第78話 悲喜劇役者シノーペ――未来のために
地球軍の快勝を耳にしたニクスは天使が肩の上で微笑んでいるのを感じていた。
――新兵器の投入は見送るべきかもしれない。<アフリカ>の後ろ盾さえ失わなければ、地球勢力はツァオベラーに膝を屈することはないのではないか? 俺たちは今こそ忍従すべきなのかもしれない。しかし……もう生産ラインは動いている。それに参謀総長になんと伝えるつもりだ……。
「あなた、そんな張りつめた顔をしないで、ほら、アインスが怖がってるじゃない」
ミルクの香りがニクスの鼻をくすぐっていた。シノーペは赤子を揺すりながら、ゆっくりとした足取りでニクスの横にやってきた。
「すまん。考え事をしていた」
「たまにはこの子を抱いてあげて。そうすれば渋い顔も少しはまともになるはずよ」
すぐそこにシノーペの笑顔と、アインスの小さな手が見えた。
「まともな顔って……君は……」
ニクスの顔がほころんでいった。
「怒らない怒らない。さあ抱いてあげて」
「んば……あんやー。んばばー……」
父親に何かを伝えたいのか、アインスは盛んに声を立てていた。
「あなたの考えていたことくらいお見通しよ。生産にストップをかけたいんでしょう」
「まあね。そんなところだ」
「あなたひとりで抱え込まないで。女は言い訳が得意なのよ。そんなことも忘れてしまったの? それに演技力も抜群なのよ。ムーシコフ司令との電話でヒステリーを起こすことなんて簡単なのよ」
「…………」
アインスはシノーペの言ったことが理解できたかのように、大きな笑い声をあげた。
「必要とあれば、意味のわからない理由で相手を説得だってできるわ。あたしを信じて」
「君も同意ってことか……」
「ええそうよ。というより、わたしはいつもあなたの味方なだけよ。ね、アインス!」
「マーマー! マーマ!」
「…………」
「パーパ! パッパァ!」
それはニクスにとってはじめての経験だった。アインスが自分の父親が誰であるかを表明した瞬間だった。
「アインス……」
気がつくと二人は声を合わせて合唱していた。
「パパー! ダメー! パパ、ダメン……ダメン……」
「これはいったい誰の口真似だい?」
「さあ、あたしはしりませんよ……」
おかしさを堪えきれず、シノーペは俯いて笑っていた。失笑せずにはいられなかったのだ。
「この子に駄目といわれたら、仕方ないね。なにしろ未来はこの子たちのものだからね。……よし、生産は一時見送りだ!」
「了解よ! 連絡はあたしに任せて。あなたは離乳食をあげる練習をしてください」
そういうと、シノーペは席を立って、工場や<アフリカ>に「生産停止」の連絡を入れたのだった。
ときには泣き落とし、ときにはヒステリックに、ときには鷹揚にと、あらゆる手を使ってシノーペは相手を納得させていった。ムーシコフとのやりとりはさながら演劇のようであり、悲喜劇いりまじった凄まじさがあったが、シノーペは見事にムーシコフの首を縦に振らせたのだった。
ニクスはその声を聞きながら、たどたどしい手つきでアインスの口にスプーンを運んでいたのだった。
ツァオベラー勢力、聖戦団の総旗艦<ケイローン>の艦橋は静寂に満ちていた。思いもよらない敗戦が空気を沈滞させていたのだ。
「ヒドラ様、ヘルメス様から通信が入っております」
「よし、スクリーンに出せ」
艦橋のメインスクリーンに映ったヘルメスの顔は青ざめ恐怖に歪んでいた。
「大司教様、こんなことをお伝えするのは真に残念なのですが、高次元砲が全て故障しました。というよりも腐食して使い物にならなくなったというのが正確な状態です」
「…………」
ヒドラはヘルメスの言っていることの意味を理解できなかった。
「卿はなにを言っているのだ? きちんと説明せんか……」
「はあー……」
ヘルメスは長い時間をかけて詳細を報告しつづけた。やがて、遅れて受信した高次元砲の画像や文字データを確認したヒドラはようやく状況を飲みこみ、ヘルメスとの通信回線を閉じた。
――こんなことがなぜ? なぜこうも急激にあの砲は腐食したのだ。設計にミスがあったとは思えない。それは何度も俺自身がこの目で確認したのだ。なぜだ?
艦橋に不穏な静寂が漂いだしていた。
「ヒドラ様! 再度ヘルメス卿より通信がありました。第一級秘匿通信による至急電です」
「読め!」
ヘルメスからの極秘通信は法皇イブラヒームが暗殺されたという知らせであった。
「…………」
――いったい何者が? いやまて、それはよい。問題はこれから先だ。
ヒドラはその鋭い感性で覇権をめぐる内紛がツァオベラー勢力内で起こることを直感したのだ。
「全軍撤退だ。大至急この船を本星に戻せ。限界いっぱいの超光速航行も許可する。一刻も早く航路を算出せよ! よいか!」
「御意!」
一時間後、聖戦団の全艦艇は木星宙域から姿を消し去ってしまった。
地球軍のレーダー士がそれに気づいたのは、それから数時間後のことだった。




