第71話 月桂樹の香りのなかで――ネズミのそうだん
――よし、今日の仕事はこれでいいわ。ニクス兄さんが期待しているとおり、報道管制は三割のコントロールに調整したし、ツァオベラー勢と講和するラインもなんとか目星はついたわ。あとは戦況しだいね。
ユピテールはバベルの執務室でひとりぽっちの戦いを続けていた。白皙の顔は血色に満ち、悲壮感などどこにもなかった。
幼少の頃から傍らにいた執事であったガデアンから巣立ち、トロイヤと出会い、タラッサたちと暮らし、人格型コンピューターであり祖父であるヨハネスと再会をはたした。ユピテールは自分の人生が波乱に満ちていることを知っていた。だが、ここのところ一人であるという寂寥感すら抱くことはなかったのだ。心には冷めることのないハーブティーのような温かい充実感があったのだ。
「さて、今日はどこからだったっけ?……」
ユピテールはデスクにおかれた絵本を手にとって、栞のはさまれたページを開いた。そこにはネズミたちが怯えながら話しあっている可愛らしい絵が描かれていた。
「これで良さそうね」
年寄りのネズミや若いネズミたちが会話している挿絵に笑顔みながら、ユピテールは本部に退社の通知をいれた。デスクには彼女が愛用しているパヒュームの瓶だけが残されていた。
執務室を出たユピテールは三つしたのフロアでエレベーターを降りると、廊下にそって並んだ扉のひとつを開いて中に入っていった。
「はい、トーヤ! 今日も元気だった?」
「ユーピテール! ユーピテール!」
記憶と言語の機能を失ったトロイヤは、少年のような笑顔で彼女を嬉しそうにむかえいれた。
「もう夕方ね、少し日の光を入れましょうか……」
アルビノの青年の肌があまりにも白く見えたユピテールは、閉めきられたカーテンをひらいて、レースの網目からオレンジ色の陽光を部屋に誘い入れた。それからユピテールはトロイヤがいるベッドの横にある椅子に腰をかけると、かつての天才青年の様子を確かめる問いかけをしはじめた。
「今日のお昼は残さず食べれたのね。トーヤ、偉いわね」
「ランチ、グーッド! おいしかたー!」
「そう、それは良かったわ」
ユピテールはようやく薄く肉がついてきたトロイヤの新雪のように白い腕に手をおいていた。
「じゃあ、そろそろ今日のお話をするわね。今日のお話はー……」
栞のはさまれたページを開くと、トロイヤは絵本をのぞきこんで、指先でそこにいるネズミを撫でていた。
「イソープ! これ……なあに?」
「これは、ネズミよ。小さな動物なの。こんど本物を見せてあげるわね」
ユピテールが実験室にいる白いマウスを思い浮かべながらそう話しかけると、トロイヤは静かになって耳をそばだてると、自分とおなじように色白な妹の顔をじっと見すえていた。その瞳は赤い色をしていた。
「じゃあ読むわね。はじまり、はじまりー! 今日のお話は、『ネズミのそうだん』よ」
「ネズミー……」
ユピテールは語りだした。
そこにあつまっていたネズミたちは、たいへんこまっていました。
またしても、なかまがネコにおそわれて、死んでしまったのです。
ネズミたちにとって、ネコはきけんなあいてであり、いつもこわいめにあわされていたのです。
あつまっていたネズムたちは、このおおきなもんだいを、はなしあいはじめました。
しかし、ネズミたちはネコにおそわれないよいアイデアを、なかなかおもいつけませんでした。
ずいぶんとながいことネズミたちははなしあいましたが、いつまでたっても、けつろんをだすことができませんでした。
そのとき、としおいたネズミがたちあがっていいました。
「いいほうほうがあるよ! ネコの首に鈴をつけるのさ。そうすればネコがどこにいるのかがわかるよ」
ネズミたちはみんなそのアイデアにさんせいしました。すばらしいアイデアだと、おどりあがってよろこんでいるネズミもいました。
ところが、わかいネズミが立ち上がってみんなにこうたずねたのです。
「それはいいアイデアだとおもう。でもいったいだれがネコの首に鈴をつけるんだい?」
そして、わかいネズミはこうもいいました。
「どんなにすぐれたアイデアだって言うのはかんたんさ! だけどそれができなきゃしかたないよね」と。
「おしまい……」
「ネズミ……たすからない……」
「そうね。でもトーヤ、このお話の意味はわかるでしょ? 何を伝えたいかはわかるでしょ?」
「きょーくん?」
ユピテールは自分が言葉にしようとしていることに、胸を突かれてしまった。記憶という矢に心臓を射抜かれてしまったのだ。
――出来ないことを出来るといったのは誰よ? そうよ、あたしよ。そのことがトーヤを苦しめたんじゃない……。あたしが年老いたネズミだったってことじゃない……。
かつて、執務室でぶつかりあった二人。思いつきで自分では出来もしないことを大言壮語したユピテール。超新星爆発が兵器開発のアイデアとして使えるという提案をしている気の強い女の姿がユピテールの脳裏にあるスクリーンで上映されていた。
「きょーくん?」
「トーヤ、ごめんなさい……」
なんの疑いももたずに教訓を聞かせてもらおうとしているトロイヤの声が、ユピテールの心の痛点を激しく突いていた。
「あたし……あたし……」
「ユーピテール?」
アルビノの青年は突然泣き出したユピテールにどう応えればいいのかがかわからない、といった表情でスミレ色の瞳を見開いていた。ユピテールはただトロイヤを抱きしめたまま嗚咽して兄であるトロイヤに謝りつづけた。
――ごめんねトーヤ。あたし何もわかってなかった。なのにあなたはこうしてあたしに色々なことを気づかせてくれている。あたし、この先どんなことがあってもあなたの側にいるわ。あたし自分の気持ちが嘘じゃないってわかったの……。あたし……あなたが好き……。
ユピテールは自分の手足に繋がれた鎖を解きはなっていった。自らが進んで入った檻の鍵を打ち壊して扉を開いていった。
――常識なんてあてにならないのよ。古い古い時代から人間社会には近親婚なんて当たり前にあったじゃない。兄弟が結婚して王と王妃になったなんて例はいくらでもあるわ。なのにあたしは慣習に縛られていた。大切なものが何かも見えてなかったのよ。ごめんねトーヤ。……そうよ、あたしたちは元々ひとつの受精卵から生まれたのよ、そこに帰ることが悪だなんて誰が決めたのよ。
「トーヤ……」
「ユーピテール、いい匂い。これ知ってる。……月桂樹、月桂樹、いい匂い」
「トーヤ、あたしがしていたパヒュームを覚えているのね?」
「これ、ユーピの匂い、いい匂い」
香りは人の奥底に眠る記憶を呼びおこす。天才と呼ばれるユピテールであっても、人と人のあいだを繋ぐものが何なのか。そうしたことには気づけていなかったのだ。日々に童話を読み聞かせ、何かを思い出せるのではないかと病室を訪ね続けた毎日が、思いもよらないことで実を結んだのだ。
トロイヤは思い出していた。暗く寒い<アキレウス>号の船内できいたエリスの声を、傍らにいたグリークと石鹸の香りを。
「ユーピテール、カラスとみずがめ、しってる? しってる?」
「ううん……しらないわ」
トロイヤから体を離して首をふったユピテールの瞳から滴があちらへと、こちらへと飛んだ。
「イソプ童話。カラスとみずがめ。きたかぜとたいよう、してる?」
「ううん……。トーヤ、あたしに話してきかせて。聞かせてちょうだい」
トロイヤは嬉しそうな顔をして語りだした。
DOXA最高議長というトロイヤの立場は、彼を窮屈な監獄に閉じ込めていた。普通の一青年であれば、自然の豊かな環境に身を置いたり、彼を良く知る人にかこまれて療養することもできただろう。育ての親であるハウとエリスの元に帰ることだって出来たはずなのだ。しかしトロイヤの肩書がそれを阻んでいたのだ。
DOXAのトロイヤがおかしくなった。そうした噂が広まること自体、戦争の渦中にある軍や世間を動揺させかねなかったからだ。
その日から、ユピテールは一刻も早い終戦なり講和の実現を心から祈るようになった。それがトロイヤへの一番の愛情表現であると感じたのだ。
ブラックグリーンのちぢれ毛をたくわえたユピテールは、それからも仕事を終えると三フロアーしたの病室に人知れず通う日々を続けたのだった。




