第56話 呼び覚まされた記憶――仇敵
数時間後、自動再起動モードに従って目を覚ました両親は、ろくに身動きできない体と、行き先さえわからない展望に、悲嘆の声をあげざるをえなかった。
人格コンピューターの中核部分、船内の生命維持装置と重力制御機器といった第一種機器類以外は全て破壊されていた。
船は宇宙の法則に従って、惑星や小惑星の引力に翻弄されながら、慣性加速を続けながら彷徨いはじめた。
それぞれの思いでセットした冷凍睡眠のタイマーが切れたころ、クルーたちは目を覚ました。絶望して自ら命を断った者もいた。迫りくる飢餓を受け入れて死んでいった者もいた。再度ダイヤルをセットして死へと向かう冷凍睡眠に入った者もいた。七人いたクルーは一年、二年をへるごとに減っていった。三年が過ぎたとき、生き残っていたクルーは二人だけだった。とはいっても、一人はクルーと呼べないほど幼かったのだ。
その乳児はエロスだった。彼女にとって幸せだったのは、催眠カプセルで育てられた三歳までの期間だけだった。その後、少女になるまでのエロスにあったのは苦痛だけだった、といっても過言ではなかった。
わずか三歳にして、食べものを求めて船内を彷徨い歩き、這いずりまわった。月に一度必ず高熱に襲われて真っ赤な顔をして医務室で荒い息をしながら、苦痛に耐え続けた。たった一人生き残っていた男は冷酷で残酷だった。エロスが苦しんでいても、弱ってゆく動物を面白そうな目つきで見物していた。
彼女はメールとフィメールの声と、自らの中で蠢きつづけた――生きたい。死にたくない……生きたいの……――という本能にしたがって、生きぬいたのだ。
そうさ、あたしは物心ついた頃から、知らないあいだに怨念を植えつけられていたのさ。あの男があたしを見る眼。あたしのことを芥みたいに見ていたあの眼。それだけならまだよかった。けどアイツはあたしに手を出したんだ!
「許せないんだよ!!」
真赤に灼熱したマグマのような怒りが噴火して、エロスはマントにあった鞭で床を打っていた。
「どうしたのエロス? 悪戯しずぎちゃだめよ」
「……ママ……大丈夫よ。あたしはいつも良い子だから」
そう、あたしはいつも良い子であろうとした。でなきゃあたしの居場所はなくなっちまったんだよ。パパとママに嫌われたら……あたしにはもうどこにも行く場所なんてなかったんだよ……。
「でも、あいつのあの顔は傑作だった。勝ち誇ったアイツが怯えた顔を見たことで、あたしはいつかアイツにも勝てる日がくる。そう思えたのさ……」
それはエロスが十歳を過ぎた頃のことだった。生き残った男、<フィーリア>号の船長だった男が、性のはけ口としてエロスに襲いかかったのだ。エロスは成長が早かった。彼女には年齢に見合わない妖艶さと美しさがあったのだ。
その男は、あろうことか発熱して苦痛の底にいた無抵抗なエロスを襲ったのだ。
悲鳴、怒号、暴力、絹が引き裂かれるような甲高い叫声、医療カートが倒れる音、ガラス瓶がくだけ散る音。鉗子や鋏がぶつかりあう金属音。エロスは朦朧とする意識の中で必死に抵抗した。しかし少女は無力すぎたのだ。
「なんだお前は! き、気味が悪いな……なんなんだ、お前は……出来そこないの化け物め! 吐き気がするぜ!」
「…………」
あたしは何も知らなかった。あたしは自分が特異な体だってことなんて、何も知らなかったんだ。あたしは……自分のことを普通の人間だって思っていたんだ。けど、そんなことを教えてくれる奴がどこにいたっていうのさ! 船にはあの男とあたしの二人しかいなかったんだ。だから、男っていうものが、女ってものがどういうものかさえ知らなかったんだよ。パパとママにどう相談できたっていうんだい!
「そういう意味じゃ、あいつは恩人てわけかい……」
エロスの瞳は怒りに燃えていた。紅蓮の炎が燃えさかっていた。
「ふざけるんじゃないよ!!」
あたしが道を踏み違えたのは、あの事件であいつに少しばかり心を許しちまったことさ。それまでのあたしは、あいつを殺してやりたいってずっと思っていたんだ。いつか殺してやるつもりだったのさ。
「あたしにだって希望はあったのさ。ねえ、姉さん……」
エロスの心を支え続けたもの。それは姉であるトアスからの手紙だった。ある日、エロスは催眠カプセルにあるレター・ボックスに一通の手紙を見つけた。そこには、こう書かれていた。
エロス、ごめんね。あたしを許しておくれ。
どうしようもなかったんだ。
父さんはどこにいるかもわからないし、母さんは死んじまうしね。
姉さんはあんたとちゃんと暮らすために軍隊にはいったんだ。
姉さんは一生懸命にお金を稼いで、あんたを迎えにいくために頑張っているよ。
だから、それまで待っていておくれ。
あんたにとって一番安全な場所。
あんたの面倒をちゃんと見てくれる場所に姉さんは、あんたを預けたつもりだよ。
だから、目が覚めたら、安心してそこで暮らすといい。
姉さんが迎えにいくまでね。必ず迎えにいくからね。
それまで良い子で待っているんだよ、エロス。
あたしの愛する妹、エロスへ
トアスより愛をこめて
歳の離れた姉さんは、実に賢明な方法を選んだんだ。あたしにだってそれはわかった。けど、この船は狂ってしまったんだよ。でも、姉さんからの手紙はあたしにとっては唯一の希望だった。いつかここから連れ出してもらえる。必ずその日は来る。それだけを頼りにあたしは生きてきたのさ。けど、けど……。
「姉さんは死んじまったのさ……海王星に辿り着いたとき、あたしはそれを知ったんだ……。偶然宇宙で拾われたカプセルに姉さんがいたことをね……そうだね、姉さんはいった通り、あたしを迎えに来てくれた。そういえるかもしれないね……」
それはまさに、<フィーリア>号のもつ強運が招いた奇跡としかいいようがなかった。宇宙葬に付され、広大な宇宙を漂流していたトアスのカプセルは、わずかに機能していた<フィーリア>号のセンサーに捉えられて回収されたのだ。
「けど、そのせいであたしは本当に憎かった奴がわからなくなっちまったのさ。あの男も憎い。姉さんを殺した奴も憎い、あたしを不幸のどん底に陥れたDOXAも、軍隊も、何もかもが憎らしくなっちまったのさ……そして、あたしはあの男に踊らされた……馬鹿だったよ……」
エロスはようやく仇つべき相手が誰であるかに気づいた。
「姉さんのことは仕方ないのさ……あたしにはどうすることも出来なかったんだからね。……けど、あたしを不幸にした奴は許さないよ。あたしの目や心を狂わせて、こうも人も憎むようになった元凶を、あたしは許さないんだよ……」
鞭がまた床を打つ音がした。だが、今度は悪戯だと判断したのだろう、フィメールは話しかけてこなかった。
高次元鞭のパイロット・ランプは緑の光を放っていた。
「こいつは生きている。なら仇は討てる。じゃあさっさと仕事にかかるとするかね……」
静かに立ち上がったエロスは鞭をマントにしまって、昇降ハッチを目指したのだった。




