第59話 足音
ヨハネスは眠りから覚めた。永遠の生命をえた彼にとっては短い眠りだった。
ぼんやりとした映像が脳裏に浮かぶのが見えた。好奇心と恐れの入りまじった瞳が六つあった。しばらくすると焦点があってきて、眼の前にいる人の形をしたものが、まだ若い娘たちであることに気がついた。真ん中に立っている年長らしき娘の口元が動いて、なにか喋っている声がきこえた。ヨハネスにとって、覚醒は長い時間に感じられたが、それはほんの数秒のことだった。
「これが、お爺様なの……」
これまで世界をとびまわり、風変わりなものを目にしてきたユピテールではあったが、眼前の光景に瞳を大きく開いていた。
「気持ち悪い……あたしにはムリ」
「あたしもちょっと……」
少女たちはそれを一瞥しただけで、薄気味悪さに直撃されたように数歩うしろに下がってしまった。
「二人とも我慢しないでいいわ。ドアのところで待っていて」
「うん、そうするね」
ゼンタとセドナの声を耳にしながら、ユピテールはそれを見ていた。
床と天井のあいだに設置された円筒形の容器の中は液体で満たされていた。ときおり、気泡がふわふわと音もたてずに上へとのぼっていった。中央に浮かんでいる物体には周囲から淡い緑色の光があてられ、それを浮かび上がらせていた。物体そのものも光を発していた。全体が光るということではなかった。糸のように曲線をえがく流れ星がさかんに瞬いていたのだ。
どうみても人間の脳なんだけど……目の錯覚?――ユピテールはそれへの感懐を声にすることをためらった。
起動はしてるのよね?……――ユピテールが視線をむけた先には、ゼンタとセドナの手を借りて、同時に押し込んだ三つのボタンがあった。その側で表示灯が冷めたく青い光を放っていた。
「ユピテール、ユピテールかい?」
その声はまぎれもなくの祖父であるヨハネスの声だった。
「お爺様!……やっぱりお爺様なのね!」
「すまんな、驚いたじゃろう。いますこしましな姿を見せよう」
ヨハネスの声が消えたとたん、ユピテールの眼前に洒落たスーツをきた優しそうな老人が現れた。髪はすべて白かった。顔には威厳と凛とした清々しさがあった。眼尻に刻まれた深い皺には優しさがあった。遠くを見透かしてしまうような瞳は快晴の空のようなスカイブルーだった。
「疑似体ではあるが、いちおう儂の体温を感じることもできるはずじゃ。もっとも、お前にそうする気があればじゃがな」
老人はそういって微笑んだ。
「ついにでたわ! お化けよ! あれは本物よ……」
「いいえ、お化けじゃないわゼンタ。だって足があるもの。それに喋ってるし……」
少女たちは互いに心境を開陳しあってから、ユピテールとヨハネスの様子をうかがっていた。
「もう少しソフトな路線がいいかな?……」
そう言うやいなやヨハネスは、藜の杖を手にして仙衣をまとった老人の姿になった。
「お爺様、素敵。そっちのほうがいいわ。でも今日ここに来たのには理由があるのよ。あんまり遊んでいる時間はないの……」
ユピテールはその部屋に入ってからはじめての笑顔をヨハネスに向けていた。
「ユピ、お前は変わらんな。どんな顔をしていたのか、儂はそれさえ知らなかったのじゃが、お前の本質はなにひとつ変わってないことじゃけはわかるぞ」
「そうね……お互いに頑固なところは変わってないみたいね。でも女らしくなったことは確かよ」
ユピテールは皮肉をかえしながらも、懐旧の情がかきたてられていることを感じとっていた。
老人はその場に現れた岩に腰をかけた。
ユピテールはすっかり安堵した顔をして、持ってきたスーツケースを開いた。ケースのフタはモニターになっており、底の部分にはキーボードが設置されていた。ユピテールは画面をヨハネスのほうに向けると、早口で切りだした。
「お爺様、これを見て。必要なデータはいま転送するわね」
そういったあと、ユピテールはケースからケーブルを取り出して、ヨハネスのデータ・バンクにケーブルを接続させた。
ゼンタとセドナは黙ったまま不安そうに“二人”を見つめていた。
「ユピ、お前が儂に訊きたいのは、あそこにいる子供たちのことじゃろう」
「ええ、そうよ」
よどみなくユピテールが返答した。
「で、お前はどう考えているのじゃ?」
「そうね、あたしはこう考えたわ……」
ユピテールはデータに基づいて検証した内容を、微にいり細にわたって話しつづけた。
その声はゼンタとセドナの耳にも届いていた。
「…………」
「ユピ、恐らくお前の考えた通りじゃろう。つまり、彼女たちは特異な体質というよりも、性質をもっているといえよう」
「その性質を……お爺様はどう考えるんですか? いまのままで良い、あるいはどちらかに転換すべきだ? どう考えますか?」
「そのままでよかろう。月に一度の周期で男性としての性機能を完備する。この期間に女性としての機能も失われることはない。つまり、月に一度、あの子たちは両性を具有するということじゃな。高熱を発して命に及ぶ危機をともなうところが生物としては弱点ではあるがな……。お前が集めたデータによれば、男児として生まれてこうした機能を備えた例はわずかのようじゃな。だがその点はもう少しデータの収集が必要じゃろう。どちらにしても彼女たち自身が生きていくことに関しては問題はなにもないだろう。問題があるとすれば……」
「あるとすれば?……」
「差別じゃよ……人間というものはなにかと理由をつけて差別をするものじゃ。そういう意味では、彼女たちはそうした餌食になりやすいということじゃ……」
「原因は? お爺様は原因はどこにあるって思うんですか?」
「暗黒物質じゃろう……」
「やっぱりそうなのね」
「ほぼ間違いないじゃろう……」
黒い雲。粒子としての暗黒物質。ウイルス性と呼ばれる形態の暗黒物質は、体内に侵入することで人間の神経伝達回路を流れる電気と結びついてエネルギーを持たない質量となる。暗黒物質の洗礼を受けた者は体に重苦しさを感じて生命力を奪われてゆく。侵入した暗黒物質が大量であれば死に至ることもある。
もうひとつの形態。波としての暗黒物質は、正八面体に結晶化した暗黒物質である。それは特定の周波数に反応してテラヘルツ波を発信する。その波長は人間の心の奥底にある執念や怨念を増大させてしまう。特定の恋愛形式を好む人間がいたとしたら、そうした恋愛形式への感情が極度に研ぎ澄まされるのだ。暗黒物質が放つテラヘルツ波は極度のフェティズムを育て、異常なまでの偏執を発揮させてしまうのだ。
いまのところ、暗黒物質の発するテラヘルツ波を飽和状態にする波長、というより旋律である「クロノスの歌」が唯一の対抗措置として存在しているだけである。
どちらの形態の洗礼を受けたとしても、それは時間とともにやがて消失する傾向を持っている。ただし、全身の一部やほとんどが機械化された者に関して、暗黒物質が影響を与えることはなかった。サイボーグ化された者や人格コンピューターはその影響を受けにくいのだ。
そうではあっても、大量の粒子としての暗黒物質は彼らにとっても危険であった。いやむしろ脅威でさえあるのだ。彼らの場合、体内を流れる電気信号の量が生身の人間とくらべれば非常に多い傾向にあるからだ。
<アキレウス>号の悲劇も、<フィーリア>型の四隻が黒い雲の暗黒物質によって破壊されたことがそれを明確に証明してみせた。
そして、結晶体としての暗黒物質が発するテラヘルツ波を、肉体をもたない者たちに影響させる装置が、グラッジ・コントロールだといえる。
グラッジ・コントロールをおこなう装置は、光の本質を知った男、アグリオスによって開発された。原理は実に単純であった。テラヘルツ波と光を同時に照射すれば済むというものだったのだ。光と闇。その相反するように見える存在がひとつになったとき、肉体をもつ者も、肉体をもたない者も、ひとしく暗黒物質の影響を受けることになったのだ。
だがしかし、ユピテールにしろヨハネスにしろ、テランと呼ばれる地球圏の人々は、このグラッジ・コントロールの存在ををまだ知らなかったのである。戦争の惨禍をもたらしたのが、グラッジ・コントロールにあることを知る者は地球圏勢力にはいなかったのである。
どちらにしても、ゼンタとセドナにとってはそうしたことは大きな問題ではなかった。彼女とその両親たちに苦悩をもたらしたものは粒子であるとか結晶体であるという差異を超えていたのだ。両親ともに暗黒物質の洗礼を受けた者の子供――ゼンタとアインス。受精卵の状態から生後一年に満たない間に暗黒物質の洗礼を受けた者――セドナ、そしてエロスは暗黒物質の犠牲者といえたのだ。
彼女たちは、暗黒物質によって一ヵ月に一度、両性を具有することになったのである。
「お爺様、あたしはね、ゼンタたちを普通の体にしてあげたいの。ねえ、何か方法はないの?」
少女たちは緊張して張りつめた表情でユピテールの声が発しられている口元を見つめていた。
「生物としてどう考えるべきか……それが問題じゃな。地球上に生物というものが現れたとき、それは両性具有じゃったのだよ。というよりは雌であった。彼女たちは、子孫を残すために一定の期間ごとに雄としての機能を持った。そうして他の個体を求めることなく子孫を残してきたのじゃ。だが、それには限界も問題もあった。決まった期間にしか受精ができないこと。近親交配による突然変異体が生まれる可能性が高かったということじゃな。受精できる期間が限られていること。これは現在地球に残った生物の繁殖期というものになごりを見ることができよう。人間だけは別じゃがな。そう、その人間への進化の過程で生物は雌と雄に分化したのじゃ……」
「あたしの体も……りょうせいぐゆう、ってこと?」
「生物の授業で習った気がするわね。その難しい言葉」
ゼンタとセドナはそれぞれの思いを顧みながら、ヨハネスの声に耳をすましていた。
「つまり、古代の生物は受精の期間を増やすために、そして突然変異体の誕生をさけるために雌雄に別れたのじゃよ。これはとても子孫の繁栄に役立った。雌雄に分化したことで、雄は一度に多くの雌に受精させることが出来るようになった。一方の雌も雄の機能を捨てたことで、受精できない期間を出来るかぎり排除したのじゃ。一夫多妻制。そうしたことは、こうした生物にとっては当たり前のことであり、普通のことじゃった。むしろ優秀で強い子孫を多く残すという進化の流れにのっとった方法でもあったのじゃよ」
ヨハネスの声はそこで途切れた。繊細なセンサーが何者かが近づいてくることを感知したのだ。だが、そうしたことはおくびにも出さず、再び口を開いた。
「その進化の究極に人間がいる。そういうことじゃな。ヒトという種が地球上をおおって権勢を築けた理由は、雌雄の分化と繁殖期を撲滅したということにその原因があったといってもいいじゃろう」
ユピテールは爛々とした赤い瞳で、ヨハネスの顔に視線を射込みながら老人の言葉を待った。
「ある意味……彼女らの体と症状は退化といえよう……」
「なぜよ! なぜ退化なのよ。神様は人間を退化なんてさせないわ! 地球の生き物たちはみんな進化してきたはずよ。なのになぜ退化するのよ」
「じゃから、それは暗黒物質の……」
「違うわお爺様、それは違うわ。じゃあお爺様はゼンタがミミズと同じだっていうの? セドナがカタツムリだっていうの? 違うわ。彼女たちは人間よ。あたしだってアルビノの出来そこないだけど人間よ。トーヤだってそうだった」
「ユピ、そうだったとはどういう意味じゃ? まさか……」
ヨハネスは彼女の兄のことを忘れてなどいなかった。
「ごめんなさいお爺様。その話はあとでするわ」
ユピテールは一瞬だけ瞳に悲しみを宿らせたが、すぐに光を取り戻した。
「あたしは信じるわ。これは進化なんだってね! 退化なんかじゃないのよお爺様。なにか理由があって生まれてきた彼女たちなのよ。あたしはそう信じるわ。お爺様は生物としての雌雄で考えた。でも見落としてる部分があるわ。それは理性よ。あたしたち人間は生殖力だけで繁栄してきたわけじゃないわ。理性があったから繁栄してこれた。そうは考えられませんか?」
そのとき、ゼンタは通路を進んでくる足音を耳にした。
「セド、誰か来るよ……」
「え!? ちょっと待ってね」
聞き耳をたてたセドナはすぐにその音をとらえた。
「姉さん、誰か来るわ……足音が聞こえるの……」
「何ですって!?」
「セド、あたし怖い……」
「仕方ないわねー……ま、いいわ。姉さんの側にいきましょう。ここよりはマシでしょう?」
「うん……」
ゼンタの顔はすっかり青ざめて、唇が恐怖に震えていた――こんなハイキングだなんて聞いてなかったわ。もういやよ。早くここを出たいわ……。出たら姉さんをとっちめてやるんだから……。
ゼンタとセドナは腕を絡めているのか、しがみつきあっているのかもわからず恐る恐るユピテールのもとへと足を進めていった。
「姉さん、聞こえる?」
「聞こえるわ。……あたしね、すっかり忘れてたんだけど、どうやら執務室のドアをロックしてこなかったみたいなのよ」
「ドジすぎるわ……姉さんたら」
「あたし今日から姉さんに対する見方を変えるわ」
いまや足音は耳を塞いでいても聞こえるほど通路に響き渡っていた。“四人”は近づく足音に耳をそばだてながら、靴音のあるじが姿をあらわすのを物陰に入って待ったのだった。




