! ボール止めてくれ!」
「ボール、止める……?」
「玉乗り用のボール転がってった! 助けてくれっ」
不可解な台詞で呼ばれて振り返った先で目に入ったのは、転がってくる大きなボールと、走ってくる道化師風の男の人。男の人は、焦ったように手を振る。
「ちょ、止められないなら避けてお嬢さん! 危ないからっ!」
「わわわっ!」
言われて初めて身の危険を感じて、体が動く。慌てて飛び退いた瞬間、ゴミ箱に激突したボールが勢いを止められ、跳ね返って弾んだ。思ったより、柔らかくて軽い素材だったらしい。追い付いてきた男の人が、おっと……と、ボールを腕の中に収めて脇に止めた。ポカンとしているメリスを見て、ごめんごめん、と謝る。
「本当にごめん、びっくりさせちゃったな、大丈夫だった?」
「だ、大丈夫は大丈夫ですけど……」
自分の身に何が起きたのかいまいち理解できず、ドキドキしながら目を瞬かせる。反応の薄いメリスに、男の人は困ったように笑う。
「うーん……あ、こういうのはどう? ほらっ」
すると、ポケットから小さくて柔らかそうなボールを3つほど取りだし、宙へ放り投げ、両の手で器用に投げたり受けたりを繰り返した。
「わあ……」
メリスは、胸の前で手を合わせ、鮮やかなボールさばきに見とれる。
「本当にごめんなー、俺、道化師見習いのハインツ。玉乗りの練習してたら勢い付いて転がって、俺だけ落ちて置いてかれちゃったよ」
ボールを操りながら、ペロリと舌を出してハインツは笑う。すっかり緊張の解けたメリスは、つられて笑った。
「良かった笑ってくれたー。人を笑わせるのが道化の仕事。怖がらせてごめんな?」
へらっと笑った顔が少年のようだった。それが、道化師見習い、ハインツとの出会い。彼は、春風の導き亭初めての3階利用者、長期宿泊客第1号になったのだ。そして彼は、客商売の宣伝の大事さを教えてくれて、効果的な宣伝の仕方も教えてくれて、出ていった先で、彼も宣伝してくれた。そうこうしているうちに、宿には人が増えてきて、ツェツィーリアとも出会い、日雇いの掃除に行くこともなくなってきたのだ。
◇ ◇ ◇
「宿の恩人さんを忘れる訳ないですよ」
「役に立てたなら嬉しいけど、恩人さんは照れるなぁ。こちらこそ、メリスとラルフが笑ってくれたから、道化師を続けて来れたんだ」
懐かしいなぁと笑った顔は変わらず、少年のようだ。
「あ、俺ね、見習い卒業したんだー」
さっきの師匠から貰った仮面。と言った笑顔は、なんだか誇らしげだ。それを見て、メリスも笑顔になる。
「そうなんですか? おめでとうございます!」
「ありがとう。そして、道化師として旅を始めてさ、この宿の事が気になって、1番最初にこの街に来ようと思って」
「ありがとうございます。おかげさまで、ずいぶん賑やかになりましたよ」
「そうみたいだね」
干してある洗濯ものを見上げて、良かったー、とハインツは嬉しそうだ。
「俺もまたしばらく世話になるよ」
よろしくね、と言うハインツに、メリスもよろしくお願いします、とお辞儀する。ハインツの荷物を受け取って、あれ? と首を傾げる。
「玉乗りはやめちゃったんですか?」
前は転がして歩いていたボールが無い。メリスの台詞に、ハインツが眉を下げた。
「うーん、慣れてきたんだけど、旅をするにはちょっとな」
「そうなんですか、残念ですね」
がっかりして言うメリスに、ハインツは肩をすくめてみせた。
「なんてね、やっぱり向いてなかったみたいだ。出来ることは出来るけど、客に迷惑掛けちゃいけないし、他に絞った方が良いんじゃないかって、師匠も」
「まあ」
「でも、機会があれば、手に入れてみるかな」
それまでは、他の芸をお見せしますよー? と続けて、くるりと回ってウィンク。道化師メイクを施した彼がすると、そんな何気ない動きでも笑ってしまう。また、賑やかになりそうだった。
いつも明るく、宿の宣伝を手伝ってくれたハインツ。彼の再来は、メリスも、勿論ラルフも歓迎した。見習い期間に旅した国の話や、出会った人達の話を聞きながら、再会を喜んだ。食堂の営業が終了した夜にはイゾルデを交え、旅の話を聞いた。イゾルデも、それを聞いて次の旅先を決めたようだった。
陽気な道化師の話は、時に大袈裟で明らかに嘘と分かるものもある。それをからかわれながらも、話を盛り上げる彼の人柄は、とても貴重なものだと思えた。
出会いと別れを繰り返し、宿屋に、また嬉しい出来事が増えました。
『陽気な道化師』end