第8話 火星基地の惨劇――転向者
ヒドラとマフデトを乗せた<ケイローン>号が海王星にあるツァオベラーの本拠地、大伽藍に帰りついたのと入れ替わりに、火星制圧艦隊がドゥオーモを後にした。指揮官は黒いフードに身を包み、法皇から水銀という聖名を授かった銀白色の髪をした男、ヘルメスだった。
約五十隻の艦隊は超光速航行に入ってから約四時間後、火星の赤い大地に着陸した。ギザ基地には生き残りがいたが、彼らは白旗を掲げてヘルメスに跪いた。生き残ること。生存者たちはそのことを最優先したのだった。
明け渡された施設設備やライフラインは逐次復旧されて、日毎にその機能を取り戻しはじめていた。
しかし、ギザ基地もまた、月のムーンベースやセレーネのような悲惨な光景を人々の眼前に晒したのだった。だが、ツァオベラーの構成員たちは、地球人とは全く違った反応を見せたのだった。死者への畏敬など、まるで見せることもなく奇怪な笑い声を立てては、声なき者たちを冒涜したのだ。身に着けていたものや金品を奪い、惨めな最期を迎えた者を見世物にしては、ギザ基地の生存者たちを恐怖させた。なかでも、テランを戦慄させたのは、指や耳、場合によっては頭部を切り離しては戦利品を獲ようとして争うツァオベランたちの姿だった。
――生きたまま、あんな思いだけはしたくはない……。
テランたちの心はしだいしだいに恐怖に憑りつかれ、虚ろな眼をしたものが増えていった。
こうした状況に身を置かざるを得なかった人々の中には、恐怖から逃れようと、自らが恐怖の存在になることを選び、ツァオベランに鞍替えするテランさえ現れはじめたのだった。
「恐怖による支配。これこそがアメミット神の求めるところじゃ。従うがよい」
ヘルメスはそういっては志願者をカフラーピラミッド内に設置した特殊な機器が並べられた一室に連れ去っていった。そうした者たちは長いフードに身を包み、恍惚とした眼つきをして戻ってきたのだった。
かつてレーダーシステムとしてギザ基地の守護神となっていたスフィンクスは、外殻を剥されて改修を受けていた。アメミット神との星間通信用のアンテナが設置され、火星防御センサーには新たに機能を追加され、やがてEMP防御システムも組み込まれていった。
「火星は月のようにはならんよ、君……わかるかね?」
ヘルメスは装置を組み込む最終段階のころに姿を見せて、怪鳥のように笑ったのだった。
「次は木星じゃよ。神はあの場所に聖域を持ちたがっておるのじゃ。待ち遠しいのお、その日がくるのが……」
「クケケケケケケ……」
ひとりごとのように呟いたヘルメスの言葉に、新たに加わったばかりの転向者が不気味な笑い声を立てた。
「そのためには、ここの整備を急がねばならぬ。……クケケケ……こういう時こそテランには利用価値が生まれるというものだ……」
ヘルメスがそう口にした翌日から、テランは徐々に火星での生存者を減らしていった。施設拡充や整備のために、強制労働に使役されたのだ。もはや火星には人権など存在しなかった。奴隷とかしたテランは生き残るべく多くの転向者を生みだし、脱走者を生んでは激減していった。時々姿を見せたPETUの連絡員はそうした状況を不可解な眼で眺めながらも、PETUもまた有能な技術者や兵員を補充していったのだった。
とはいえ、ヘルメスや視察に訪れたマフデトの眼には月という拠点を失ったPETUなど、無きに等しい存在として映っていたのだ。
「便利といえば、便利よのお。すでに連中などあてにはしていないが、PETUは特攻兵器であり人間爆弾になりうる。まあそんなところだろう……。クケケケケケケ……」
マフデトは海王星のドゥオーモに聖座を持つヒドラにそう報告を送ったのだった。
しかし、PETUにはまだ力があったのだ。世論を動かす諜報者としては彼らほど長けた者たちはいなかったのだ。
地球に潜入したPETU隊員は火星の状況を余すことなく報道機関にリークし、地球人の心胆を寒からしめたのだ。地球の世論――戦争によってツォオベランに復讐を果たしたいという憎悪は――もはや、ニクスやユピテールの奔走では抑えることさえ不可能なほど燃えさかっていたのだ。
ニューヨークやシカゴ、ベルリンやパリ、ロンドン、モスクワや東京、北京をはじめとする世界各国の大都市で、軍旗を振りかざしたデモが頻発し、人心は荒んで治安は乱れ、多くの人々の胸奥にあった憤怒を煽ったのだ。月基地での失態は忘れさられ、軍の予算は湯水のごとく増加して、やがて発展途上国では飢餓による死者が発生しはじめた。生か死か、戦争か平和か、民主主義か軍国主義かと、人々は集ってはぶつかりあい、無意味に踏みつぶされて死んでゆくものさえいた。そして、こうした暴動に近い集会はPETUの標的とされ、そこでもまた多くの人命が自爆テロによって失われていったのだった。
「この状況を打開するには、大規模な作戦を実施して、世論を抑えるしかあるまい」
ムーシコフは疲弊して苦渋に満ちた顔でそういった。
「しかし、木星の艦隊を動かすには、なんとして補給が足りないのです、長官、もう一ヵ月、もう一ヵ月だけ忍従してください……」
必死に説得するニクスもまた疲れ切り、彼の傍らに控えたシノーペも冴えない顔色をして立っていたのだった。
「待つことはできる。しかしねニクス君、たとえポーズであったとしても、何かしら攻勢に出るという意思表示は必要なのだよ。世論をこれ以上沸騰させないためには、軍は彼らに戦う意思を見せなければならんのだよ……」
「しかし、時間的約束はできんのです。DOXAとしても日々人員を輸送任務に取られているのです。いつまでに体制が整う、私としてもそれを明言できないことは心苦しいのですよ……」
「…………」
四面楚歌。軍とDOXAはツァオベラーとPETU、そして世論と時間を敵にまわして、地球という本星にありながら孤立していたといえた。しかし、ムーシコフにとってもニクスにとっても打つ手は無かったのだ。ツァオベラーという組織。狂信的な宗教団体。その組織の政治的方向性が全くといっていいほど掴めていなかったからだ。
――一体彼らの目的はなんだ? 何を求め、何をしようとしているんだ?
そうしたことがわからない限り、むやみに戦火を拡大したり世論を操作することさえ出来なかったのだ。
しかし、宇宙も太陽系も地球世界も、行動したものに勝利をもたらすということだけは明確にそれを示していた。
――その時はくる……必ずやってくる。ニクスはひとり密かにその時を待っていたのだ。暴発とも、異端ともいえる行動を起こす者。いつの時代にもそうした人間がいることをニクスは知り抜いていたのだ。誰あろうニクス自身が、かつての<スペランツァ>号での経験で、それを確信していたのだ。