第79話 タナトスの導き――見えざるもの
法皇イブラヒームの謁見の間に、一人の女が跪いていた。いや、その者を女と呼ぶことは正しいことではなかった。その者は両性を具有する異能の人種であったのだから。
「エロス、今日はなんの話だ? 余はお前の話をあまり好かんのだがな」
「は! ですが今日はお付きあい願います」
全身を白の衣装でおおったエロスの足元には高次元鞭が置かれていた。武器を体から離しておくことは、謁見の間にあっては仕来りとなっていたのだ。
「法皇猊下、あなた様は罪なお方です」
「なんと?……」
イブラヒームの表情が一瞬にして曇り、怪訝な眼差しがエロスを突き刺しはじめた。
「罪なお方と申したのです」
「卿は何をもってそう申すか。今日の卿の立場を築いてやったのは余のはずじゃがな」
「さあ、それはどうでしょうか?」
法皇の握られた拳が白く変色して怒りを滲みださせていた。
「エロス、頭をあげよ。余の顔を見てそう言えるなら、言ってみよ!」
――ようやくかい。あたしがそれを望んでいることにも気づかないようだね。あんたは老いぼれたのさ。そう、力を過信しすぎたのさ……。
「はは!」
エロスとイブラヒームの視線が激突して白燐が燃えるような火花が散った。
「いい加減にしなよ、船長。あたしを手なずけられたとでも思っているのかい? あたしは目覚めちまったのさ」
「法皇猊下の前であるぞ! 言葉を慎め!」
イブラヒームの左右に控えた親衛隊員が、槍と斧を兼ね備えたハルバードの鞘をはらってエロスに切先を向けていた。
「あたしが最も憎悪している存在、あたしの中に埋め込まれた怨念。それはあんたに対してだったのさ。けどね、あたしはあんたに騙されたのさ」
「…………」
「卑怯にもあんたは、あたしの姉さんを利用した。あたしのたったひとつの希望だった姉さんをだ!」
「貴様ー!」
ハルバードよりも鞭のほうが早かった。金きり音を発して虚空を走った鞭先が一瞬にして二人の屈強な男を気絶させていた。金属の鎧が床にぶつかって重い音と振動を床に伝えていった。
だが、エロスも頬に傷をうけ、鮮血が流れ出していた。
「お前はこういった。『姉さんを殺したのは地球人であり、DOXAの連中だ!』とね……。卑怯なお前は自分に向けられていた怨念を他に向けさせたってわけさ。あんたはあたしの怨念の強さを利用したのさ」
「…………」
イブラヒームはエロスの怒声を耳にしながら、肘掛けの下にある熱線銃をどうやって手に取るべきかと思案していた。
立ち上がったエロスは一歩一歩と、イブラヒームににじり寄っていった。
「あたしはまんまと騙された。そしてあんたの忠犬になったのさ。けどねー、世の中ってのは面白いもんだよ。あたしを過去に送って、両親に再会させ、あたしはあたしの鏡のような存在に出会ったのさ。不思議な運命ってやつさ」
「鏡だ? お前はその鏡に何を見たというのじゃ!」
エロスのダークブルーの瞳には満足の光があった。脳裏にはふたりの侍女の姿がくっきりと浮かびあがっていた。
「まあいい。あんたにはあたしの気持ちはわからないだろう。これで最後だ。あたしが怨念の炎を燃やすのはね。そうさ、それはあたしの人生を狂わせた<フィーリア>号の船長だったあんたに対してさ。イブラヒーム、死んでもらうよ!」
エロスは死を覚悟しながら疾駆すると、高次元鞭を法皇に向けたあとスイッチを押した。
法皇も女司教も時間の流れがやけにゆっくりしていることを感じながら、動かせる腕と足を使って相手を打ち倒そうとした。
「ふはははははは……どうやら、不発だったようだな。お前の鞭には熱線銃が仕込んであるのじゃろう。だが、肝心なときに不発とはな。どこまでいっても不幸な女だな、お前は。いや、女ともいえない出来損ないの化け物だがな」
イブラヒームは落ち着きはらって肘掛けから熱線銃を取り出すと、エロスに照準をつけてから引き金に指をかけた――。
瞬間、法皇は大量の血を吐いて、床にばたりと倒れたことに気づいたのだった。
「残念だったね。この鞭から撃ちだされたものは、目には見えないのさ。あんたにはお似合いさ。見えもしない人の憎悪を動かし、見えもしない人の怨念を利用したんだからね。さよならだよ、船長さん」
イブラヒームが握っていた銃が床を滑っていった。エロスは俯せに倒れた男を足蹴にして仰向けにさせた。
――あたしが長いこと苦しんだ怨念はこれで消えうせた。けど、あたしの過ちによって死んでいった者たちは、あたしを許してはくれないだろうさ。あとは……懺悔の日々を送るだけさ。きっとあいつらはあたしを受け入れてくれるはずさ。こんなにも血まみれになって汚れきったあたしをだ……。
エロスのダークブルーの瞳から穢れのない透明な滴が零れ落ちていった。
――あたしは知っていたんだよ。マレイカ。アイシャ。あんたたちがあたしを助けてくれるってことをね。あたしはあんたらを助けたなんて思ってやしないのさ。さあ、帰ろうエロス。帰るべき場所に……。あたしのいるべき場所に……。
謁見の間をあとにしたエロスはクルーザーの置かれたデッキへと足早に通路を辿っていった。
しかしエロスはそこに意外なものを見いだしたのだ。それは一隻の難破した救助ポッドだった。
「こいつはなんだい?」
丸く分厚い扉を開くと、そこには白衣を着た男が横たわっていた。
「……アグリオス……お前かい! おい、しっかりしろ!」
青ざめた顔をした男は、瞼を閉じたまま何も語ろうとしなかった。
――馬鹿な……あたしはあんたを殺すつもりなんてなかったのさ。なぜだい。せっかく見逃してやったというのに……なんであんたまで死んでしまうんだ……。
エロスの滲んだ視界に、アグリオスが手にしていたデータディスクが映った。その側にはタナトスの入った香水瓶が落ちていた。
「これを届けようとしたのかい……しょうのない男だね。でも感謝するよ。ありがとう、アグリオス」
それからエロスは白衣の男の亡骸をポッドに安置しなおして、宇宙葬に付したあと、クルーザーのノズルに高次元鞭を投げ込んで、<アンドレイア・フィーリア>号を目指したのだった。
高次元鞭がオレンジ色の炎に焼かれて、宇宙を構成する物質になってゆく煌めきがクルーザーから流れ去っていった。
その日、エロスが見た星空は、彼女が長いあいだ忘れ去っていたものを呼びおこしたのだった。
それは純粋無垢という星の光だった。




