一話「釣り」
濃い霧の中、僕は立っていた。足下すら朧気なそこで立ち尽くしついた。辺りはとても静かで、ただただ霧の流れる音だけが聞こえていた。僕は目を閉じてみた。白が黒になった。手が見えるので目は開けておくことにした。
ある時水音が聞こえた。白い霧しか見ていなかった僕は気になった。僕は水音のした方へ歩き出した。
霧の先に人が立っていた。僕に背中を向けたままずっと立っていた。僕は隣に立って話し掛けた。
「何をしてるの」
「釣りをしてるんだ」
「釣りを」
「そうだ」
「ふうん」
僕は人の持っている棒を見た。微かに垂れ下がる糸が見えた。僕は話し掛けた。
「でも、ここはビルの上だから、釣りは難しいよ」
「でも、釣れるぜ」
「釣れるの」
「そうだ」
「ふうん」
釣り竿が揺れた。人が引っ張ると、しなって何かを引き上げた。黒くて凸凹のそれはぴちぴちと跳ねた。僕は話し掛けた。
「これ、どうするの」
「放っておけば消える」
「消えるの」
「そうだ」
「ふうん」
黒いものが跳ねている。僕は話し掛けた。
「これは食べないの」
「食べない。不味いからな」
「不味いの」
「そうだ」
「食べたことあるの」
「ない。不味いからな」
「不味いの」
「そうだ」
「食べたことないのに不味いの」
「不味いから食べたことがないんだ」
「不味いから食べないの」
「そうだ」
「ふうん」
僕は黒いものを探した。目の届く場所にはなかった。跳ねる音も聞こえなかった。
「でも、食べてみないと不味いかどうか分からないよね」
「不味い。ピーマンは不味いだろう。あれと同じだ」
「僕ピーマン好きだよ」
「じゃあお前は味音痴なんだ」
「僕って味音痴だったんだ。知らなかった」
「そうか」
「うん」
少しだけ霧が薄くなっていた。隣の人は僕より少し背が高かった。隣の人がふと空を見上げた。僕も見上げた。初めて空を見上げた。白いばかりで何もなかった。僕は話し掛けた。
「ここは雨は降るの」
「さあな。俺は見たことない」
「じゃあ雨は降らないの」
「降るかもしれないし、降らないかもしれない」
「じゃあ降るかもしれないの」
「そうだ」
「降ったらどうするの」
「傘をさせばいい」
「傘があるの」
「さあな。あるかもしれないし、ないかもしれない」
「じゃあ傘はないかもしれないの」
「そうだ」
「雨が降ったらどうするの」
「傘を探せばいい」
「でも、ないかもしれないんでしょ」
「でもあるかもしれない」
「なかったらどうするの」
「他のものを探す」
「他のものってどんなもの」
「雨が凌げればなんでもいい」
「なんでもいいの」
「そうだ」
「もし雨が降ったら、なんでもいいから凌げればいいの」
「そうだ」
「ふうん」
僕はもう一度空を見上げた。雨が降るのかどうかは分からなかった。僕は話し掛けた。
「雨、降らなければいいね」
「降ってもいい。俺は雨は好きだ」
「雨が好きなの」
「そうだ」
「でも、雨が降ったことはないんでしょ」
「そうだ」
「降ったことないのに雨が好きなの」
「そうだ」
「ふうん」
僕は釣り竿の先を見つめた。
「雨、降るといいね」
「そうか」
「うん」
また釣り竿が揺れた。黒いものが落ちた。それはさっきの黒い凸凹よりも大きかった。
「大きいね」
「もっと大きいのもいる」
「釣ったことあるの」
「ああ」
「ふうん…」
黒いものはぴちぴちと跳ねている。僕はそれを爪先でつついた。
「なんで釣りをしてるの」
「他にすることがないから」
「じゃあここには他に何もないの」
「さあな。あるかもしれないし、ないかもしれない」
「探さないの」
「今は釣りをしてるからな」
「釣りが好きなの」
「そうでもない。他にすることがないだけだ」
「好きでもないのに釣りをしてるの」
「そうだ」
「それってつまらなくないの」
「そうだな」
「つまらないならどうして他のものを探さないの」
「釣りをしてるから」
「でも、つまらないんじゃないの」
「他にすることがないからな」
「探せばいいじゃない」
「でも今は釣りをしてる」
「つまらないんでしょ」
「だって、他のことなんて見つからないかもしれない」
「でも見つかるかもしれないよ」
「見つからなかったら?」
「僕も一緒に探すよ」
「お前が」
「うん」
「そうか」
「うん」
「そうか…」
隣の人が顔を空に向けた。その肩が大きく震えて呼吸が漏れた。いつの間にか、霧は随分晴れていた。