第76話 たったひとつの願い――いのちのメッセージ
「マレイカ! どこにいるんだ、マレイカ! いたら返事をしてくれ! マレイカー!!」
白衣の男はもう一週間も声を張り上げて侍従の娘を探していた。声は枯れ、サンダルはすり減り、服は汚れていた。
――なぜエロスもマレイカもわたしをひとりにするんだ……なぜだ!? 君たちはわたしに何を求めているんだ。わたしにどうしろというんだ……。
ウルジュワーン根拠地には人の気配がなかった。衣食住は自動化されて不自由することはなかった。岩壁の部屋や通路には、やかましい音を立てながら歩きまわるうらぶれた男の姿しかなかった。男はさんざん歩きまわったすえ、疲れ果てて、結局は自室である研究室に戻ってくるのだった。
――わたしの居場所はここしかないのか? しかし、しかしだ! この研究が完成したとしたら、どうすればいい? どうすればいいんだ!?
なんとか正気を保っているアグリオスは、倒れかかるようにコンピューターの前におかれた椅子に身を投げいれた。
「もう少しで完成するというのに……」
モニターの画面には複雑な数式と人体の解剖図が映し出されていた。宇宙の真理を極めてしまった男。最悪の兵器を作り出してしまった男の目は人間へと向けられていた。しかし、それは普通の人間と呼んでよいものかと戸惑う存在であった。両性具有人種。一ヵ月に一度、雄と雌の機能の完備する異能の存在。
アグリオスの視線と頭脳は、ただその一点に注がれていたのだ。
「タナトスの改良はこれで完璧だ。これであの副作用じみた苦痛からエロスを救うことができる。だが、彼女がどうしたいのかがわからない限り、この研究を進めようがないんだ! 教えてくれエロス……」
――君は女になりたいのか? 男になりたいのか? それとも、今のままでいたいのかを……。
「科学の目指す場所はたった一ヵ所だった。ただ頂点を目指せばすんだのだよ。しかし、この問題は違う。医療とは医学とは、患者の意思ありきなのだよ……。エロス、わたしには君が必要なのだよ……」
アグリオスの眼は血走り、肌はその反対に血色を失い、肉体は白衣と同じようにくたびれ果てていた。だが男は自らを顧みようともせずに、コンピューターに齧りついて研究の完成を自らに課したのだった。残された生命をキーボードで入力するかのように。
――ようし、これでいい。エロス、君がどうしたいと思おうが、それを実現できる三つの解決策は完成した。あとは、これを……。マレイカ、頼む……姿を見せてくれ。エロスにこれを渡してもらわなければならないんだ……エロス……マレイカ……どこにいるんだ……。
白衣の男、アグリオスは消え入りそうな意識の中で、ディスクにデータのコピーを終えると、コンピューターに残った記録を削除して、おぼつかない足取りで救助ポッドのあるデッキへと足を進めはじめた。
――心臓め、動け! うごくんだ。まだ止まるな。お前は動かなきゃいけないんだ。
男は白衣のポケットから栄養剤と強心剤の薬液が詰まった注射器を取り出すと、針を腕に突き立てた。空になった注射器が手元から落ちて、岩でできた床に落ちて乾いた音だけを響かせて転がっていった。
霞みはじめた視界に、岩ばかりの世界に、突如として金属の丸い扉が映った。アグリオスは丸扉の前で足を止めると、分厚い扉をひらいて中に体を滑り込ませた。男は、この世のものとは思えない重厚で厳粛な音を立てて扉が閉じてゆくのを耳にした気がした。
――あとは……あとは……これを押せば……。
ボタンを押すのと同時にアグリオスは意識を失って床に頽れた。宇宙の真理を感じとらせていた心臓が脈動をやめた。宇宙随一の頭脳が停止して、ただの物質になっていった。太陽系最高の頭脳を誇った科学者、アグリオスはその生を閉じたのだ。誰にも看取られることもなく……。
救助ポッドはノズルに青く静かな葬送の灯火をともして、ウルジュワーン根拠地を離れていった。銀色の金属で作られた柩はアグリオスの祈りともいえる遺言にしたがって、海王星のドゥオーモへの軌道をとるために弔いの炎をはなってポッドの姿勢を目的地に向けたのだった。
「マレイカ、何かが近づいてきます。ビーコンからすると、救助ポッドのようですが」
「回収はできそうですか?」
壊れかけた<フィーリア>号のセンサーが捉えたのは、アグリオスの亡骸と彼の最後の研究成果を乗せたポッドだった。
エロスが時空を超えてしまったことで、彼女が存在する周囲の宇宙空間が激しい時空振に揺すぶられ、過去と現在と未来があやふやに入り混じっていたのだ。エロスの存在そのものが常識を覆していたのだ。でなければ、過去にいるマレイカたちと、未来にいたアグリオスの亡骸が遭遇することなどありえないことだったのだ。
「相対速度がありすぎます。残念ですが無理のようです。センサーがもう少しまともに機能していれば……」
マレイカは同情がこもったフィメールの声に鎮魂歌の旋律を耳にして得体の知れない悲しみに打たれていた。
「父さん、母さん、何とかできませんか!?」
「残念ながら……」
「あたくし、あの救助ポッドを見過ごしてはいけない気がするんです。どうしてそんな風に思うのかはわかりません。でも心が痛いのです。とても痛いのです。何もできず通り過ぎてしまうことに、深い罪の意識があるのです」
アイシャはマレイカの瞳が激震して涙が溢れでていることに気づいた。
「マレイカ……あなたは何も悪いことはしていないわ。泣くのはおよしなさい。この世界には仕方のないこともあるのです」
「でも、どうしようもなく悲しいんです。それにこのスカーフ。なぜこのスカーフが私の中にこんなにも悲しい気持ちを生むのでしょうか? わからないのです。どうしようもなく懐かしい感覚もあるんです。必死になって誰かとぶつかりあった。そんな気がするのです。でも、それが誰かも思い出せないのです。わからないのです。なぜこんな風になるのか……でも、心が絞めつけられて、とてもとても苦しいのです。あのポッドから底知れない淋しさを感じるのです。アイシャ様は感じませんか?」
「あたくしには……」
マレイカは流れつづける涙をどうしてもとめることが出来なかった。滂沱のごとき涙は枯れることすらなかった。清廉な泉のように滾々と湧きいでては流れつづけたのだった。まるでアグリオスの罪を全て洗い落そうとするかのように。
彼女の純粋さが感じとったのは、アグリオスの死だったのだが、もちろんそのことに彼女自身が気づくことはなかったのだ。未来から託された生命のメッセージ。マレイカはそれを感じ取って、泣きぬれていたのだ。
広大無辺の宇宙にあって、誰人にも許されない罪を犯したといえるアグリオスではあったが、たった一人白衣の男を許せた者がいたとしたら、それはマレイカであったのだろう。どんなに数えきれない幸福を感受できたとしても、宇宙に自分を許してくれる存在を得たことは、アグリオスにとっては無上の喜びとなったことだろう。彼は不幸ではなかったのだ。




